~ 序章 ~
ひしひしと雪を踏みしめて白樺の森の中を歩く。また、雪が強く降ってきた。小川の音が微かにする。少女は小川沿いに下ることにした。それなら間違いなくどこかの村に辿り着く筈だ。狐の足跡を見つけた。きっと、狐が導いてくれるのだろう。
しばらく足跡を追うと、古代の遺跡だろうか? 石が積まれた塀が長く延びていた。そして、その先で廃屋(はいおく)を見つけた。屋根は既に朽ちている。廃屋の石壁に天幕を張り急ごしらえの屋根を作る。それから、火を起こし焚火を焚く。そして、その前に丸まり暖を取り眠りに落ちた。
明け方、夢を見た。青い天女が西域の舞を踊っている。楽しげなその一団に近寄ろうとしたら、誰かが後ろから声を掛けて来た。「あなたの道は、そっちじゃない」と。振り返ると誰も居らず、雪に覆われた薄暗い森だった。「嗚呼」と溜息を吐くと目が覚めた。
再び朝霧の立つ小川を下ると、芽吹いたばかりの草原の丘に出た。その柔らかい土を踏みしめ歩いて行くと、彼方に淡い海が見えた。それから、小さな森を抜けると、磯場が見えてきた。磯場を渡りしばらく歩くと海辺の村が見えてきた。
村は木柵に囲まれ、見張り台には薄汚れた粗末な黄色い旗が翻っていた。見張り台の男が少女を認めて大きな声を上げた。「チュクム(秋琴)じゃねえか。独りで来たのか」と驚いた様子である。利発そうな少女は「加太は居るの」と大きく声を返した。木柵の門が大きく開いた。そこには赤ら顔の異人が両腕を広げ満面の笑顔で立っていた。少女は勢いよくその腕の中に飛び込んだ。
《 第1部 ~革命児~ 》
幕間劇(20)「ジョーの天灯」
♪ シャボン玉飛んだ。屋根まで飛んだ。屋根まで飛んで壊れて消えた。
シャボン玉消えた。飛ばずに消えた。産まれてすぐに壊れて消えた。
風、風吹くなシャボン玉飛ばそ。♪
竜ちゃんが英ちゃんに覆いかぶさり風を遮り、シャボン玉の歌を歌っている。そして、日が暮れた葦原を緩やかに川風が吹いていた。英ちゃんは、懐からマッチを取り出すと天灯の灯芯に火を入れた。
天灯の作り方は簡単だ。竹ひごで枠を作り、その枠に障子紙を張り、底になる部分には針金を通し、その中心に油を染み込ませた綿を付けるだけである。竹の扱いは団塊の世代といわれた男の子達ならお手の物だ。子供時代の遊び道具は、竹トンボや竹馬はもちろん、凧やゴム動力の飛行機も竹製だった。堤防の護岸の森に作る隠れ小屋だって竹の柱だ。
そして男の子達は、誰でも自慢の肥後守(ひごのかみ)という小刀を持っていた。これは、日本刀と同じように鋼で作られている。だから切れ味は鋭い。使い慣れないうちは良く自分の指や掌を切る。そしてその度に年長の子が、竹と肥後守をどう使うのか伝授してくれるのである。痛い思いをしながら覚えた技は一生忘れることはなかった。
英ちゃんは今でも肥後守を机の引出しに仕舞っている。でも近頃は鞘から刃を出して何かを切ることはない。竹はもちろん、鉛筆だって肥後守で削ることはなくなった。机の端には電動の鉛筆削りがデ~ンと座っている。しかし、何か落ち着かないことや迷い事があると、良く真鍮の冷たい鞘を撫で回している。それだけで妙に気が静まるのだ。今や本当に心の守り刀である。
天灯の材料には事欠かなかった。今でも、堤防には護岸の為に竹が植えられている。竹の根は横に這いながら土を抱き込むので、柳の木と同様に大雨が降った時でも法面(のりめん)が壊れにくいのである。
女竹は柔らかく加工もしやすいので竹細工の材料として重宝された。そして釣り竿や、土壁などには折れず朽ちにくい男竹が使われていた。昔は戦さ場になることが多かったこの地では矢竹も多かった。破竹は非常食用にもなるので人気の竹である。竹はどこでも手に入った。
春になるとクリークには障子が浮かんだ。腕白共の指跡で造形された破れ障子である。中にはクレヨンでシュールな絵が描かれたものもある。一晩クリークにぷかぷかと浮かんでいた障子は紙が剥がしやすい。そうやって破れ障子を新しく張り替える。だから腕白小僧が居る家には必ず障子紙の予備があった。
重たい布団は化繊の軽い布団に入れ替わり、重たい綿入れ丹前も軽い化繊のジャンパーに変わっていった。だから、物置や押入れを開けば綿には事欠かない。その綿に油を染み込ませ火を付ければ簡単な熱気球の出来上がりである。幼いころに仙人さんに教わったこの作り方は今でも皆忘れていなかった。
ジョーは、昭和41年に宮崎の航空大学に入学した。船乗りの道も考えたけど、やっぱり飛行機乗りになろうと決めた。竜ちゃんに教わった泳ぎは誰にも負けない位に上達していた。美夏ちゃんの家船では何度も有明海に出かけた。海の匂いはとても好きだった。元海軍軍人だった重人さんからは、いつも海上自衛隊に入れと勧められた。ジョーなら絶対に艦長になれると言うのだ。父方のアーブル家も海軍軍人の名門だったと聞かされている。だから、中学までは船乗りに成るつもりだった。でも4年前ママが天国に行った日に心が変わった。「やっぱり飛行機乗りになろう。空の彼方にはパパとママが飛んでいる筈だ」と思ったのだ。
伊院家の祖父ちゃんが入学祝に真新しいオートバイを買ってくれた。蔵の中には古い陸王が静かに眠っている。ハレーを模したV2気筒1200ccのパワフルなオートバイだ。しかし、長い間動かしていないのでオイルも落ちているだろう。だから動くかどうか分からない。新しい単車なら宮崎を往復しても故障の心配はない。
その単車は右足シフト・左足ブレーキでカワサキW1SSといった。アメリカの大陸を走る設定なので直進性はすこぶる良い。でも日本の山道では多少疲れた。特にきついカーブを高速でクリアしようとするとステップを蹴り込まないといけない位である。でもそんな個性的な単車がジョーの気質には合っていた。
その夏、愛車W1を駆り日向灘を旅した。海風を思い切り浴びたかったのだ。お盆には家に帰ると祖母ちゃんに電話した。大平野の壮大さは好きだが、茹だるような夏のクリークの風には閉口する。だからその前に海に向かい小旅行である。
都井岬をひと巡りして青島の鬼の洗濯岩まで戻ってきた。その奇岩越しに日向の眩しい海を眺めていたら「海、めずらしいんですか」と声を掛けてきた娘がいた。「俺は、真っ平らの平野で育ったから」と声を返して振り返ると、小麦色の肌に白い歯を見せて笑っている美人がいた。その瞬間ジョーは日向の眩しい破魔矢に胸を貫かれた。
お盆で帰郷したジョーは、竜ちゃんに「春のお宮のビンビン(鳴弦の儀)の矢より迫力が有ったばい。破魔弓のごたる良か女子たい」と弓の滑らかな曲線を手で描き説明した。その見事な曲線美の娘はケイコ(蛍子)という名の青島の旅館の娘である。それから時間があれば青島通いを行っているそうである。
幼馴染が帰郷し盆相撲で汗を流すと、竜ちゃんは「皆で親不孝通りに繰り出し酒を飲もう」と誘った。その福岡行を断ってジョーはさっさと宮崎に帰っていった。薄情な断りの理由は「夏休みはアルバイトをせんといかん」と言うことであった。そしてどうやらその夏休みのアルバイト先は旅館らしい。海水浴客で忙しいそうである。「アルバイト代が高いとね?」と竜ちゃんが聞くとジョーは「知らん」と一言答えた。
福岡に帰った竜ちゃんは苦笑してそう民ちゃんに告げた。「ジョーらしかね」と、民ちゃんも笑っていた。民ちゃんは、今ジョーが兄と慕う山本先輩と付き合い始めたようだ。竜ちゃんは大学で本格的にロックバンドを初めて今は女の子達にモテモテのようである。皆、恋の季節に入ったのだ。
その年の暮れジョーは、ケイコを伴って田舎に帰って来た。愛車W1に跨った二人は、着られるだけ着て雪だるまのように膨れていた。大分側の峠は雪に閉ざされる可能性が高かったので霧島の北から出水に抜けたそうだ。それから不知火海を横目に北上しその後有明海沿いに帰ってきたらしい。だから凍死しそうな寒さには襲われなかったがやっぱり相当に寒かったようである。でも恋する二人には冬の寒さも何の園、愛の園マリである。
この雪中行軍に近い厳しい旅の口説き文句は「がばっ、すごか餅つきば見せてやる」というものだったそうだ。もちろん、餅つき以上に、正月に帰郷していた竜ちゃんや、英ちゃんや民ちゃんにも自慢して見せたかったのだ。ケイコは、マリーや美夏ちゃんともすぐに打ち解けた。
それから約束通り大賑わいの餅つきが始まった。ここ数年ご無沙汰していたその餅つきを昭雄叔父さんは大張りきりで準備したそうだ。そして、ジョーの餅つき講釈は止まらない。でもケイコは、その俄か講釈師の話を楽しそうに聞いている。祖父ちゃんの屋敷の中は久々に賑わい、それから皆がジョーの幸せそうな様子を喜んだ。餅つきがひと段落すると二人は祖父ちゃんと祖母ちゃんの前で「卒業したら結婚する」と約束した。昭雄叔父さんと京子叔母さんは目にいっぱい涙を浮かべて何度も何度も頷いていた。マリーはママの位牌に手を合わせ幸せの報告をした。
翌年の春休みにジョーは帰郷しなかった。春の新婚旅行シーズンで青島の町はとても賑わっているそうだ。だからアルバイトが忙しく帰郷できそうもないと電話があった。その代わりに祖母ちゃんと京子叔母さんには「青島ういろう」が沢山送られてきた。そしてメモには「硬くなっていたら蒸すと美味しい! !」と書いてあった。
マリーには「日向夏みかん」が沢山送られてきてメモには「レモンより美人になる! !」と書いてあった。昭雄叔父さんには「青島」とラベルに書いてある酒が届いた。「青島の酒」とは何だろうと昭雄叔父さんが興味津津に口をつけると普通の芋焼酎だった。きっと新婚旅行土産かも知れない。でもメモには「鹿児島よりも旨い日向浜宮崎芋焼酎」と書いてある。今やジョーはすっかり宮崎びいきである。
それからしばらく経ち雨期が近づいた頃、「ケイコが妊娠した」とジョーから電話が入った。曾孫誕生の知らせに祖父ちゃんは大慌てで馴染みの宮司の許に相談に走った。宮司は麛歴(かのこれき)を引っ張り出し「秋のこの日が良かろう」と結婚式の日取りを決めた。
祖母ちゃんは近隣の娘達を掻き集め、浦安の舞を仕込み始めた。成人を迎える前の娘達の舞は長らく途絶えていたので大騒ぎである。衣装や鈴は宮総代が大事に保管していたので大丈夫であったが舞子の練習に時間を要した。
昭雄叔父さんは鐘崎の知人に鰤を頼み、島原の知人に大鯛を頼んだ。京子叔母さんは鰤や大鯛が駄目だった場合に備え餅つきの手配を整えた。いずれの事態になろうともジョーには大祝言を上げさせる心意気である。
一族は知人友人に、電話を入れ電報を打ち葉書を送り大祝言に向けた一大行事を始めた。英ちゃんには葉書で一報が入った。竜ちゃんや民ちゃんには両親から電話で知らせが入った。行方が分からないマリーには連絡が取れなかった。
ジョーは、祖父ちゃんと相談し、宮司の進言どおり卒業を待たず秋には結婚式を行うことにした。そして夏、ジョーは一人で結婚式の準備のため帰郷した。既に神社や式場やらは祖父ちゃんが手配していてくれていた。でも、宮崎の親戚が泊る旅館の手配やあれやらこれやらで帰郷したのだ。
久留米の街で用事を済ませ、火祭りで有名な神社の脇を走っている時のことだった。左カーブを曲がろうとした矢先に、神社の生け垣の下から、子猫が飛び出してきた。白に茶色と黒の模様が入った三毛猫だった。猫を避けたのでただでさえカーブが苦手な愛車W1は、右脇にあったレンガ塀に衝突した。
その勢いで、ジョーの身体は空高く舞い上がった。ジョーは、当時はまだ珍しかったヘルメットを被っていた。しかし数十メートルも飛んだら役には立たない。レンガ塀にぶつかる瞬間「パパとママが迎えにきた」そうジョーは感じていたのかも知れない。そして、ジョーは小さく「テイク・オフ」と呟いた。
英ちゃんが下宿の小母さんに「電話よ」と呼ばれ降りていくと、玄関に巣食ったツバメの巣から雛が顔を出した。もう巣立ちの季節だ。英ちゃんは、きっとジョーの結婚式の打ち合わせだろうと思い受話器を取った。電話口の向こうで父ちゃんのぶっきら棒な声が響いた。「ヒデ、ジョーが死んだ」と、英ちゃんは一瞬、言葉の意味が理解できなかった。だから不安を孕んだ声で「結婚式の話やなかとね?」と聞き返した。でも受話器からは「明後日が葬式たい」と父ちゃんの沈んだ声が返ってきた。
英ちゃんは体の奥の方からワナワナと震えが襲ってくるのを必死で堪えていた。そして、下宿を飛び出し美夏ちゃんのアパートに向かった。でも、マリーは美夏ちゃんのアパートには居なかった。1月、武吉が安田講堂で逮捕された。保釈後行方を晦ましていたが先頃、沖縄にいると葉書が届いた。その葉書を持ってマリーは沖縄に旅立っていた。だから、英ちゃんは、美夏ちゃんと二人で夜間急行列車の桜島に飛び乗った。
通夜の日、美夏ちゃんは、既に知り合いになっていた身重のケイコと一晩中抱き合って泣き崩れた。民ちゃんは悲しみを押し殺し黙々と通夜の裏方を手伝った。葬式の日、竜ちゃんは、友人代表の挨拶で「ジョーは、空高く舞い上がって、降りてこれんごとなった」と言った。
ジョーの初盆の日、4人は思い思いにジョーへの送る歌を詠んだ。そして、それを和紙に認めた。それから七夕の短冊のように天灯に吊り下げて飛ばした。
天(あま)高く 入道雲の 上までも 魂(たま)あがらせて 永久に立つ君
隈 美夏
連帯と シュプレヒコール 消えてなお 我天仰ぎ 孤立恐れず
林田竜巳
恋すれど 心届かず 小ぬか雨 風よ晴らして 浅き夢なら
福田 民
紅(くれない)の 野辺に染まりし 天気球(あまきたま) 友は繰れなく 暮れなずむ夏
新井英明
~ 小娘が朝霧から至る ~
女帝が世を束ねるのは、父系制度では幻に終わる。女帝は器で終わり神気を成さない。つまり巫女ではない。巫女とは霊気に交わる存在である。したがって女族長は皆巫女である。精子は人間の男に饗させるが、生まれた女子は神様の子である。
口を尖らせ男の論理を喝破しても、それは父系制度の上での事であり。男社会の論理を突き抜けられない。もし彼女が女帝の道を歩もうとするのであれば、彼女は、母系制度の論理に立たなければいけない。
父系制度での女は逃げの姿勢である。「女ごときに」と発するのは男共ではない。それは祖母であり母である。彼女らは娘に「女は出すぎるな」と教える。その防衛本能の上に父系制度は成り立つ。だから戦い死ぬのは男共の役割であり、多くの生物がその戦術を用いる。だが、それは死口(しにくち=死者)の社会制度である。
古代、生口(いきくち=生者)の社会制度があった。母系制度である。生き物は雌から命を受け継ぐ。この制度は陽の制度だろう。対する父系制度は陰の制度だと思える。しかし、二つの制度に優劣をつけるのは人間には叶わない。それは、神様の領域の判断である。
朝露を含んだ麦の穂が、白い綿毛のように緑の畑を蔽っている。その上に、黄色い朝日が真ん丸と霞んでいる。濃い朝霧の中を、ツァオ・モンドゥー(曹孟徳)は、地元の小僧を道案内に、馬に跨り、ゆっくりと進んでいる。「美しい。白い薄絹をまとった貴婦人のような光景だなぁ。そして、この麦畑も二ッ月もすれば収穫だな」と、彼は呟いた。
すると傍らで「あぁ~旨そうな目玉焼きのようだ。麦粥も腹いっぺぇ喰いてぇ~」と小僧が朝日を見ながらつぶやいた。モンドゥー(孟徳)は、呆れながら「お前は、花より団子か?」と言った。小僧は「当たり前だよ。去年は不作でまともに朝飯にもありつけねぇ。それにしても旨そうなお日様だべ」と小僧は涎(よだれ)を零(こぼ)しそうである。
彼は、苦笑いをしながら小僧の言い分も無理はないと思っていた。この二年間は不作続きだった。その上、前任の県令は、民の窮状より己の私腹を肥やすことばかりに精を向けていたらしい。そうであれば、民衆の朝廷に対する不信は、爆発寸前であろうとも思った。
常日頃「まずは、腹が満たされないことには、政り事は始まるまい」と、彼は思っていた。そこで、一昨日街で出会ったこの小僧を、道案内に立て、田畑を見て回っているところである。小僧の名は、猫目と呼ぶことにした。歳は十五歳だというから、彼とは八歳離れている。兄と末の弟といった歳の差だ。「こいつは、田舎者だが、なかなか賢い所もあるようだ」そう思い従者にした。
役所には、五日前に着任したのだが、どうやら「中央のお偉さんのバカ息子が天下ってきた」という雰囲気で、歓迎はされていないようである。あと数日もしたら従兄弟のシャーホウ・ユェンラン(夏侯元譲)達がやって来るのだが、それまで、退屈しのぎに街でも見聞しようと、独りぶらぶらしていたら小僧が声を掛けてきたのだ。
小僧は「兄さん、都のボンボンだろ。世間知らずな顔してるべ。どうだい、オイラを道案内に雇わないかい。この街は意外と物騒なんだべ」と馴れ馴れしく寄ってきた。孟徳は「いくらだ」と聞いてみた。小僧は、にたりと笑みを浮かべると「いくらにするかは兄さんが決めてくれ。五日の間オイラを使って五日後にいくらに値するか決めてくれて良いべ」と言った。
孟徳は、面白いやつだなぁと思い「小僧、名は何という?」と聞いてみた。すると小僧は「何て呼びたい? 呼びたい名で良いべ」と答えた。彼は、呆れ気味に「小僧には、名がないのか?」と聞いた。小僧は、猫目をきょとんと宙に向けて「親がつけてくれた名はある。でも、仲間は別の名で呼ぶし、街の皆は、また別の名で呼ぶ。オイラは、名なんてどうでも良いべ。良い名で呼ばれたって、腹がいっぱいになるわけじゃあんめぇ」と、嘘吹いた。
孟徳は、可笑しくなり「おもしろい奴だな。じゃぁ猫目で良いか?」と言った。猫目は「案外単純だなぁ。オイラが猫目だからそのまま猫目かい」と笑いかけてきた。彼は「物事は単純が一番良い。真実はいつも単純の中にあるのさ」と猫目に笑いかけた。
猫目は「ふ~ん。そうかも知れねぇな。じゃぁ兄さんは何と呼べば良いべ」と聞いてきた。「猫目の好きに呼べば良い」と、孟徳が答えると「それなら天下様と呼ぼう。良いべ」と言った。彼は呆れて「そいつぁ大仰だなぁ」と言ったが、猫目は「気にするなよ天下様。大したぁことはないよ。ただの呼び名だべ」と無碍もなく答えた。確かに「名が体を表すことなどない」孟徳は、その手の妄言が大嫌いである。だから、猫目を気に入った。そして「ただの呼び名」かと苦笑しながら、猫目を道案内に、近郊の田畑を見て回ろうとしているところである。
早朝の田畑には川霧が流れていた。早い春が訪れたようである。猫目に手綱(たづな)を引かせてゆるりゆるりと進んでいると、突然朝霧の中より裸馬に跨った少女が現れた。手足の長い、水の精霊のような娘である。十二~三歳だろうか? 大柄だがまだ頬が幼く薄桃色である。そして、その少女もまた裸体のままである。長い髪や、足先からは、まだ、ぽたぽたと、水の滴りが落ちている。
少女を乗せた馬が道を横切ると、霧が薄れ赤い髪が燃え上がった。少女は、孟徳と猫目には見向きもせず、右の脇道に過ぎ去った。猫目は、あっけにとられ、先ほどの空腹も忘れたかのようにポカ~ンとしている。そして「水天様? それとも鬼灯?」と呟いた。孟徳の頭の中に「小娘朝霧至」という一節が浮かんだ。
それから「おい猫目。左の脇道の先には何がある」と聞いた。「あっ! 小川があった。水浴びしてたべか?」と猫目が答えた。「では、右の脇道には村があるのか?」と、孟徳が聞いた。「あぁ変な奴らが住んでいる村がある」と猫目が答える。
更に「変な村とは?」と、聞くと「黄色い猿どもの村だ」と鮸膠(にべ)もなく答えた。どうやら猫目は、その村と良からぬ縁があるようである。孟徳が「案内せい」というと、猫目は乗り気ではない様子である。「早くせんか」というと、猫目は、渋々手綱を引き始めた。しかし、「でも、天下様。大したぁ面白いことはないべ。ただの風変りな村だべ。行ってもつまらん所だべ」と足取りが重い。
そうして、だらだらと進むと、葦原の中に小さな村があった。村の入り口には、黄色い旗が数本たなびいている。村の広場には、三百人ほどの村人が集まり何やら祈りの最中である。そして、祈りを執り行っているのは、先ほどの赤毛の少女である。黄色い衣に身を包み、水を湛えた鼎(かなえ)に向かい祈り、そして祈り終わると、その水を小杯に移し村人に配っている。
村の男が、その様子を見ていた孟徳と猫目に気づき、近づいてきた。壮年の男は笑みを浮かべて「これは、これは県令様。こんな貧しい村にどんな御用でしょう」と聞いてきた。笑みを浮かべてはいるが男の目は鋭い。それに程好い緊張感を漂わせている。文武に優れている孟徳は、「この男は相当の武人だな」と思った。それに赴任して日がない孟徳を、県令だと知っていることも只者ではない証である。
そこで、「いや、だだの通りがかりだ。大意はない。直ぐに立ち去る故(ゆえ)気に留めんでくれ」と快活に笑い返答した。しかし、男は「県令様。折角(せっかく)おいでになりましたのですから、朝餉をお召し上がってください。粗末な芋粥ですが味は保証しますよ」と、誘った。
孟徳は、「いや、いや、それには及ばん」と断ろうと思っていたが「いただきまぁ~す」と、猫目が頭を下げ大声を出した。男は、笑顔で二人を導いた。思わぬ事態になったが、孟徳も馬を下りて村の広場に向かって歩きだした。
広場の中央では、赤毛の少女が、村人に芋粥を注ぎ分け与えていた。そして、少女は、今は薄緑の衣を纏っていた。あの黄色い衣は、祭服だったのかも知れない。男が「チュクム様。県令様がお見えです」というと、少女は振り返り、フフンと鼻で笑う素振りを見せた。それから「何か、ご用でも?」と、大きくはないのだが、体の芯に響きわたる声で言った。
男が「いや、御用ではないのですが、朝餉をおめしあがり頂こうと、私がお誘いしました」と言った。チュクム(秋琴)は「あっそう」というと、高杯に芋粥を注ぎ、脇の台の上に二つ置いた。そして、「どうぞ」と言うと立ち去った。「随分と無愛想な娘だなぁ」と、孟徳がその後ろ姿を見ていると、チュクムは、村の子供達に芋粥を配り始めた。そして、ひとりひとりを抱き寄せ愛おしむ笑顔を向けている。
猫目が「天下様。嫌われたな」と言った。孟徳は、苦笑しながら芋粥を口にした。すると得も言われぬ美味しさである。「うむ、これは!!」と、唸ると「美味過ぎる~ルルム。こりゃ天下一の芋粥だべ~」と猫目が大声を上げた。その声にチュクムは振り返り、そして再び、フフンと鼻で笑う素振りを見せた。
孟徳は“この粥は、あのチュクムと申す娘が作ったようだな”と確信した。するとその心の内を読んだかのように、男が「チュクム様の手にかかると、苦菜でさえ甘菜に変わります。まさに生まれついての料理上手ですよ。それに、ただ旨いだけでは有りません。チュクム様の料理を口にすると奇病さえ治るのです」と微笑みながら言った。
その男の話に“どうやら、猫目がいう変な奴らとは鬼道衆か。ということは、ここはタイピンダオの村か”と、心の内で合点した。八年ほど前にヂャン・ジャオ(張角)という学士がタイピンダオ(太平道)という教団を立ち上げた。その噂は親父殿を通じて聞き及んでいた。そして高官共は彼を危険分子として警戒していた。
当時、孟徳は十五歳で元服したばかりだった。程なく妻を娶った。ひとつ年下の妻の名は、リィゥ・リーシャ(劉麗霞)と言った。小柄でやさしい女だった。しかし、リーシャ(麗霞)は、この春三人の子を残して世を去った。まだ二十二歳の若さであった。
幼な妻リーシャを喪(うしな)った頃、孟徳は、都の警備隊長をしていた。そして、ある夜、遊び呆けた金持ちの一行が禁令を犯して城門を潜ろうとした。日が落ちると、城門は閉ざされ、夜間の通行を禁じられていた。その禁令を犯した者は百叩きの刑である。
孟徳が赴任する以前は、その禁令が緩かった。役人に袖の下を忍ばせれば、不問にしてくれるのである。しかし、この金持ち一行は不幸だった。警備隊長が孟徳に代わっていたのである。その上、愛妻のリーシャに先立たれ苛立っていた。
曹家軍閥の跡取りツァオ・モンドゥー(曹孟徳)は、二十歳で孝廉(こうれん)に推挙され官職についた。孝廉とは、官僚の登竜門である。学問に優れ、品行方正でなければ推挙されない。普通の士であれば、四十歳頃になって推挙されるのが通例であった。だから、孟徳の孝廉推挙は、破格の処遇である。妬ましく思う者は「金品で官職を得たのだ」と噂した。しかし、孟徳は本当に優秀だった。
遊び好き、女好きという欠点を除けば、文武共に抜きんでていた。確かに孟徳の祖父や親父は、漢王朝の高官では有ったが、孟徳の資質は、その贔屓目(ひいきめ)を凌(しの)いでいた。だから、祖父や親父の体面を慮(おもんばか)った役人も多かったが、孝廉推挙は、彼の実力だった。
但し、女好きで悪童であることも広く知れ渡っていた。しかし、それ以上に孟徳の義侠心は強かった。だから、金持ちの不正や暴挙は許せない性質(たち)なのである。金持ち一行の一人に、やはり高官の縁者がいた。金持ちは、その高官の名を出し、門を開くように迫った。それが、孟徳の癪(しゃく)に障(さわ)った。
孟徳は、部下達に命じて、その金持ちを百叩きにした。金持ちは、以前からその部下の役人達に、袖の下を忍ばせていたので、手加減してくれるように目配せした。彼は、それを見逃さなかった。そして「手加減をした者は俺が切る」と刀を抜いた。部下の役人達は、賄賂の件が露見することも恐れて、とうとうその金持ちを打ち殺してしまった。
殺された金持ち以外は釈放されたが、縁者を殺された高官は、孟徳を罷免するように申し出た。しかし、彼の祖父や父親の手前、降格させる訳にもいかない。そこで、地方の県令に昇格させることで、体良く中央政権から追い出したのである。
腐敗した中央政権などに未練のない彼は、さばさばとした気持で地方に下った。しかし、奇妙な折衷案を考えだした官史がいるものである。孟徳は奇妙な思いに駆られてその主を調べさせた。そして、都を発つ前に一献傾けたいと使いを出した。現れた男は旧知の間柄だった。孟徳の郷里の県令だった男である。リーシャ(麗霞)との婚礼にも参列してくれていた。
その前年、県令は都から左遷されて来た。元は、司隷校尉の下に仕える行政官だった。だから、高官の不正を暴こうとしていたそうだ。その為、煙たがられ、かと言って罷免する理由も見当たらないので、昇進させて都から追い出したようである。だから、この奇妙な折衷案は己の体験談だったのである。なかなか機知に富んだ男である。どうやら、その官史の父も冤罪を掛けられ無念の最期を遂げていたらしい。まったくこの王朝の腐敗は、底が知れない。二人はその夜意気投合して飲み明かした。翌日、孟徳は独りで旅立った。三人の子供は両親に託し単身赴任である。
翌年、孟徳は、後妻を娶った。曹家の跡取りであるツァオ・モンドゥー(曹孟徳)には、独り身で居ることは許されない。それに幼い三人の子供達にも母が必要である。妻は、母方の娘が選ばれた。孟徳の母は、実母ではない。親父ツァオ・ジュガオ(曹巨高)の正妻ではあったが、子に恵まれなかった。そこで、自分の召使を父の妾にして、孟徳達兄弟を産ませた。養母の名はディン・メイリン(丁美玲)である。
そして実母の名はリンリー(鈴麗)だ。孟徳は、幼くしてメイリン(美玲)に引き取られたので、実母鈴麗の面影が薄い。しかし、実母も曹家の屋敷内に暮らしており、孟徳の弟や妹達は、実母に育てられた。曹家の後継ぎである孟徳だけが、正妻美玲に引き取られ育てられたのである。
養母美玲の育て方は溺愛だった。だから、孟徳は、腕白小僧に育った。多少酷いいたずらをしても、美玲が庇ってくれるのでへっちゃらである。しかし、孟徳はとても賢くもあった。嘘つきが上手なのである。孟徳の幼名は、ジィルー(吉利)であったが、養母美玲は、アーマン(阿瞞)と呼ぶ。私の可愛い嘘つきちゃんという所以(ゆえん)である。
幼子の嘘は、自分を守る手段である。嘘が上手い幼子は、観察眼が鋭い所がある。本当のことを言えば、人間関係が気まずく成ることは多々ある。大人でも人付き合いの上手な人ほど、上手く嘘をつく。養母美玲は、阿瞞のその賢さに気づいていた。彼女は、丁家のお嬢様なので教養も高かった。だから、様々な学問も阿瞞に教え込んだ。中でも彼の才能が光ったのは文学であった。美玲も詩を読むのが上手かった。
劉家から娶ったリィゥ・リーシャ(劉麗霞)が亡くなると、養母美玲は、丁家から孟徳の後妻を選んだ。その娘は、美玲の姪でディン・チュンユー(丁春玉)という。美玲に似てとても優雅で賢い娘である。今、チュンユー(春玉)と孟徳の子供達は、曹家の本拠地である沛国の譙県に居る。だから、孟徳は単身赴任である。
孟徳は、まだ先妻のリーシャの面影を、胸の内から消すことが出来なかった。だから新妻のチュンユーとは今のところ余所余所(よそよそ)しい関係である。それに、養母美玲から孫達を切り離すことも出来なかった。美玲は、孟徳以上に、孫達を溺愛しているのである。
乱暴者で好色の噂が絶えない孟徳だが、家族に対する愛情は、他の誰よりも深かった。だから、養母美玲と子供達が幸せであれば十分なのである。その為、単身赴任の寂しさなど気にも留めていない。それに、従兄弟のシャーホウ・ユェンラン(夏侯元譲)を呼び寄せた。ユェンラン(元譲)は、孟徳と、生まれ年が同じである。だから、幼い時からの悪童仲間である。もう一人の従兄弟シャーホウ・ミャオツァィ(夏侯妙才)も、元譲と共に呼び寄せた。この二人が居れば左遷暮らしも案外楽しい物になろう。と、孟徳は踏んでいた。
夏侯妙才と夏侯元譲が赴任して来ると、孟徳は、先頃会った「小娘朝霧至」の話をした。興味をひかれた二人が是非に尋ねてみたいと言い出したので、孟徳は、猫目に案内させた。しかし、村は忽然と消えていたらしい。
県令赴任から二年目の秋、孟徳は、いきなり県令の職を解かれた。理由は、孟徳の親族に罪を犯した者が出た為である。大きな罪ではない。要するに例の高官が動いたのである。しかし、孟徳は、県令の職にも未練はない。だから、さっさと妻子の待つ故郷に帰って行った。
県の民は泣いて別れを惜しみ、大勢が県境まで見送りに付いてきた。そして、猫目もこの街を捨てた。つまり孟徳に仕え付いて行ったのである。この年、猫目も十七歳になっていたので、孟徳は、兵士であれば伍長に当たる給金を与えた。破格の待遇である。
しかし、猫目は有り難がっている風ではない。独り身の猫目である。金に欲はない。ただ、天下様の供をしているのが楽しいのである。孟徳は、郷里に落ち着くと、どうしても、あの鬼道の娘が気にかかって仕方がなくなって来た。そこで、猫目に探索をさせることにした。「タイピンダオの様子を探り、あの娘の行方を捜せ」と言われて猫目は渋った。どうやら猫目は、タイピンダオ(太平道)と何やらいわく因縁が有りそうである。
孟徳は、夏侯妙才と夏侯元譲を誘い、猫目を連れだって街に飲みに出た。そして、三人で酔い潰した。猫目は思った以上に酒豪で有った。三人がかりでなければ、孟徳が酔い潰されるところであった。
酩酊した猫目は、泣き上戸だった。ボロボロ涙を流しながら、夏侯元譲に寄りかかり、身の上話を始めた。猫目は父を知らない。しかし、それは猫目だけではない。街に溢れている浮浪児達は、大抵は父を知らない。母を知らない子も多い。その点、猫目は多少幸福者であった。母と二人暮らしだったようだ。その母は、大家の下働きをしていたようである。その時に猫目を孕(はら)み暇を出された。
その際、結構な大金を渡されたようで、猫目が物心ついた時には、小さな小間物屋を営んでいた。猫目が七歳の時、その母が胸患いに成った。そして、太平道という教団に出会った。一年程ジャオの治療を受け、母親は胸患いが完治した。そして、そのまま小間物屋を売り太平道に入信した。
しかし、猫目は大きくなるにつれて、その教団に馴染めなくなってきたようだ。そこで、十五歳に成った時に、母を置いて独り教団を飛び出した。それ以来、母には会っていない。猫目親子が居たのは、冀州の太平道である。孟徳があの娘と出会ったのは、県令として赴任していたドゥンチュウ(頓丘)県の外れである。ということは、あの村は青洲の太平道であろう。 冀州の太平道と、青洲の太平道とがどう関係しているのかは、猫目にも、そして孟徳にも分からない。彼は、妄言や迷信の類が大嫌いである。だから、本来、鬼道の類も嫌いである。しかし、どうも、あの娘と太平道は、気にかかるのである。そこで、「これは厳命である。タイピンダオの実態を調べてこい」と猫目に言い渡し、渋る猫目を青洲に旅出させた。後に分かる話であるが、実は青洲が猫目の生まれ故郷だったのである。しかし、この時は、まだ猫目は知る由もない。
~ カンチョン(康成)先生 ~
少し緑がかった白い華麗な花が、緑なす野の一面に咲き乱れていた。初夏の風が花びらを揺らした。実がつくと、切れ目を入れて、その実の液を採取するのである。したがって、ここは薬草の畑である。その白い花畑の中を、真っ赤な髪をたなびかせ、チュクム(秋琴)が村に降りてきた。どうやら、北の丘を越えて来たようだ。
背には何やら大きな荷物を背負っている。そして、まだ十三歳の小娘だというのに、帯には倭剣を指している。その美しい錦で巻かれた倭剣は、伯母さんからの贈り物である。伯母さんは、東海に浮かぶ倭国の巫女女王らしいが、いやはや、小娘に剣を贈るとは、物騒な一族である。しかし、チュクムの眼差しには、その倭剣を持つのにふさわしい鋭さがある。
チュクムに剣を教えたのは、バイヤン(白羊)という倭人である。倭人バイヤンは、元は巫女女王の近衛兵である。バイヤンの剣の老師は、剣の項権と呼ばれる剣聖である。巫女女王は、倭剣と共に、このバイヤンを、愛姪の守り刀に送ったのである。したがって、巫女女王の近衛兵を守り刀に持つ小娘は、小さな女王でもある。
程なく、巫女女王の剣バイヤンも、丘を越えチュクムの後ろ姿を追ってきた。そして、背には愛弟子に倍する大きくて重そうな荷物を背負って小娘は、既に村の門を潜っている。
そこは、三百戸ほどの小さな村である。村の東には、小川が流れ、その水を引いて溜池が造られている。村の南は、緩やかな斜面になっており、山羊や豚や鶏やといったように、家畜達の放牧地である。その下には、水田が広がっている。村の西は、畑を挟んで雑木林が有り、その先は、急峻な山肌が、天に聳(そび)えている。その溜池の傍に、葛の蔓が勢い良く巻きついている板葺の四阿(あずまや)が在る。その中では、初老の男と若い女と少女が、何やら手作業を続けている。
チュクムが村に入ると、村人は皆赤毛の小娘に挨拶をした。小娘も、挨拶を交わしながら、四阿(あずまや)に向かっている。そして、「ねぇ、ミヨン。頼まれた食材買ってきたよ」と荷物をかざして見せた。
ミヨン(美英)は、顔を上げ、眼尻に皺を寄せ笑いかけた。そして「有難う。荷物はその台の上に置いて、池で足と手を洗って来て。美味しい水菓子を用意しているわよ」と声を掛けた。チュクムは、花飾りの刻まれた革のサンダルを脱ぎ、池に入って行った。
そして、バイヤンが「加太先生。頼まれた薬剤は全て買ってきましたよ」と声を掛けた。加太は「いやぁ。すまなかったなぁ」と声を掛けると、瓢(ふくべ)を持ってきて、椀に酒注ぎ「まぁ駆け付け三杯といこう」と、干し鮑干し海老焼き餅の三品を並べた。
手足を洗って、小娘が四阿に入って来た。干し海老を一尾口に運ぶと「まぁ、用意周到だこと」と二人を一瞥し。それから「シカは、どれが良い?」と、目くばせし焼き餅を一切れシカ(志賀)に渡した。シカは、ぺこりと頭を下げると「有難う。チュクム」と礼を言った。
ミヨンが「まぁ、まぁ、お昼からもうお酒なの?」と言うと加太は「良いではないか。生きている内に、美味い物を食べ、美味い酒を飲む。これが至福の時さ」と自分の椀にも酒を注ぎ笑った。その言葉を聞きバイヤンは「仙人や仙女でも、いつかは死ぬのだろうか?」と、ぼんやりと考え酒を口にした。そして「嗚~甘露、甘露。やっぱり仙人の酒は美味い」と舌鼓を打った。
チュクムが「カンチョン先生は、どこ?」と聞いた。するとシカが「カンチョン先生は、友達の所に遊びに行ったの。明日には帰るわ」と教えてくれた。ジェン・カンチョン(鄭康成)先生とは、チュクムの学問の先生である。そして、チュクムの父ヂャン・ジャオ(張角)の学問の先生でもあった。後の世では鄭玄と呼ばれる。
先生は、もう五十一歳の高齢ではあるが、二十人程の弟子達が同行しているので、心配することはない。先生の友達とは、ルー・ヅーシー(盧子幹)先生のことだろう。ヅーシー先生は後の世で盧植と呼ばれる。二人は旧友であり、学友である。ヅーシー(子幹)先生の所なら、きっと陸路ではなく、ポーハイ(渤海)を渡った筈だ。渤海の港町ジンメン(津門)からなら、ヅーシー先生の所まで四日もあれば十分である。シカのいうように、明日帰るのであれば、今頃は、渤海の上で帰り船かも知れない。
カンチョン先生と加太も旧友であった。そして、ジャオとチュクムを先生に引き合わせたのは、加太であった。先生は、少年時代に、加太に出会ったそうだ。勉強が好きな少年だったが、先生の両親は、貧しい小作人で「百姓に学問はいらん!!」という人であったらしい。きっと、学問などする財のゆとりなどなかったのだろう。
そこで、加太から薬草の作り方を教えてもらい、それを売って書物を得た。読み書きが達者になると、地元の役人に成れた。それから更に学問にはげみ、二十二歳で、都の太学(たいがく)に入った。そして、太学で学友になったヅーシー先生と一緒に、当代一の大学者マー・ジーチャン(馬季長)先生の門を潜ったようだ。後の世では馬融として知られる風変りな学者である。
その後、盟友ヅーシー先生は、官僚に成った。しかし、一本気な先生は、直言して罷免された。そして、その不遇を気に病むこともなく、酒を楽しみ遊び呆けていたようだ。だが、優秀な先生は、程なく宮廷に呼び戻され官僚に戻った。ところが不遇を気にしないヅーシー先生は、また直言して罷免されたが、やはり程なく宮廷に呼び戻された。そんなことを繰り返し、先生は人生を謳歌していたようだ。それは裏返せばそれだけヅーシー先生が優秀な官僚だったのである。
対して、カンチョン(康成)先生は、学問の虫であった。立身出世や、蓄財には目もくれなかった。だから、真の学徒は、カンチョン先生の許に集った。十四歳に成ったばかりのジャオも、その一人だった。
ジャオは飛びぬけて優れていた。しかし、カンチョン先生は、ジャオの侠気を危ぶんでいた。ジャオは、学問の中だけには収まらない物を内に秘めていた。その年の晩秋、カンチョン先生は、突如、故郷に帰ってしまった。時勢の危うさを、一足早く感じ取ったのかも知れない。王朝は腐敗し、異臭を放ちだしていた。
カンチョン先生は、ジャオを、盟友ヅーシー先生に託した。ヅーシー先生は、大男で豪快な人だった。酒を飲ませたら底無しである。そして、酒にも女色にも溺れない豪快な人である。
ユェファ(月華)ことユナ(優奈)が、海魂(ゆなたま)と成り、東海の天(あま)に降った時、チュクムは、まだ一歳だった。漢王朝は、改革派と守旧派の争いが、激しさを増していた。守旧派は、皇帝の権力を操り、改革派の多くを公職から追放し、都から遠ざけた。改革派の太学生は、怒り過激さを増した。そして、若き改革派の宦官達は、声を潜めた。
ジャオは、恩師達の禁を解くべく、仲間達と奔走する。そして、徐々に、改革過激派の中で、頭角を現していった。その様子を、父のパク・カロ(朴華老)と、母のヂャン・ウェン(張文)は、不安な思いで見守っていた。ジャオは、殆ど家に帰ってこなくなった。だから、チュクムは、祖父ちゃん祖母ちゃん子で育った。
陽気で人づきあいが上手かったジャオは、優奈の死と吹き荒れる政変の中で、明るさを失い寡黙に成っていった。そして、一時は治まりかけていた喘息の発作に、時折襲われ始めた。そして二十四歳になった時、再び政変の嵐が巻き起こった。彼は王朝を破壊する危険分子として投獄された。そうして官僚への道は断たれ反逆者の道を歩み始めた。
張家は高名な官僚を輩出した一族である。そして学生運動にのめり込まなければ彼は一族の中でも最高位につける人材であった。だから、守旧派とて極刑にしようとは思ってはいなかった。そこで、身内や縁者の官僚達は要所要所に手をまわしどうにか釈放させた。
獄から出て故郷に戻り、謹慎状態となった彼は弟達と薬草を採って売り、商人の荷物運びを手伝いながら、なんとか生計を立てていた。薬草の採集は、もっぱら末弟のヂャン・リャン(張梁)が担った。
リャン(梁)は、十三歳の頃から、加太に薬草の見分け方を学んでいた。だから、十七歳になったリャンは、もうりっぱな薬草採りである。ジャオは、その薬草から薬を作った。彼は、太学で『黄帝内経』を学んでいた。ひとつ違いの次弟ヂャン・バオ(張宝)も、ジャオと同じように太学で学んでいたが、兄に連座させられ退学になっていた。
バオ(宝)は、化け学に長けていた。二十歳の時に加太に出会い、その時に加太がチュクムの為に飛ばした天灯に驚き感銘したのである。それ以来、火を噴く薬や、涙が溢れる液など、奇妙な化け学にのめり込んでいた。しかし、兄が、改革派の活動に奔走し始めると、彼もそれに従った。バオは、思想家ではないが義侠心は兄に似て強かった。
この頃、父のカロ(華老)は、亭長の任に在り、暮らし振りには不自由はなかったが、ジャオの件に絡み、解任されてしまった。そこで、母のウェン(文)と共に、近隣の子供達に読み書きを教え、辛うじて生計を維持していた。
そんな貧しい一家の暮らし振りの中にあっても、幼女チュクムは、すくすくと育っていた。加太の一家がチュクムの見守りにやってきて以来、チュクムの子守りは、もっぱらシカ(志賀)の役目に成った。だから、チュクムは、シカをお姉ちゃんとして育った。シカは、加太の娘になって以来、あまり歳を取っていない。それは、ミヨン(美英)も同じであった。どうやら二人は、仙女に成ったようである。
加太は、ジャオに、不思議な薬の作り方を色々と教えた。シカは、チュクムに、エイルの蘇りの力を身につけさせた。だから、じゃじゃ馬娘のチュクムは、多少の怪我をしても直ぐに治った。その為、益々怖いもの知らずに育っていった。
ジャオとバオは、流民の村に良く出かけた。王朝の腐敗と、豪族の台頭は、多くの流民を生み出していた。そして、辛うじて、狭い田畑にしがみ付き、日々の暮らしに窮している貧民が、数多(あまた)いた。
自然界では多くの生き物が己の縄張りを作る。そして「俺はここで生きているぞ」と主張するのである。だから、人間が作る国境もある意味「生きる上での安全装置」でもある。つまり、その安全装置がなければ、人々は生存競争に明け暮れ、群雄割拠しなければ成らない。しかし、その安全装置を維持するのは容易ではない。だから善良な為政者は、そのことに腐心するのである。
ところが、腐敗した王朝では、そんなに自分の心を苦しめてまで、民の為に生きようと苦心する役人は少ない。だから「安全装置」は働かない。その為、多くの民が、己が生きる縄張りを捨てて流浪するのである。
自由民と流民は違う。遊牧民や海洋民のような自由民の縄張りは、とてつもなく広い。だから移動生活は生きる希望であり、夢をもたらす生き方である。だが、流民は好きで移動生活を送っているわけではない。元々多くの流民は定住民の農民である。だから、安住の地があれば、そこで田畑を耕し、家畜を飼って暮らすのが夢なのである。
しかし、破綻しかけた国家に、それを求めても無駄だと思っている。それなら、自分達の新しい国家を作るしか定まる道は残されていない。とはいっても多くの農民は、王様に成りたいわけではない。ただ、ただ、安心して田畑を耕し、家畜を飼って暮らしたいと苦慮するだけなのである。だから、私利私欲に走らない指導者が現れれば、彼に従い付いて行きたいと願うものである。そうして、流民の中には、ジャオ兄弟の献身に心打たれ、苦難の時代を切り開く指導者の姿を重ねる者達が出てき始めていた。やがて流れは大河に等しくなる。
ジャオは寡黙な男である。普段は笑うことも少ない。しかし、病んだ者には、笑顔を向けた。そしてその笑顔は人を安らげてくれる素晴らしい力を持っていた。特に、死の不安に苛まれた者にとって、彼の笑顔は、最後の希望だった。「助かるかもしれない」その気が、彼らに生気を与えた。
多くの病人は、痛みに混乱し、正確に自分の症状を訴えることができない。しかし、彼は、それを見逃さない。普段は伏し目勝ちなジャオだが、その時ばかりは、鋭く目が光った。「ジャオ様!! 背中が痛い」「いつ食事をした?」「昼に少し粥を食べた」「だめだジャオ様。また痛くなってきた」「この湯をゆっくり飲め」「ジャオ様、何だこのどろっとした水は」「心配するな俺が呪術を施した水だ。だから、じきに痛みが止まる」「嗚呼~ジャオ様、何だか効いてきた気がするよ」「そうだろ、そうだろ。特別の神水だからなっ」と、彼は言い、口元をキッと引き上げ、にんまりと笑った。すると、笑窪ができて案外可愛い顔になる。
この神水には薬草が含まれている。そして薬草は、お札に滲(し)み込ませている。お札には「疾病已死舒适太平」と書いてある。「病気はもう治った。(あなたには)太平で安らかな時が訪れた」と言った意味のようである。そして、このお札を数枚渡すと、沸騰させたお湯につけて飲むように伝えた。そうすると、苦い薬を飲もうとしない子供や、薬草嫌いの頑固な人も呑んでくれた。
ジャオが行ったのは、流民の病気を治すことだけではなかった。彼は、流民の村に自治を持ち込んだ。その自治組織は、必然的に協働社会である。協働社会は、持たざる者達が、最初に作る社会組織である。だから、その村の村長も、自分達で選ばせた。選挙である。まず、志ある者を立候補者に立てた。そして、村の自治をどうするかを議論させた。そして最後は、村人の合意で村長を決めた。更に、それは二年毎に行うこととした。
一年も経つと、そんな流民の村が数ケ所出来た。そんな村が大きくなると、彼は、太学の仲間を呼び寄せた。体制に根切りされていた過激派達は、草の根を降ろそうと、流民の村作りに奔走した。そして、流民の村は、社会基盤を整えていった。流民の余りある労力と、過激派の豊富な知識は、新しい国造りの様相を帯びてきた。彼らの情熱は、共に失くしたものを取り戻す運動である。だから、その協働体は、熱を帯びていた。
村の規模が大きくなると、経済の仕組みを整える必要が出てきた。そこで、彼は、亡き妻ユェファ(月華)の養父母を頼った。豪商バイチュウ(白秋)である。バイチュウは、喜んで娘婿の要請を受けてくれた。そして、跡取り息子のバイフー(白狐)に、彼等の支援を任せた。
ジャオが二十五歳に成った年に、バイフー義兄は、一人の友人を紹介した。その男の名はシィァン・ゴンジュ(襄公矩)と言った。ゴンジュ(公矩)は、精悍な男で、歳はバイフー義兄と同じ三十三歳であった。バイフー義兄によれば、タオ(道)を修めた学士らしい。
先頃、彼は、皇帝にタオの教えを説き、悪政を正し、王道を生きるように上奏したらしい。しかし、逆に国家反逆の罪に問われたのである。そこで、彼は、漢王朝に見切りを付けた。そして、天命は既に変わったと確信したのである。そこで、新たな天命が宿った所を、見出そうとしていたのである。
盟友バイフーから、ジャオの噂を聞いたゴンジュは、是非にも、ジャオに会わせて欲しいと頼んだのである。ジャオとゴンジュは、三月の間語り合った。そして、ゴンジュは、彼こそ、新しい革命の指導者であると確信したのである。そこで、彼は、タオ(道)の奥義書である『太平清領書』をジャオに託したのである。
それは、新たな国の在り方を示していた。そこで、ジャオはバオとリャンに諮った。バオとリャンは、早速、流民の村長達を集めて相談した。村長達からは、この『太平清領書』を革命の聖典にしようと意見が挙がった。そこで、誰ともなしに、この革命党の名は「タイピンダオ(太平道)」と決まった。
革命集団太平道が立ち上がった時、既に、流民の革命党は、三万に膨れ上がっていた。でも六歳のチュクム(秋琴)には、まだ自分が革命の女神になるなど思いも寄らなかった。太平道の噂を聞いたカンチョン(鄭康成)先生は、郷里の青洲で密かに、愛弟子の革命党を支援していた。
カンチョン先生は、儒家であったが老子の教えにも秀でていた。更に、その生き様をして、盟友ヅーシー(盧子幹)先生とカンチョン先生を比べれば、ヅーシー先生は孔子の如くあり、カンチョン先生は老子の如くあった。
チュクムが十一歳に成った頃、改革派の弾圧は、その一族郎党にまで及び始めた。しかし、王朝は、ジャオの一党には手が出せなくなってきていた。太平道の勢力は、既に十万を超えていた。そして、冀州の役人の中には、改革派を支持している者も多かった。守旧派は、改革派寄りの人材の大半を、地方に飛ばしたので当然の成り行きである。そして、その改革派寄りの役人の中には、太平道に内通する者も多数いた。
その為、太平道討伐軍を送っても、成果は期待できないのである。しかし、もしもの時のことを危惧したのか、ジャオは、チュクムを加太の一家と共に青洲のカンチョン先生の許に送った。それに、愛娘も先生の許にいれば勉学にも励むはずである。
初夏、バイフー(白狐)義兄が、ジャオの許に一人の倭人を連れてきた。ユェファ(月華)ことユナ(優奈)の幼馴染で、スサト(須佐人)と言った。須佐人は、倭国女王の内命をおび、チュクムの様子を確かめに来たそうである。そして女王は、チュクムの守り刀にするようにと、見事な倭剣を須佐人に託していた。
更に、自分の近衛隊の中から、剣の達人バイヤン(白羊)を、チュクムの身辺警備に当たるように派遣してきた。チュクムは、それ以来、剣の修行に夢中である。その倭剣は、女王の手になる神剣のようである。銘を「魂凪」というそうである。女王がその神剣に託した思いは「チュクムの荒ぶる心を治めてくれる」ということのようであったが、当てが外れたのか、チュクムの剣さばきは、鬼神が憑依したかと思わせる鋭さである。
そして、師匠のバイヤンを相手に、日がな一日を、剣を振るって過ごしているのである。ミヨン(美英)やシカ(志賀)が「チュクム、ご飯だよ」と声をかけないと、食事もせずに剣を振るっていそうな様子である。自由放任で育てているジャオやカロ(朴華老)祖父ちゃんも流石に、これには困りはててしまった。そこで学問にも目を向けさせようと、カンチョン(鄭康成)先生の許へ送ったのである。
カンチョン先生の方も、恩人の加太が付いて来てくれるので大喜びであった。先生が暮らす村は、青洲の東にあるガオミー(高密)という町の郊外にあった。高密の近くの海は、倭国にもっとも近い港町に面している。もしかすると、倭国の巫女女王が、少しだけ愛姪のチュクム(秋琴)を、引き寄せたのかも知れない。チュクムと加太一家が高密に到着すると、カンチョン先生は、既に小さな家を建てて待っていてくれた。そして、そこは先生の小さな家の隣である。
チュクム達の小さな家と、カンチョン先生の小さな家の間には、百人ほどが寄り集まれる広場がある。その広場が、先生の学び舎である。もちろん屋根がないので雨の日は休みである。チュクムは、先生の許に来ると、半日を剣の修行に明け暮れ、半日を学問に明け暮れるようになった。その剣の修業を眺めていた先生は、チュクムに墨子の学問を学ばせた。そして、攻め手を禁じたのである。チュクム自身は、気づいていなかったのだが、加太とミヨンは「これで、戦さ場の巫女への道を鎖した」と見ていた。
秋、ジャオの許を、「ヅーシー先生の紹介で会いに来た」という美少年が訪ねてきた。少年の名はゴンスン・ブォグゥイ(公孫伯珪)と言った。後の世では公孫瓚と呼ばれる男である。しかしこの時は十七歳に成ったばかりである。北方の豪族の息子である彼は、帝王学を学んでいる処らしい。美少年だが、高慢な鼻をしている。筋の通った美しい鼻だが、ツウンとやや鼻先が上を向いているのである。
少年の母は、正妻ではない。だから、文武で名を成さないと、父には認めてもらえないそうである。そこで、ヅーシー(盧子幹)先生の許で学び、時間を見つけては、各地の英雄豪傑の許を訪ねているそうである。高慢な態度の若造であるが、ジャオは、どことなく愛嬌を感じた。そして「案外、若い時の俺も……」と思い可笑しくなった。
そこで「ブォグゥイよ。こんな世の落ちこぼれから何が聞きたい」と聞いてみた。すると少年は「名君に必要なものは何か」と問うた。ジャオは、じっと少年の輝く瞳を見つめ「ブォグゥイよ。名だたる古代の覇王も今は名だけが残り骨さえ朽ちている。しかし堯(ぎょう)と舜(しゅん)は、民の心の中に、時を越えて生きている。そなたの驕気(きょうき)を捨てよ。最強の武人など、時流に乗れなければ、流浪の民に紛れて生きることになるだけだ」と諭した。
少年は、にっこりと笑うと「やぱっり、そうですか。私に驕気が見えますか。私もきっとそうだろうと思っていました。が、誰かに確かめてもらいたかったのです」と言った。そして「あなたは今、王道を歩いている。しかし、私は覇の道も歩いてみたいのです。教えありがとうございました」と、快活に頭を下げると帰って行った。彼も、また波乱の世を生きることになる風雲児である。
明けて春。カンチョン(鄭康成)先生の村を、夜盗が襲ってきた。しかし、不幸なことに村には、少女剣士チュクム(秋琴)と、武人バイヤン(白羊)が居た。十人足らずの夜盗は、瞬く間に切り伏せられた。そしてチュクムは、初めて人を殺めた。それから奇妙な達成感と罪悪感とそして恍惚感に襲われた。村人は、夜盗から村を守ったチュクムと武人バイヤンに、感謝の言葉を浴びせかけ、その夜は祝宴に成った。
祝宴は、噂を聞きつけた近隣の村人も集まってきた。美少女剣士を一目見たさである。その祝宴でチュクムは、浴びるほど酒を飲んだ。意識をなくすほどに酒に酔ったチュクムは、奇妙な仕草をしていた。手の平と甲を強く擦り続けているのである。あまり強く擦るものだから、手の甲からうっすらと血が滲みだしてきた。シカ(志賀)が、その手をしっかりと押さえた。そして、チュクムの頭を、自分の膝に横たえた。チュクムは、シカの膝に顔を埋めると、眠りについた。シカの膝は、熱く濡れていた。
翌朝、近隣の村長が談合を開いた。そして、近郊の村々が、タイピンダオ(太平道)への入信を決めた。教祖はチュクムである。青洲太平道の誕生は、瞬く間に青洲に広がり、初夏には三万の信者を得ていた。信者の多くは、皆、貧農と流民である。
死臭を身に纏ったチュクムにも、変化が表れていた。どうやらチュクムは、黄泉の巫女に目覚めたようである。もがき苦しみ、苦痛に顔をゆがめて死んだ者も、チュクムが手を翳(かざ)すと、安らかな死顔に変わった。
流行病で息を引き取った赤子が、チュクムに息を吹きかけられると、オギャ~と再び生まれ変わった。貧困の為に盲しいた少年が、チュクムの粥を啜(すす)って目を開いた。チュクムは、シカとは違う力で、甦りの業を取得したようである。きっとそれは、黄泉返りの法だろうと加太は思った。
チュクムのこの不思議な力に、いつしか、イン(尹)家の戦さ場の巫女の伝説が蘇り、王朝にも伝わった。王朝の守旧派の中には、この事態を危惧し、皇帝に、流民対策を行うように上奏する者も有った。だが黙殺された。どうやら、黙殺するように働きかけた勢力がいたようである。それが、チュクムの行く末にどう働き出すのかは、まだ分からない。いずれにしても漢王朝は、複雑な人間模様を渦巻かせ始めたようである。さて時は、チュクムと孟徳とが出会い、新たな物語が生まれる様相を描き出してきた。
~ ウードウミーダオ(五斗米道) ~
切り立った山間の崖道を、竹細工をいっぱい背負った男が歩いている。崖道の右岸には轟々と、雪解け水を押し流し川が流れている。誤って崖道から足を滑らせれば、その濁流に呑み込まれてしまうだろう。しかし、男の足取りに不安はない。男は屈強な身体をしている。武人ではなさそうだが、武人にも劣らない素振りである。
男の名は、ヂャン・ヨウ(張脩)という。二十五歳の意気揚々とした男である。ヨウ(脩)は、この益州から、冀州を目指しているのである。長い旅である。その為、背中の竹細工は路銀である。宿などには泊まらない。袈裟掛けに背負ったボロ布が天幕である。食事も野草や小さな獣を捕えて取るので、米代位が必要な路銀である。履物も痛めば自分で治す。着ている物も浮図(仏教)の者達を思わせるが、それよりかなり丈夫である。これも自分で作ったのかも知れない。
ヨウは、浮図ではない。彼は、益州のシャマン(呪術師)である。益州では、シャマンの業を鬼道と呼んでいる。鬼道の師は、今年の夏に流行り病で亡くなった。自分の病も治せないのだから情けない話である。しかし、大半のシャマンは、ここではそうである。霊力もほとんどないのである。遊行の旅芸人と同じように、芸事のようなモノである。何やら怪しい霊水とやらを飲まして「これで治る」と言い、治らなければ「獣の気が宿っている。皆で叩いて獣の気を追い出すのだ」等と言っては、患者を叩き殺すのが落ちである。
そんな怪しい鬼道に、何とか正しい技術や、理念を持ち込み、鬼道の改革を行おうと、この若い鬼道師は思っている。五年前、冀州でジャン・ジャオ(張角)という男が、タイピンダオ(太平道)というダオ(道)の教団を開いたという話が、益州にも伝わってきた。そこで、ヨウは、太平道で学んでみようと冀州を目指している訳である。
太平道は、この五年間に十倍に膨れ上がり三十万の信徒を擁していた。既に国を成す規模である。そこで全体を三つの邦に分けた。ジャオと、バオと、リャンの三人は、皆から大医と呼ばれていた。大医が取りまとめる邦には、それぞれ統領が居り、マー・ユェンイー(馬元義)、ボーツァィ(波才)、ヂャン・マンチョン(張曼成)という名である。中でもユェンイー(元義)は、ジャオが弟のように可愛がっており、実際に、歳も末の弟リャンと同じで七歳年下だった。しかし、ユェンイーは、今は冀州には居らず、都で官僚の職に就いている。それでも、ジャオは、不在のままのユェンイーを自分の腹心にしている。
ユェンイーの父は、改革派の官僚だった。しかし、守旧派の罠に落ち獄死した。ユェンイーは、まだ六歳であった。母は、ユェンイーを連れて、故郷の青洲ガオミー(高密)に戻った。そして兄の援助を仰いだ。翌年、母は妹マー・チャーホァ(馬茶花)を産んだ。だから、チャーホァ(茶花)は、父の顔を知らない子である。
伯父は、七歳になったユェンイーを、カンチョン(鄭康成)先生の許で学ばせた。伯父は、再び一族の中から、都の高官を出したかったようである。母の実家は、地元の有力な一族だったが、伯父は義侠心が強く、貧しいものには衣食を分け与え、優秀な子供達は学識を付けさせ出世させようとしていた。だから、都にも伝手が欲しかったようである。
実は、カンチョン先生の家屋敷も、伯父が寄進したものである。先生の塾生になったユェンイーは、そこでジャオに会った。ジャオは、ユェンイーを、実の弟のように可愛がった。
ジャオが太平道を立ち上げた時、十七歳に成ったユェンイーは、伯父の望みで都の太学に学んだ。優秀だった彼は、二十四歳で孝廉に推挙され郎となった。翌年、侍中府に配属され、侍中と成った。幸いにも、侍中長は、亡くなった父の友人だった。侍中長は、ユェンイーの父が冤罪だったことを知っており、彼を憐れみ、何かと便宜を図ってくれた。そして、ユェンイーは、皇帝の側近達が、全て守旧派ではないと知った。皆、口を噤(つぐ)んではいるが、改革派を支持する宦官や官僚も少なからず居るようなのである。ユェンイーは、慎重にダオ(道)の教えを語りかけ隠れた改革派を探した。
ボーツァィ(波才)は、元は川漁師の息子である。幼い時は、フーツァィ(虎才)とあだ名され、その名のように、虎の如き男であった。ボーツァィは、ジャオと同じ歳である。しかし、ジャオを兄と慕っている。ボーツァィの父は、実の父ではない。実の父リー・グー(李鼓)は、都の官僚であったが、ユェンイーの父と同じように、冤罪で葬られた。
その時、ボーツァィは十歳だった。ボーツァィは、五人兄姉弟妹の末っ子である。七歳年上の長兄のリー・ブォウェン(李博文)は、太学で学び始めたばかりであった。李氏は都の名門であった為、長兄は、そのまま太学に留まり祖父母と都で暮らしている。
しかし、家の大黒柱を失った李家の暮らしぶりは苦しくなった。そこで母は、実家があるホーネイ(河内)郡に、四人の子供達を連れて帰った。母シュン・チンメイ(荀青梅)の一族荀氏は、隣のインチュァン(潁川)郡の名門である。その為、親子五人の暮らしが成りゆかぬ危惧はなかった。
しかし、母チンメイ(青梅)は翌年に、川漁師のリュワン(呂望)と再婚した。二人は幼馴染だった。リュワンは、悲しみに打ちひしがれた青梅が心配でたまらなかったようである。彼は、見た目には荒くれ者の川漁師であるが、とても優しかった。ボーツァィは、養父リュワンに、川漁を教わった。
翌年、異父妹ヤーイー(芽衣)が誕生した。更に翌年には、異父妹シァォファン(小芳)が誕生した。三人の姉達は皆、潁川郡へ嫁いだ。一家には幸せな時が流れた。ただ、ボーツァィは、すっかり都の名家の子息の面影をなくし、悪童河童に変わっていた。そもそも、幼い時から身体が大きく、腕力も強かった為、フーツァィ(虎才)と呼ばれていたのである。そのフーツァィが、更に力を付けて蘇ったのである。
ボーツァィが、二十歳に成った時には、黄河中流域の河童の頭目に押し上げられていた。彼は、人まとめが上手かった。話術が巧みなのである。始めは、喧嘩腰で突っかかって来た相手でも、いつの間にか彼の話術に呑み込まれ、最後は協力を申し出るのである。
ボーツァィの話術は、豊富な知識に裏打ちされていた。長兄のブォウェンは、末弟の将来を気遣い、沢山の書物を送り届けてくれた。だから、ボーツァィは、大変な読書家でもあった。ボーツァィが二十一歳に成った時、路銀が足りず黄河を渡れずにいる男に出会った。その男がジャオだった。ジャオは、禁を解くべく仲間達と奔走していた。そして、故郷での支援者を募る為に旅をしていたのである。
ボーツァィは、河を渡してやり一夜の宿を提供した。そして彼は、ジャオの見識に目を見張った。ボーツァィの学問は、書物の中に留まっていた。しかし、ジャオの知識は、社会に活かす為に使われていた。それも、我が身の危険も覚悟の上である。
ボーツァィは、この夜、強くジャオを心に留めた。そして三年後、彼は再びジャオに巡り合った。しかし、その時のジャオからは覇気が消えていた。投獄され、釈放はされたものの、都からは追放され、故郷に戻る途中だったのである。
今回の旅は、ジャオも急ぐ旅ではない。ボーツァィは、彼を客人として扱い、河の暮らしを楽しませた。そんなボーツァィの気遣いで、徐々に、ジャオも覇気を取り戻していった。ジャオと語らう内に、長兄リー・ブォウェン(李博文)が、ジャオ達の革命運動に関わっていることを知った。
そして、長兄ブォウェン(博文)もこの年、都から地方に左遷されていた。更に翌年、ジャオが、太平道を立ち上げたと噂が聞こえてきた。ボーツァィは、迷わずジャオの許を訪れ、太平道の運動に加わった。そして、河内郡と潁川郡を駆け回り、太平道の賛同者を集めた。翌年、バオを教祖として、ユータイピンダオ(豫太平道)が立ち上がった。
ヂャン・マンチョン(張曼成)は、貧しい農民の子として生まれた。歳は、ボーツァィの長兄ブォウェンと同じである。十三歳の時に父が流行病で亡くなった。その時田畑も借金の肩代わりに取られてしまった。そこで、流民となり、十四歳の時に武陵郡の山賊団に入った。
山賊団の頭目は、山越(さんえつ)の白虎という男で、父の幼馴染だった。白虎は面倒見の良い男で、山越族を中心に、周辺の流民が一万人程、白虎の許に集まっていた。その為、山賊団とは言っても、山道を通る旅人を襲うわけではない。一万人程の人間を養うのであるから、それでは稼ぎが少なすぎる。そこで、郡都の役所や金持の蔵を襲うのである。一万人程の三分の二程は、女子供と年寄りである。しかし三千人強の盗賊団が組織できるのであるから、これはもう立派な軍隊である。だから、郡都を守る守備隊では太刀打ちできない。
そして、山賊団とは言っても、山奥に砦を築いて暮らしている訳ではない。普段は、各農村で、農民に紛れて暮らしている。実は、それら貧農の村も、盗賊団のお零れを頂戴している。とは言っても、直接金品を受け取っている訳ではない。米や、野菜や、魚介類などを、白虎が破格の高値で買い取るのである。だから、この山賊団は、武陵郡の影の国家である。そして、腐敗した漢王朝の役人達より頼りがいのある集団である。
三千人強の武装集団を率いるには、数人の分団長が必要となる。そして、それら分団長は、義侠心の高い者が選ばれている。中には女分団長も居る。女分団長は、そもそも母系社会の村の長(おさ)であった。したがって面倒見も良い。そんな様子なので、この山賊団は荒ぶれてはいない。だから、看視が入っても、農民と山賊団の見分けが付かないのである。
しかし、マンチョンが十七歳になった時、ついに都から討伐隊がやってきた。討伐隊は、五百名程であったが正規軍である。更に内通者が出た。そこで、討伐隊は、山賊団を各個撃破していった。白虎とその一家も、行方が分からなくなった。ヂャン・マンチョン(張曼成)の家族も、彼を除いて逃げ延びた。そして、マンチョンは、討伐隊に捕縛されてしまった。
討伐隊の屯長は、ヂャン・ミン(張敏)という男だった。ミン(敏)は、マンチョンに温情を与え、保釈してくれた。その上に、無職の彼を従者として雇ってくれた。ミンは、数年前に息子を亡くしていたようである。
一年ほど大隊長ミンに仕えていると、百人隊の隊長である伯長の一人が「屯長、どうやらマンチョンには、武人の才が有りそうですよ」と進言してくれた。そこでミンは、数名の兵士と手合わせをさせ、更に簡単な戦術を問うてみた。するとマンチョンは、どれも上手くこなした。そこで、ミン屯長は、進言した伯長の隊に正式入隊させた。
討伐隊に加わったマンチョンは、各地での討伐戦で目覚ましい活躍を見せた。特に山賊時代に覚えたらしい遊撃戦に秀でていた。二十歳で伍長に昇格し、二十二歳で什長になった。そんなマンチョンを、ミン屯長は、都の警備兵に推薦してくれた。
彼は、頭の廻りも良かった。兵法を一から学びなおし、二十五歳になった時には隊率と成り、五十人隊を率いるまでになった。そして、妻を娶った。名をメイズ(美紫)と言い都の商人の娘だった。
メイズは、十八歳であったが、もう商才を現していた。それにとても処世術に長けていた。つまり、賄賂をばらまくのが旨いのである。その為、マンチョンは、二十九歳で伯長となり、翌年には屯長に昇りつめた。そして、討伐隊の大隊長となり、五百人隊を率いて各地を転戦した。その戦いの中で、遊撃戦の名将として名を広めていった。
そんな地方暮らしの中で、地方に左遷されていた官僚のリー・ブォウェン(李博文)と知り合った。そして、ジャオの存在を知った。
メイズを娶った翌年、長男のモン(張孟)が誕生した。更に翌年には、長女リンシン(張林杏)を授かった。ジャオが、太平道を立ち上げた翌年には、次男のバオ(張保)が誕生した。マンチョンは、三十三歳に成っていた。
それから五年。マンチョンの武勇と、メイズの賄賂が効いて、三十八歳の若さで軍侯に昇進した。千人隊の将軍である。しかし、順風満帆な人生は、ここまでだった。ある地方で、不正を働いた豪族を、盗賊団と共に打ち破った。その豪族は、盗賊団と繋がり、私財を貯め込んでいたのである。しかし、その豪族の一族から、守旧派の宦官が出ていた。その為、武官を罷免された。地方の県令に昇格させるという話も出たが、マンチョンは、断った。メイズの商才で、家族が路頭に迷う心配もなかった。
そして、ブォウェンに誘われ、太平道に入信した。漢王朝には見切りを付けたのである。信徒が数十万に膨れ上がっていた太平道には、社会組織が出来上がり、自衛団も組織されていた。その自衛団が、彼の存在で、自衛隊に変わっていった。それから四年、漢王朝の軍隊にも負けない優秀な自衛隊が出来上がった。それを見届けたマンチョンは、故郷のナンヤン(南陽)郡に帰りリャン(張梁)を教祖として、ジンタイピンダオ(荊太平道)を立ち上げた。そして、荊太平道には、多くの山越族が加わった。
その前年、ジャオを、ヂャン・ルー(張魯)という十九歳の若者が、益州から訪ねてきた。字(あざな)はゴンチー(公祺)である。その若者ゴンチーは、ジャオの縁者であった。ゴンチーの父は、ヂャン・リン(張陵)という名で、字をフーハン(輔漢)という。
フーハンは、ジャオの母ウェン(張文)の従兄妹である。また、カロ(朴華老)とも儒生として交友を持っていた。実は、カロとウェンを添わしたのは、フーハンである。つまり、フーハンの存在がなければ、ジャオ三兄弟は、この世に生まれていないのである。
フーハンは、太学では儒生であったが、儒学には満足せず、タオ(道)を学び始めたようである。そしてタオの奥義を究めると、益州でティエンピンダオ(天平道)を創設し天師と称した。その天師フーハンが先頃亡くなり、ゴンチーが天師を継いだのである。
しかし、ゴンチーはまだ十九歳の若者である。天平道を、どう運営していけば良いのか迷い、縁者のジャオを頼ってきたのである。それに、天平道の信徒の中には、旧来の鬼道に戻る者も多いらしい。そこで、ジャオは、ヂャン・ヨウ(張脩)を紹介した。
ヨウ(脩)は、元は益州で鬼道のシャマン(呪術師)をしていた。しかし、ジャオの太平道に入門し鬼道を強化した。前年にウードウミーダオ(五斗米道)を立ち上げたところである。同じ益州に住み、同じ志を持つ者なら互いに協力し合えるのではないかと考えてのことである。
ゴンチーは、早速益州に帰ると、ヨウに会いに行った。ヨウは、ゴンチーよりも九歳年上だったので、ゴンチーは、兄に頼るように、ヨウを慕った。ヨウは、教祖というより実業家の面を強く持っていた。そこで、若く秀麗なゴンチーを教祖に据え、自分は会長に納まった。そして、天平道を、五斗米道に吸収した。しかし、教祖がゴンチーなので、対等合併である。それに、天平という抽象的な名前より五斗米という名の方が、民衆には分かり易かった。
信者に成るには、五斗の米を寄進すれば良いのである。だから、法外な金品を寄進させる鬼道集団が多い中で、五斗米道は、安心して入信できるのである。それに若き教祖ゴンチーは、どんな鬼道の巫術師よりも、神々しさでも勝っていた。天命を失った漢王朝の皇帝から、民衆の心は離れ、新しい神の世界を待ち望み始めたのである。さて、いよいよ天命は変わろうとしていた。
~ 狐米草のそよぐ時 ~
また、風が吹いた。先っき掃いたばかりの庭に、カラカラと落ち葉が落ちた。それでも猫目は、楽しそうに落ち葉を掃き集めている。きっと焼き芋でも焼くつもりなのだろう。傍らには、八歳になるツァオ・モンドゥー(曹孟徳)の長男ツァオ・ズーヨウ(曹子脩)が立っている。猫目は、ズーヨウ(子脩)に、火の焚きつけ方を教えている。パッと落ち葉に火が付くと、ズーヨウは、手を叩いて喜んだ。
猫目は、優しくて賢いズーヨウが大好きである。だから、いつも遊び相手をしている。焚火の勢いが良くなると、孟徳の妻ディン・チュンユー(丁春玉)が、弟のツァオ・ズーシュォ(曹子鑠)と、妹のツァオ・チュンリン(曹春玲)の手を引いてやってきた。二十一歳のチュンユー(春玉)は、花のように美しく気品があった。だから、猫目は若干苦手である。チュンユーの傍にいると、自分の品のなさが悔やまれるのだ。
五歳に成ったズーシュォ(子鑠)が、両手に芋を抱えている。一個は、大好きな兄ズーヨウの芋であろう。若妻チュンユーが、籠の中から五個の芋を取り出した。猫目は、「チュンユー様の分と、チュンリン様の分。それに、天下様とメイリン様親子の分だから、必要なのは四個のはずだが……」と考えていたが、花の精若妻チュンユーが「はい、猫目の分も持ってきましたよ」と言ったものだから、猫目は、ますます緊張してしまった。
そこへ孟徳の養母ディン・メイリン(丁美玲)がやって来て「あ~ら、猫目でも緊張する人がいるのねぇ」と笑った。猫目は「天母様、からかうのは止してくれよ。芋が焦げちゃうじゃないか」と笑い返した。猫目は、孟徳の母を天母様と呼んでいる。天下様の母だから天母様なのである。それに猫目は、少しだけメイリン(美玲)に、母の面影を重ねている。
焼き芋が出来上がると、若妻チュンユーは「アーマン様に届けてきます」と、奥に引き上げて行った。チュンユーも、美玲と同じように、孟徳のことを、ジィルー(吉利)様とは呼ばずに、アーマン(阿瞞)様と呼んでいるのだ。三人の孫に囲まれ美玲祖母ちゃんは幸せそうである。「嗚呼、猫目や。肩揉んどくれ」と言われ猫目は、美玲祖母ちゃんの肩をやさしく揉み解し始めた。秋日和が、やさしく五人を包んでいた。
県令を罷免された孟徳は、故郷で家族と、のんびりとした暮らしを楽しんでいた。まだ、二十五歳の若さではある。焦る気持ちはない。天気が良い日は、従兄弟のユェンラン(夏侯元譲)達を誘い、猫目を供にして、鹿や猪などの狩りに出かけた。猫目は足が速く、猟犬を巧みに使い獲物を追いこんだ。
この狩りは、武術訓練の一環でもある。そして、一家総出での野遊びも兼ねている。その為、一泊二日以上に成ることも多い。八歳のズーヨウ(子脩)も既に弓を引き始めている。そして、素質が有るようだ。先頃は大きな野兎を仕留めた。可笑しなことに、この快挙に猫目が鼻高々に成っていた。ズーヨウに弓を教えたのは猫目である。孟徳は、猫目にも褒美を与えた。
天気が良くない日が続くと、孟徳は、読書三昧である。兵法書は元より、文学書や、歴史書も読み漁った。儒家の教えには、深くのめり込まなかったが、墨子の書は深く読み込んだ。
初冬、孟徳は側室を持った。名をビィェン・チンリン(卞青鈴)という。元は歌姫である。斉郡白亭の生まれで、七歳の時に徐州ランシェ(琅邪)郡カイヤン(開陽)県の妓楼に売られたそうである。そして、気品に溢れた娘だったので、程なく妓楼の亭主夫婦が養女にした。そこでビィェン(卞)氏を名乗るように成り、妓女の芸を叩き込まれたのだ。十六歳でお座敷に出ると、瞬く間に名花の名を広め、開陽県で一番の歌姫に成った。
孟徳は、ドゥンチュウ(頓丘)の県令を罷免されると、従兄弟のユェンラン(元譲)や、ミャオツァィ(妙才)を伴い故郷に帰ることにした。しかし、急ぐ旅ではないので東海見物をして帰ろうということに成った。それに流れ者の猫目は、東海への道にも通じていた。だから猫目を道案内に、遊興の旅に出たのである。
東海の先には倭国が在ることも孟徳は知っていた。実は、彼の先祖の中には倭人もいた。但し倭国の倭人ではない。東海沿岸の海洋民としての倭人である。だから、少しだけ彼の中にも海洋民の血が流れている。その為、海が見てみたかったのだ。「井の中の蛙、大海を知らず」という諺(ことわざ)がある。その諺のように彼は、狭い見識に留まりたくなかったのかも知れない。
一行は、頓丘県から徐州のランシェ(琅邪)郡を目指した。東海の沿岸で五日程遊び、カイヤン(開陽)の妓楼に入った。そこで、孟徳は、チンリン(青鈴)を見染めたのである。彼は、妓楼の亭主ビィェン(卞)氏に身請けを申し入れ、そして、故郷に連れて来たのである。チンリンの身請けに使った金は、破格の額だったようで、猫目は、孟徳の女道楽に呆れ返った。
孟徳のような豪族の当主が側室を持つのは、不思議なことではない。それに、チンリンは、卑しい身分の出ではあるが、気品に溢れ、そして慎ましさにも溢れていた。それに、まだ二十歳である。彼の跡取り達も、沢山産んでくれることだろう。大家の当主は、そうして一族を繁栄させるのが使命である。弱い生き物程、沢山の子供を儲ける。人間もまた弱い生き物である。命運は人間の手にはないのだ。それは「天のみぞ知る」のである。悲しいことに、今の正妻チュンユー(春玉)との間には、まだ子がなかった。
初夏、池には水芙蓉の花が淡く咲いている。田植えが終わった水田では、水の生き物が短い命を繋ごうと、忙しなく交尾のひと時を舞っている。今朝、バイヤン(白羊)が倭国から戻ってきた。勿論、巫女女王は、チュクム(秋琴)への贈り物を沢山持たせている。艶やかな倭錦は、娘盛りのチュクムに似合いなのだが、飛びハゼや海筍(ウンタケ)の干物など奇妙な食べ物も混じっている。きっと、これは加太への贈り物かも知れない。
それから、とても奇麗な女人を伴っていた。ラビアという名である。西域人のようだが、倭国で暮らしているそうだ。そして夫は、巫女女王の兄である。つまり、チュクムの伯父さんである。もう一人の叔父さんは、ジンハン(辰韓)国に居て皇太子らしい。だから、チュクムのお祖父様は、ジンハン(辰韓)国の王様である。
ラビア伯母さんは、チュクムの知らなかった生い立ちを詳しく教えてくれた。そして、チュクムが、イン(尹)家の戦さ場の巫女の血を引くことも知った。ラビア伯母さんは、娘も伴っていた。希蝶という可愛い娘である。十三歳だが背が高い。チュクムも大女だが、この希蝶も負けてはいない。チュクムが、三つ年上な分だけ上背があるが、この太平道の村の男達より大きいのである。やはりふたりは、従姉妹である。
ジンハン国の祖父王が、この二人を見れば武人に育てたであろう。しかし希蝶は、武術ではなく商学に長けていた。カンチョン(鄭康成)先生でさえ、舌を巻く学者振りである。それに、十三歳にもなれば、もう婿探しが始まるのだが、希蝶には全くその気がない。胡服が似合う手足の長いこの娘の夢は、キャラバン隊を率いて西の大海まで旅することらしい。とても十三の娘が思い描く夢ではない。チュクムは、そんな従姉妹が大好きに成ってしまった。
ラビア伯母さんの商人団は、二ヶ月の間、ガオミー(高密)に留まることになった。その二ヶ月の間にチュクムは、希蝶から商学を学んだ。希蝶は、シャー(中華)の大商人バイチュウ(白秋)の一族でもある。だから、バイ(白)商人一族は、頼もしい後継者を得たようである。チュクムは、以前から、バイヤン(白羊)に少し商学を学んでいた。バイヤンも、元は項家軍属の出である。だから、基礎的な商学は習得していたのである。
しかし、希蝶の商学は太学の学徒並であった。いや、実践を積んでいる分だけ、それより上かも知れない。とはいっても、希蝶も恋する乙女である。チュクムは、どんな人が好きなの?と聞いてみたが「別にぃ~」と言うつれない返事である。後で、ラビア伯母さんに聞いてみたら、実は項家の中に好きな人がいるそうである。でも、そのことが周りに知れると、大変なことになるらしい。熊より怖いと言われるナツハ(夏羽)父ちゃんと、キ(鬼)国の河童の大将サラクマ(沙羅隈)祖父ちゃんが「俺の希蝶に手出した奴ぁ~」と、怒鳴り上げるらしいのだ。だから、並みの男は希蝶に近づけないのである。
その点チュクムは気楽である。もし、明日誰かの子を孕んでも、お目付け役の加太は、何も言わないだろう。加太にしてみれば、人間共の、数万年来の営みに過ぎないのである。父様のジャオだって、革命に忙しくて、チュクムのことなど構っている暇はない筈だ。チュクムはそう思っている。それに、チュクムも十六歳である。まわりの娘達は、もう大半が婿を持った。子を産んだ幼馴染だっている位である。しかし、教祖様に言い寄る男は現われそうもない。「まぁ、良いか。私は当分、剣に生きよう」とチュクムは、今日も剣を振るっている。
じりじりと太陽が水面を焼き、池の底では煮魚が出来そうである。「旨そうだべ」と、猫目が、フーミーツァォ(狐米草)の草陰に屈みこんでいる。その傍らには、孟徳の長男、九歳のズーヨウ(子脩)が立っている。そして、「旨そうだべ」と猫目を真似た。少し離れた天幕で養母のチュンユー(春玉)が、くすっと笑った。その横で「若君ともあろう方が、困った言葉遣いですね」と、側室のビィェン・チンリン(卞青鈴)が顔をしかめた。しかし、「良いのです。ズーヨウは、賢い子だから、貴賤の言葉も使い分けますよ。貴女のようにね」と、正妻チュンユーが愉快そうに笑った。
すると「貴賤は、時の運。賢さは我が身の宝ですよ」と、姑のディン・メイリン(丁美玲)が天幕に入ってきた。二人はさっと立ち上がり、天母様に席を譲った。「貧しい生まれでも、賢い人はそこから立ち上がれる。チンリンのようにね。さぁ、二人とも座って、ズーヨウの釣りの成果を待ちましょう」と、美玲は、ふたりを促した。
チンリン(青鈴)が、さっと牛蒡茶を注いだ。「嗚呼、良い香り。夏の暑さが和らぎますね」と、正妻チュンユーが、お茶を啜(すす)った。「そうね。それに牛蒡茶は、若返りの薬らしいから、私は沢山飲まなきゃね」と、笑いながら天母美玲もお茶を啜った。
天幕の中を湿った沼風が吹き抜けた。この大沼は三日月湖である。そして、沢山の生き物が夏の命を謳歌している。きっと、若君ズーヨウの竿にも大物がかかる筈だ。猫目は湖面を凝視し「あの草むらの傍に針を落として」と若君の成果を手助けしている。
美玲とチュンユーは、チンリンに会って初めて牛蒡茶を飲んだ。良家に育った二人は、木の根のようなこの根菜が、食用に成るとは知らなかった。初めは牛蒡茶だけを飲んだので、このお茶の元がこれだと牛蒡を見せられた時にはびっくりした。根元に葉が付いていなかったなら、これが根菜だとは思えなかっただろう。
側室チンリンは、貧しい家の出だ。それも下層民である。だから、食べられる物は何でも食べた。七歳で妓楼に売られてからは、食べ物に不自由することはなくなった。しかし、親族との縁は切れた。その寂しさを紛らわせるために、彼女は、山野草の料理に生きがいを見つけた。
ある時、客の一人が『黄帝内経』という書物の一部を見せてくれた。それは、彼女の秘められた才能を開花させた。チンリンは、その張何某(なにがし)と云う都の官僚に、その書を読ませてほしいと頼み込んだ。張何某という若い官僚は、加太という仙人の処に会いに行くのだという。「その間なら良かろう」と、張何某は、気前良く、その書をチンリンに貸してくれた。
チンリンは、それを全て、着物の裏地に書き留めた。ただ、薬膳料理以外は、未だに机上の学問の域を脱してはいない。しかし、『黄帝内経』という書物が医学書であることは良く理解している。そして、“いつかは、医学をきちんと学びたいものだ”と熱い思いを胸に秘めている。貧しさに身を縛られていなければ、妓女ではなく医女に成りたかったのである。
養父母は、芸には厳しかったが子を授からなかったので、チンリンを、わが実の子のように愛しんでくれた。だから、我が身の運命を悔やんだりはしていない。そして、今でも養父母は、豪族の家で暮らしていても恥ずかしい思いをしないようにと、多額の金品を贈ってくれる。しかし、チンリンは、その金品を我がことには使わない。華美に我が身を飾ることは、彼女の私欲の中にはない。ただ少しばかりの私欲は、医学や文学の書物を買い求める位である。
養父母からの多額の仕送りの大半は、天母美玲と、正妻チュンユー、若君ズーヨウ(子脩)とズーシュォ(子鑠)、チュンリン(春玲)への贈り物に使っている。しかし、贈り物とは言っても気負った物ではない。毎日部屋に飾る花や、時節の珍しい料理である。
その珍しい料理は、山野草を使った薬膳料理である。本当は、自ら山野に分け入り、食材を採りに行きたいのだが、曹家の側室に成ったのだから、まさか木登りをして胡桃を採り、沼地の泥にまみれて蓮根を掘ってくる訳にもいかない。そこで、使用人達に過分な駄賃を与え採集させて来るのである。勿論、使用人達は苦ではない。次は俺の番だ、俺の番だと、順番待ちに成っている位である。
そして、教養に溢れ、観察眼が高い美玲が、それを見逃す筈はない。初めて孟徳が、「チンリンを側室にする」と連れて来た時には「アーマンにも困ったものね。寄りにも寄って、妓女等を側室にするとは」と顔をしかめていたが、チンリンのことを知るにつけて、親しみを感じ始めたのである。
そのことは、正妻のチュンユーにも伝わり、ある日二人は、チンリンを招いて食事会を開いた。そして、そのお礼にと、チンリンは、二人を招き酒宴を開いた。その最初に出されたのが牛蒡茶である。酒宴の料理は、全てチンリンが作った薬膳料理であった。
チンリンは、余興にと歌と踊りも披露したが、二人が感心したのは、彼女の人を楽しませる演出であった。食器も、金銀細工や高価な陶器など使わず、竹や、河原の石や、古木等に料理を盛っていたのである。だから、二人は、座敷にいたまま、竹林を吹き抜ける風や、川のせせらぎや、太古の森の静寂さを感じることが出来た。
それから三人は、良くお茶会を開くように成った。それも、屋敷の中ばかりでなく、天気の良い日は、こうやって天幕を張り、野外でのお茶会を楽しむのである。突然「あいや~」と、美玲祖母ちゃんが奇声を上げた。若君ズーヨウが大きな鮒を釣り上げたのである。そして、「あいよ~」と、正妻チュンユーもまた奇声を上げた。今度は、大きな鯉を猫目が釣り上げたのである。どうやら今日は大漁のようである。近くの小川でチンリンが田螺を拾い集め始めた。きっと、今夜は美味しい薬膳料理が楽しめそうである。
熱風に焼かれた木々の葉を、秋風が揺らし始めた。春先に寝込んだ孟徳の次男ズーシュォ(子鑠)は、まだ体調が戻らない。せっかくズーヨウ(子脩)兄ちゃんが精を付けさせようと釣り上げて来た鮒や鯉も成果を上げてはくれなかった。
ズーシュォは、少しずつ痩せ細っていくようだ。外に出ないせいか肌も白く成ってきた。目が大きく潤み、頬がほんのり赤い。微熱があるようだ。ある日見舞いにやって来た青鈴がその様子を見て「もしかすると、これは労咳(ろうがい)かも知れません」と言い出した。労咳は死の病である。美玲祖母ちゃんとチュンユー母さんは、急いで医者を呼んだ。そして、診断の結果は、やはり青鈴の診立て通り労咳だった。
呼んだ医者には、手の施しようがないと言われた。チンリンは、労咳に対処する薬を知ってはいたが自分では作れなかった。動転した美玲祖母ちゃんは、呪術師を呼ぼうとした。しかし、孟徳が一喝した。彼は、その手合いが大嫌いなのである。「あんな、迷信をばら撒きながら金品を得る連中など当てには成るものか」と思っているのである。「ではどうしたら良いの」とチュンユー母さんは心配で寝込みそうである。するとチンリンが「加太という仙人なら、その薬を作れるかも知れません」と言い出した。チンリンに『黄帝内経』を貸してくれた張何某という若い官僚が会いに行った男である。
孟徳は、早速、猫目を呼び問いただした。以前、猫目にタイピンダオ(太平道)を調べに行かせたからである。孟徳は、その仙人と太平道との間に繋がりが有りそうな気がしたのだ。あの太平道の娘が皆に飲ませていた水も、ただの邪水ではない気がしていた。孟徳は、合理主義者である。呪術などは信じない。だから、あの水の中には、何らかの薬が入っていたのではないかと思っている。そして、チンリンの薬膳料理を食べている内に、その考えを確信したのである。案の定、猫目の報告では、加太という仙人は、ガオミー(高密)の太平道の村に居る、ということだった。猫目は事情を察し「じゃぁ。オイラ(俺)が、ちょっくら猫足で走ってみましょう」と言いだした。しかし、「いや、俺が行く」と孟徳が立ちあがった。
~ 厳冬の紅い花 ~
一面雪に覆われた庭に、赤い花が鮮やかに咲いている。マー・チャーホァ(馬茶花)が、朝寝坊なチュクム(秋琴)をゆり起している。チャーホァに起こされて、渋々「ぷっおゎ~」と白い吐息を吐きチュクムが起きだした。でも、まだ寝ぼけた様子である。
チュクムの目覚めは遅い。頭の巡りがちゃんとしてくるのは、お昼位である。それまでは、何か呟きながらぼーっとしていることが多い。しかし、チャーホァは、それが神様の言葉なのだと知っている。だから、いつもその言葉を書留て、言葉と言葉の脈略を推測している。すると、人間にも理解できる文章と成り、神様の言葉が理解できるのである。
そして、それは村の行く末や、人々の安寧を導く内容である。だから、チャーホァは、お昼前に皆を集めると、その神様の御心を伝える。それから、村人は種蒔きの時を決め、収穫の時期を知り耕作に勤しむのである。また、病人達の手当を悟り、薬草を煎じ始めるのである。しかし朝寝坊なチュクムは、自分が村人の為に役立っているとは気づいていない。何しろ、チャーホァが昼礼を行っている間は、ぼーっと彼女の話を聞いているだけである。
その為、チャーホァが皆に話している内容が、自分が発した神様の御心だとは、気づいていないのである。だから、“自分は一介の剣士であり、この村の用心棒だ”と思っている。そして昼からは、バイヤン(白羊)と剣の稽古三昧である。
日が落ちると、カンチョン(鄭康成)先生と酒酌み交わし哲学の講義である。カンチョン先生が酔いつぶれると、今度は、シカ(志賀)から医学の勉強である。加太の娘と成ったシカは、もうほぼ加太の医学を修得している。
しかし、傍目からすると、酒酌み交わしながら、幼女から学問を学ぶチュクムの姿は、奇妙でもある。シカの講義が終わると、最後はバイヤンの商学の授業である。だから、案外チュクムの一日は忙しい。チャーホァが、夜食を運んでくると、酒宴はお開きとなり床に就くのである。
チャーホァは、十六歳に成った春に、青洲レンチョン(任城)の名門フェ(何)氏に嫁いだ。夫の名はフェ・シャオ(何邵)という。歳は二十三歳で、チャーホァの兄マー・ユェンイー(馬元義)と同じである。更に二人は、カンチョン先生の許で学んだ学友でもある。
しかし、この縁談を進めたのは、兄ユェンイー(元義)ではない。フェ(何)氏は高級官僚を出す名門でもあるが、裕福な良家でもあった。そこで、チャーホァの育ての親である伯父ティェン・ジェ(田潔)が、この話を進めたのである。伯父ジェは、薄幸な妹ティェン・シー(田杏)の分まで、姪のチャーホァには幸せに成ってもらいたかったのである。
兄ユェンイーは、伯父ジェが太学に進ませたが、夫シャオは、青洲の任城に帰り家を継いだ。父のフェ・シゥ(何休)は、健在であったが早々に隠居してしまったのである。父シゥは、都の高官であったが、やはり政変で職を解かれた。そこで、今は故郷の任城で学者暮しを楽しんでいるのである。
翌年春、兄ユェンイーが孝廉に推挙され郎となった。その祝いの為に、シャオとチャーホァは、ガオミー(高密)に里帰りした。任城から高密までは約十日の旅である。そして、チャーホァは、チュクムと運命の出会いをしたのである。
里帰りから帰った夏のある日、チャーホァは、流産してしまった。夫のシャオは、気に病むなと慰めてくれたが、十七歳の娘には、心の痛みが激しかった。そして、気鬱の病に襲われた。秋の夜中、チャーホァは、夢遊病となり蓮池に落ちた。幸い一命は取り留めたが、シャオは一計を案じて、チャーホァをしばらく里に帰すことにした。
十日の旅の間、牛車の屋形の中でチャーホァは、シャオの膝の上に身を横たえて過ごした。シャオは、日々生気を薄めていくチャーホァが気がかりでならなかった。高密の里に帰ると、チャーホァは、少し元気を取り戻した。シャオは、カンチョン先生の許に挨拶に行き、そして、チャーホァの容態を相談した。
そこで、カンチョン先生は加太を紹介してくれた。しかし、その日は、加太が出かけていたので「後日、伺わせよう」と言って別れた。そして、数日後、加太がティェン(田)家の館を訪れていた。傍らには手足がひょろりと長い少女が立っていた。赤い髪に鋭い眼光が印象的な娘である。それがチュクムだった。
加太は、チャーホァを一目見るなり「ひと冬を我が家で過ごせば、春には治るだろう」と言った。シャオは、それならばと、牛車を引いてこさせたが、チュクムがチャーホァの手をひょいと掴み立ち上がらせた。そして、そのまま手を引いてすたすたと歩き出した。不思議なことにチャーホァもしっかりした足取りで、チュクムに付いて行っている。加太が「心配ない。我が家はすぐそこだ。半時も歩けば着く」と言ったが、シャオも心配で付いていった。加太の家はカンチョン先生の隣だったので、先生が門に出て待っていてくれた。その様子を見て、シャオは「これなら心配ない。ひと冬の間、チャーホァを預けてみよう」と思いレンチョン(任城)に独りで帰った。
春、元気に成ったチャーホァが、任城に帰ってきた。そして、チュクムを伴っていた。バイヤン(白羊)と十数人の男達が護衛を兼ねて付いてきていた。皆、バイヤンが鍛えた剣士のようである。チャーホァとチュクムは、途中でタイピンダオ(太平道)の村々を回りながら旅したようだ。だから、一月程の旅である。それで、シャオは、チャーホァがすっかり治ったことを確信した。
翌朝、大勢の人がシャオの館の前に集まってきた。大半が病人を伴っている。シャオ家の家宰が何事かと門を開くと、皆チュクムに会いたくて集まったようである。事情を察したシャオは、屋敷の庭を開放した。それから数日で任城の太平道は千人を超えた。そして、シャオの館が寺となった。
シャオ自身は、太平道に入信した気はなかったのだが、元々シャオの家は、任城の名門である。その為、皆はシャオをレンチョン・タイピンダオ(任城太平道)の指導者に祭り上げてしまった。シャオは、やや困り果てたが、学友で義兄弟となったユェンイーも太平道の活動家である。それに、恩師のカンチョン先生も陰ながら応援している連中である。更に、隠居の父シゥがチュクムをすっかり気に入ってしまったのである。やはり、隠居の父シゥも腐敗した王朝に憤りを感じていたのであろう。
チャーホァは、チュクムの審神者(さにわ)に成っていた。それで、巡礼の旅もチャーホァが取り仕切っている。シャオは家を離れられないので、先の家宰を妻チャーホァの付き添いに送り出した。巡礼団は、高密と任城を拠点に青洲を廻った。
二年後、まだ幼さが残る美少女の教祖と、若き乙女の審神者をかかえた青洲太平道は、女達の信徒を中心にその数、十万を超えた。ジー・タイピンダオ(冀州太平道)は、男達の天下国家を論じる革命の運動だったが、青洲太平道は、女達を中心にした生活改善運動だった。だから、まずは食の改善に取り組み、山野草や安価な食材を使った薬膳料理の普及に努めた。そうすることで、少しでも子供達の体力を確保し、幼くして命の灯を消す子供達を減らしたのだ。
フェ・シャオ(何邵)は、領地の耕作放置されていた田畑を協働農園に開放した。カンチョン先生と弟子達は各地を回り、貧しい子供達に読み書きや簡単な算術を教えて回った。そうした教団の運営は、主にチャーホァを中心に進められた。太平道の運動に奔走し、元気を取り戻していくチャーホァを、シャオは安堵の思いで見守っていた。チャーホァにとってこの子供の命を守る活動は、亡くした自らの子供への罪滅ぼしだったようでもある。シャオはそんな気がしていた。
シャオが、農地を解放すると各地から流民が集まってきた。流民は元々農民である。だから、青洲太平道の協働農園は瞬く間に多くの富を生むように成った。そして、ここは自由の国である。誰からも搾取されることがなく。皆で働き、皆で富を分かち合った。だから、子供達の笑顔が広がった。シャオは、豪族達に本当の富とは何かを説いて回り、協働農園はさらに数を増した。この静かなる革命の運動に、危機感を抱く官僚もいたが、腐敗した王朝にはその声を聞く耳はなかった。
白い息を吐きながらまっ白い雪の野を、頬を赤らめたチュクムとチャーホァが歩いている。今日も、太平道の村々を訪ね歩いているようである。勿論、その前後には、バイヤン(白羊)と剣士達も歩んでいる。
春の日差しの中を、孟徳は、猫目に手綱を引かせて高密へ向かっている。伴は数名の私兵だけである。彼の威厳と鍛えられた私兵の物腰を見れば、襲ってくる盗賊団などいないだろう。もし命知らずの賊徒がいたとしても、瞬く間に孟徳に切り伏せられるだろう。
彼は、屈強な大男ではない。背丈は男としては高くない方である。その武人としての欠点を補う為に素早さを身につけた。剣でも組み手でも、とにかく動きが速いのである。つまり相手の懐に飛び込むという戦い方である。剣なら脇腹を切られ、組み手なら投げを打たれるのである。背丈の優位がない馬上での戦いなら天下無双であろう。それに気が強い。たとえ相手が巨漢の荒武者であろうと怯むことはない。むしろ自分より強そうな相手には更に闘争意欲が湧く性質(たち)である。
しかし、か弱い者にはとんと弱い。特に女子供に泣かれるのが大の苦手である。だから、シュォ(曹子鑠)が労咳であると分かり泣きくれる正妻チュンユーと養母美玲の姿を見ているのは耐えられないのである。そんなことなら、自分が薬探しの旅に出た方が気も休まるというものである。
レンチョン(任城)の近くまで来ると、太平道の噂が聞こえてきた。そこで、任城に向かうことにした。いずれにしてもガオミー(高密)の途中の街である。任城の郊外まで来ると百姓達の表情が明るいことに気がついた。そして、女達が生き生きと働いている。孟徳は、一人の女に太平道のことと小娘のことを尋ねてみた。
顔をあげた女は若く気品に溢れていた。そして、フェ(何)家の当主シャオの妻でチャーホァだと名乗った。それから、「その小娘とは、チュクム様のことでしょう。チュクム様なら今我が館においでです。どんな御用ですか?」と聞いてきた。そこで、「労咳の薬を探している」という話を伝えると、案内してくれることになった。どうやら、この女達も太平道の信徒のようである。そして、猫目は複雑な心境である。
館の門を潜ると、中庭では、黒い胡服に身を包んだチュクムが、数人の男達と剣を合わせている。「なかなか見事な剣さばきだ」と見惚れていると、稽古を終えチュクムが近づいてきた。それから、猫目の肩をポンと叩き「元気そうね」と言うと、付いて来いという仕草をした。そして、板葺の四阿(あずまや)に案内すると、チュクムは、裾の長い青い漢服に着替えた。その薄くて涼しげな深衣は、どうやら茶を振る舞う際の茶装のようである。それから、すっと背筋を伸ばし、鉢に湯を注いだ。
鉢の中で蓮の花がぱぁっと咲くと、青竹の柄杓で茶をすくい土器の茶碗に移した。そして、孟徳達に蓮茶をふるまった。相変わらず十六歳の小娘だとは思えない立ち振る舞いである。背丈は孟徳より頭半分位高いので座椅子に腰を降ろしている孟徳達は、必然的にチュクムを見上げる形になる。猫目などは、すっかりデレーっとした表情になっている。
孟徳は、何となく気負わされているこの状況を変えようと「どうですかな。一度、私と剣を交えてはくださいませんかな」と言ってみた。すると、チュクムは、にっこり微笑み「いつでも」と言った。そのチュクムの不遜な態度に“なかなか負けん気の強い小娘だ”と愉快な気持ちに成ってきた。
茶を楽しみ一息つくと、皆は中庭に戻った。そして、孟徳とチュクムの剣の手合わせが始まった。孟徳は素早く切り込んだ。しかし、チュクムは、蝶が舞うように身を翻し、返す刀で孟徳の脇腹を狙った。孟徳は辛うじて左手で小刀を持ち受け止めた。猫目が「惜しい」と呟いた。どうやら猫目は、チュクムを応援しているようである。
上体が不安定になったチュクムの裾を孟徳は素早く引いた。チュクムが倒れこむと、孟徳は素早く覆いかぶさり、チュクムの喉元に小刀を当てた。それから、じっくりとチュクムの顔を覗き込むと、口づけを交わすほどに顔を近づけた。突然チュクムの右手が、孟徳の頬に平手打ちを喰らわせた。「勝負あり。天下様の負け」と勢い良く猫目が、チュクムを引き起こした。孟徳は、猫目の頭をゴンと小突いた。チャーホァがくすっ笑いを堪えた。
猫目に場を和まされ、話は本題に入った。チュクムもチャーホァも労咳の薬のことは知っていたが、孟徳の側室チンリンと同じように自分では作れないそうである。だから、やはり加太の元に行くより手がないと分かった。二日後に、チュクムとチャーホァが、高密への巡礼の旅に出るということなので同行させてもらうことになった。
その夜は、当主のシャオも交えての酒宴になった。語らううちに、孟徳とシャオは互いの見識に感心し意気投合した。孟徳は、シャオとの語らいの中で太平道はただの邪教ではないと理解し始めた。翌日は雨が降った。雨に霞んだ蓮池の中に淡い緑の深衣を纏ったチュクムが入って行った。深衣の裾がふわりと水面に浮かんだ。猫目が「あの池の水をみな飲み干したい」と言った。孟徳は「こやつにとっては、あの蓮池も花茶に思えるようだな」と苦笑いした。
出発の日は快晴と成った。孟徳には、この旅で、以前太平道の村が、忽然と消えた謎が解けた。巡礼団は、二百人前後の規模である。その巡礼団の為に点々と村が有り、巡礼団はそこを拠点に、数日を過ごし、近隣の村々を訪問しているのである。
チュクムが病人を治す様は、孟徳が予想していたように、薬での療法が主だった。しかし、薬での回復が思うようにいかないと、チュクムは、不思議な力を発揮した。夢うつつと成り、何やら奇妙な言葉を発するのだ。すると、チャーホァが、あれこれと周りの者に指示を出す。その指示に従って治療すると、回復するのである。ある村で、息を引き取ったばかりの赤子を甦らせた時には、流石の孟徳も息を飲んだ。
しかし、普段はいたって可愛い娘である。特に子供達とは良く遊び、良く笑った。孟徳は、自分がこの小娘に惹かれていくのが可笑しかった。まるで少女にときめく少年に戻ったようである。猫目のことは笑えない自分がそこに居ることに気がついたのだ。
高密に到着すると、加太は居なかった。高密から、海辺に向かい一日程行くと、チンダオ(青島)という小さな漁村が有り、そこに出かけているそうである。帰りは分からない、ということなので、青島まで出かけていくことにした。そして、それにはチュクムも付いてきてくれることになった。チュクムも、少し孟徳に興味を持ち出したようである。初めは危険な匂いをさせる男だと思っていたが、話している内に大志を秘めていることに気づいたのである。
青島に着くと、大きな外洋船が陸に引き上げられていた。老朽船である。加太はその老朽船で暮らしているようだ。近づくと「チュクム久し振り~」と天空よりシカ(志賀)の声が聞こえてきた。見上げると、帆柱の上にシカが立っている。そして、両手を広げると、ふわりと宙に浮きチュクムの許に降りてきた。また何やら加太の不思議な発明品のようである。天使の傘というものらしい。
シカに導かれて甲板に上がると、船楼の前で、ミヨン(美英)が大きな布に紙を張り合わせている。簡単に挨拶を交わすと、チュクムは、孟徳を紹介し、加太に会いにきた理由を話した。しかし、加太は、巨大な天灯に乗ってどこかを飛んでいるようである。どこを飛んでいるのかは分からない。その空飛ぶ乗物は、未完成品である。だから今頃どこをどう飛んでいるのかは、風にでも聞くしかない。チュクムは、目を閉じて加太の気を追った。どうやら、東海上空を飛んでいるようである。この様子では、数日は戻りそうにない。仕方がないので、チュクムと孟徳は、剣を打ち合わせながら過ごすことにした。
日が傾くと、漁師達が海から戻ってきた。そして、沢山の海の幸を、ミヨンに届けてくれた。日ごろ病気やケガを治してもらっているお礼のようである。そこで、今夜は海の幸の薬膳料理と成った。しかし、猫目の顔が浮かない。猫目は魚が苦手なようである。「猫なのに?」と、チュクムが尋ねると「猫は肉食だからネズミは好物だが魚は嫌いだ」ということである。そこで、シカは、山の猟師の許まで飛んで行き猪肉を分けてもらってきた。それで猫目の機嫌も直った。
翌朝、猫目は、「山の猟師に礼を言いに行く」と、シカを案内に頼み山に向かった。ミヨンは、例の紙貼りに忙しい。暇なので、チュクムと孟徳は、干潟の朝日を見に行くことにした。特に危険な様子はなさそうなので、お供の剣士達には、ミヨンの作業を手伝わした。
浜の葦原では、海鳥が巣作りに忙しい。干潟では海ハゼの仲間達が求愛行動中である。突然、孟徳がチュクムの背を、乱暴に突いた。チュクムは、砂浜に膝をつき両手を砂の上についた。すると孟徳は、チュクムの深衣の裾をひょいと絡げた。ビューっと、チュクムの臀部を、芦原の海風がなでた。「おお、良い尻だ。まるで駿馬のような丸みだな」と、孟徳は言うと、ゆっくりと矛先を埋めていった。チュクムは、昇る朝日に吠えた。そして、干潟のフーミーツァォ(狐米草)が勢い良く風にそよいだ。
~ 東風に吹かれて ~
東の空に稲妻が走った。初冬の嵐である。北東の風が屋根の板葺きを軋ませた。産屋から元気の良い産声が響いた。どうやら元気な女の子のようである。チャーホァは赤子を抱きあげると蓮池の水を温めて身体を洗った。そして、木綿の産着に包むとチュクムの傍らに寝かせた。「女の子なら、名はヂェン・ファ(姫華)だ」とジャオ祖父ちゃんは告げていた。姫姓は、ジャオの母方の姓である。太平道が大きくなるにつれて、流石に漢王朝も警戒を強めてきた。その為に、この先どんなことが待ち構えているか分からない情勢に成って来たのである。そこで、万が一を考えて、孫娘には姫姓を名乗らせることにしたようである。
ヂェン・ファ(姫華)は元気だが小柄な赤子である。どうやら孟徳の血を強く引いたようである。しかし、孟徳は、娘の誕生を知らない。加太は、あれから半年帰らなかった。東海の島まで流されたらしい。そして、帰りは船を乗り継いで青島にたどり着いたのである。その間を、チュクムと孟徳は二人で過ごした。猫目はすこぶる機嫌が悪い。しかし、加太が帰り着き、シュォ(曹子鑠)の労咳(ろうがい)を抑える薬が出来たら、孟徳は本宅に戻って行った。もちろん、猫目も渋々付いて帰った。
チュクムに孟徳を追う気はない。チュクムには男の為に生きる気がないのだ。彼女はいつでも自由でいたい。だから、独りでこの娘を産んだ。それに、チャーホァや信徒の皆がいるので不安はない。その為、十七歳の幼い母親は、育児も授乳以外は最初から放棄している。赤子は、皆が育ててくれるだろう。特に、チャーホァとシャオは、わが子のように可愛がってくれている。そう考えて気楽なものである。だから産後の肥立ちもすこぶる早かった。ひと月も経たないうちからもう剣を振るっているのである。
カンチョン先生は、ヂェン・ファ(姫華)にもう一つの名をつけてくれた。ヂャオミー(昭弥)という名である。「どこまでも広がり明らかにしていく」という願いが込められている。だから、青洲太平道の信徒達は、ヂャオミーと呼んだ。チュクムは、フーミー(狐米)とあだ名を付けて呼んだ。この子は葦原の子である。そして、良くフーミーツァォ(狐米草)の芦原に寝かされて育った。だから風の子でもある。
孟徳が持ち帰った加太の薬で、シュォ(子鑠)の容態は、随分と回復してきた。チュンユー母さんと美玲祖母ちゃんは、ほっと胸を撫で下ろした。しかし、相変わらずチュンユーに、子が授かった萌しは見えなかった。チュンユーは、まだ二十三歳で至って元気である。そこで、養母美玲は、孟徳に問題があるのだと、怪しい薬を色々買い求めて、飲ませようとする。これには、流石の孟徳も閉口した。
そして、猫目は天母美玲の肩を持ち右袒(ゆうたん)した。その上に、更に怪しい薬を、美玲に勧めた。弱り果てた孟徳を救ったのは、側室チンリンである。彼女は「正妻の春玉様に子が授かるまでは、自分も子を孕まない」と姑の美玲に告げた。そして、怪しい薬ではなく、薬膳料理作りをチュンユーと美玲に薦めた。
チンリンが左袒してくれたことで、孟徳は、難を逃れることが出来た。二人は、チンリンに、薬膳料理を習い、三人のお茶会は、ますます親しさを増した。天母美玲は、買いためた怪しい薬を、すべて猫目に与えた。しかし、猫目は独り身である。怪しい薬で悶々とした夜を過ごすのは、勘弁願いたいところである。そこで、要領の良い猫目は、その怪しい薬を、怪しい闇市で、高値で売り捌いた。そして、倭国の翡翠の首飾りを、チュンユーと、美玲と、チンリンの三人に贈った。チュンユーは、その高価な贈り物に驚き「どうしたの?」と猫目に訪ねた。猫目は「知人の倭人が安値で売ってくれた」と嘘を吐いた。後で、孟徳が「この嘘つきめ」と猫目の頭を小突いた。猫目は「俺は正直者だから、やっぱり、天下様みたいには、上手に嘘はつけねぇ」と舌をだした。孟徳は、金貨の詰まった小袋を、「もう、それ以上何も言うな」と猫目の口に捻じ込んだ。
夏の暑さが少し和らいだ頃、ビィェン・チンリン(卞青鈴)の中庭に、甘い芳香が立った。赤紫のその花は、葛の花である。葛は、強靭な雑草でもあるので、ふだん普通の庭には植えない。しかし、チンリンの庭は、薬草の庭である。その為、様々な山野草や雑草が植えられている。正妻チュンユーは「まるで貴女そのもののお庭ね」と笑った。確かに、か細い身体つきだが、チンリンは、雑草のように力強い淑女である。天母美玲は、その光景を、目を細め眺めながら「でも甘い良い香り」と、葛の花の香りを愛でた。
チンリンは「この根を干した物は、葛根(かっこん)と言い、冬に風邪を患いそうになった時に薬になります。また、すり潰し、晒しながら粉を取ると、美味しい料理がいろいろ作れますよ」と美玲に説明した。すると「この籠も葛の蔓で作ったんだべ」と猫目が口を挟んだ。
猫目に手をひかれた、四歳の孟徳の長女チュンリン(春玲)が「まぁ可愛い籠だこと」と、果物を盛られた台の上の籠を覗き込んだ。「姫様や、お気に召したなら持って帰るべ」と猫目は、籠から果物を台の上に移し、勝手に籠を春玲に渡した。「これこれ、猫目や。何と勝手なことを!!」と、天母美玲が猫目を叱ると、猫目は「天母様。大丈夫。大丈夫。また作れば良いべ」と悪ぶれる様子がない。そこで、チンリンが「作った猫目がそういうなら大丈夫ですよ」と言い添えた。
天母様は驚いて「あら、この籠は猫目が作ったの? あなた随分と器用なのね」と猫目を褒めた。猫目は「天母様が気に入ってくれたんなら、オイラいくらでも作るべ」と鼻高々である。
今日は葛粉を使った料理を作ることに成った。病が癒えたとはいえ、七歳になったシュォは、やはり病弱である。兄のズーヨウのようには強くない。ズーヨウは、孟徳に瓜二つである。文武ともに優れ、十歳だというのに、もう周りからの人望も高い。その為皆は、ズーヨウが「将来曹家の当主になろう」と信じて疑ってはいない。
その分、病弱な弟は気が楽である。だから、今日も料理を習おうと意欲満々である。突然、東風が庭の砂塵を舞い上げた。咄嗟に、猫目がシュォと幼いチュンリンを庇った。屈み込み顔を伏せていたチュンユーと美玲とチンリンの三人は、風が収まると顔を上げて、飛ばされた食材を集めなおしている。
シュォとチュンリンは、砂まみれになった猫目の髪や服を叩いて砂を落としている。猫目は、シュォを抱き上げると「吉兆だ。これで若様の元気が付いてくるぞ」と言った。美玲は「猫目や。何故東風は吉兆なの?」と聞いた。「そりゃ天母様、東海の東には、宝の島があるからさ。だから、東風は宝風さ」と答えた。
幼いチュンリンが「何故東海の先には宝があるの?」と聞いた。猫目は「そりゃ姫様。大昔からシャー(中華)の宝は、みんな東海の彼方に消えたからさ」と答えた。側室チンリンが「猫目は物知りね」と感心した。しかし、実は、彼女もそのことが正しいと聞かされていた。チンリンのご先祖、斉の国の民も多くが東海の海に逃れたのである。彼女のご先祖は、田家の一族である。
年が明けて、倭国からチュクムに贈り物が届いた。それは、フーミー(狐米)ことヂェン・ファ(姫華)への贈り物である。本当は、巫女女王が、愛おしい双子の妹ユナ(優奈)に贈る筈の首飾りであった。チュクムの母優奈は、シャーではユェファ(月華)と名乗っていた。その母ユェファが、身につける筈だった黒真珠の首飾りである。それを孫娘に贈り届けた。
黒真珠の首飾りは、ほのかに紅色をした肌のフーミーに良く似合った。チュクムは、面影のない母を思いながら愛娘の胸元に首飾りをそっと置いた。もし、巫女女王がこの赤子を見たならば「嗚呼、優奈に生き写しね」と涙を浮かべて喜んだことだろう。だから、この黒真珠の首飾りは、フーミーの胸を飾る運命にあったのかも知れない。
チュクムは、黒真珠の首飾りを見ながら、自分には神剣「魂凪」の方が似合っていると思った。彼女は、自分でもその激しい気性を自覚していたのである。それは、尹家の戦さ場の巫女の血であろう。「その血は、この娘にも受け継がれていくのだろうか。でも、この娘の大きい瞳には翳りはない。良く笑うその声に黄泉の歌声は混じっていない。だから、きっと大丈夫。従姉妹の希蝶からだって戦さ場の巫女の血は感じられない。フーミーもきっと希蝶のような明るくて賢い娘に育つことだろう」と、チュクムは願っている。
フーミーは、一歳を待たずして歩みを始めた。それも驚くほどにしっかりした足取りである。チャーホァとシャオは、その足取りを真似ながら嬉しそうに付いて回っている。娘の乳離れが終わると、チュクムは完全に育児放棄状態である。だから、フーミーの両親は、チャーホァとシャオである。
シャオは若くして隠棲するつもりだったが、すっかりタイピンダオ(太平道)の指導者の一人として多忙な毎日に追われている。彼は、元来素朴で口べたであったが、その博識においてこの国では並び立てる者がいなかった。その為ジャオは、彼を頼りにした。
太平道は、道教を柱にした宗教団体の顔をしてはいたが、その中身は革命党だった。中でも、マンチョン(曼成)が起こしたジン・タイピンダオ(荊太平道)は、明確に漢王朝打倒を目論んでいた。そもそも荊太平道の中核をなす山越族は、長年に渡り漢民族から虐げられてきたのである。だから、彼らにとって革命は、謀反ではなく解放運動である。漢王朝がその暴虐を改めなければ、山越族は、漢王朝を打倒しなければ生きる術がない。
ボーツァィ(波才)が立ち上げたユー・タイピンダオ(豫太平道)は少し様子が違った。ボーツァィの実の父リー・グー(李鼓)は、改革派の中堅官僚だったが無実の罪で葬り去られた。そして、長兄ブォウェン(博文)も地方に左遷されていた。ボーツァィは、養父リュワン(呂望)の跡を継ぎ、川漁師の親玉に納まっていたが、ジャオの思想に触れ革命党を立ち上げた。貧民と改革派が手を結び悪政に立ち向かう豫太平道は、まさに漢王朝改革派の拠点になっていた。だから、武力闘争は念頭にない。
そして、ジャオが率いるジー・タイピンダオ(冀太平道)も独自性を持っていた。冀州は、都から一定の距離があり、東には大海を控えている。だから、経済的にも豊かな処である。そして何よりもバイフー(白狐)の大商人団が支えてくれている。だから、漢王朝に頼らずとも国を成せる要素がある。国の経済を支えるバイフーに加え、国政を司れるシャオの存在があれば、独立国を造ることが可能なのである。だから、冀太平道の運動は独立運動の要素が強かった。
建国の理念は自由の国である。しかし、ジャオはそこで王に成ろうとは思っていない。その自由の国の王は、マー・ユェンイー(馬元義)にしようと考えている。そして、自分は益州に行きヨウ(脩)やゴンチー(公祺)のウードウミーダオ(五斗米道)運動を手助けしようと考えている。
天命を革める力は情熱だ。主義主張は、生き残る方便のようなものだ。だから正義は遷ろうものである。革命が天命を変えることであるならば、民衆への情けの為に戦うのがジャオの使命であり、それが彼に課せられた天命である。だから、王や皇帝に成ることは考えていない。ジャオの終焉の地は、民が自由の国を目指す処である。
しかして、チュクムの青洲太平道は更に独自性が強かった。冀州や、豫州や、荊州の太平道が主に男達の革命運動であったのに対し、青洲太平道は、女達が中心になった協働の社会だった。だから静かなる革命の運動である。
チュクムを大地母神と仰ぎチャーホァが束ねる青洲太平道は、母系社会の様相を帯びている。だから、奪い合うのではなく分け合う社会である。武器よりも農具や漁具が戦いの道具である。もしかすると、この地には未だに墨子の教えが根付いているのかも知れない。墨子の教えの中心は兼愛と非攻である。そして、青洲太平道もこの傾向が強い。生存競争より相互扶助を尊ぶ集団なのである。
だから、冀州や、豫州や、荊州の太平道のようには過激思想には傾かない。しかし、武力もまた強大である。何より教祖のチュクムが太平道の中で無双の武人である。元は国軍の勇猛な武官だったマンチョン(曼成)も舌を巻く程である。そして、マンチョンが伝えた戦術を、最も青洲太平道自衛隊は習得していた。だから、漢王朝の正規軍も歯が立たないほどに精鋭である。
しかし、戦いになる危惧はなかった。幸いなことに、青洲の官僚達は皆、青洲太平道に寛容であった。その背景には、カンチョン(鄭康成)先生の存在や、チュクムが高潔官僚で名の行き渡っていたユェンジェ(元節)の血を引くことも由来していたようである。ユェンジェは、守旧派に追われなければ漢王朝の最高位の官僚に成った人である。だから、多くの官僚がユェンジェに敬意を払っていた。特に地方の高官として赴任する官僚にはその傾向が強かった。そして、彼らも内心は改革派なのである。青洲はシャー(中華)の東の果てである。そこから吹く風は、シャーの民には吉兆なのかも知れない。
三日の間、冬の嵐が吹き荒れた。風が収まった早朝、白銀の森を一群の騎馬隊が進んで来る。しかし、漢王朝の正規軍ではない。身なりが山賊である。しかし、山賊の頭は大将軍の威厳を湛えている。そして、その配下もただの盗人達ではない。白狐の皮衣に身を包んだその男は、高齢のようである。髪と髭は、雪原に溶け込むほどに白い。
山賊の一群が馬を止めたのは、カロ(華老)の屋敷前である。若い男が門を潜り家人を訪ねた。すると、チュクムが応対に出てきた。男は馬を降りるとチュクムの前に立ち「良ぉ~伸びたのう」と親しげに声を掛けてきた。チュクムは、その老人に見覚えがない。男はチュクムの怪訝な表情に「ワシ(私)が誰か分かるまい。無理もない。お前はまだ赤子だったからなぁ。しかし、その燃え盛るような赤毛だけは変らんのう」と語り、「ところで、チュクムよ。カロ兄は在宅かな?」と問うた。
すると、表の声を聞きつけたウェン(文)祖母ちゃんが、ヂェン・ファ(姫華)を抱いて駈け出してきた。そして「どうしたのシュン(勲)兄。突然に訪ねてきて。さぁ中に入って」と嬉しそうに導いた。どうやらこの山賊の頭は、ウェン祖母ちゃんの身内のようである。炉端に腰を下ろすと山賊の頭は、「ワシ(私)にもその天女を抱かせてくれ」と言ってヂェン・ファを抱き上げた。
一歳に成ったヂェン・ファは愛嬌笑いが上手である。山賊の頭は「ほうほう、この娘は、母様に似ず愛想が良いのう。名は何というのだ」とウェン祖母ちゃんに聞いた。ウェン祖母ちゃんは笑いながら「本当にチュクムは、いつもシュン兄を睨みつけていたものねぇ。この娘の名はヂェン・ファよ。可愛いでしょう。フーミーっても呼ばれているよ」と言った。シュン兄は「ほう。姫姓を名乗らせているのか。道理でワシ(私)に愛想が良いわけじゃ。のう」と、チュクムをチラリと眺めてウェン祖母ちゃんに笑いかけた。
ウェン祖母ちゃんは、無愛想なチュクムに「この人は、私の従兄なの。名はヂャン・シュン(張勲)と言って、元は私と同じように姫姓から出た張氏なのよ」と説明した。その説明を聞いているのか聞いていないのか、チュクムは無愛想なまま炉端に新しい薪を加えた。炎が勢い良く立ちあがり薄暗い部屋を照らした。
ヂェン・ファが突然カラカラと愉快そうに笑った。その笑いに誘われたのかバチバチと火の粉が弾け天井に向かい蛍のように飛んでいる。墨色の戸口を開け眠たそうに目を擦りカロ(華老)祖父ちゃんが起きだしてきた。「カロ兄よ。随分と朝寝坊だな」と山賊の頭シュンが揶揄(からかい)気味に言った。「いやぁ。夕べはフーミーの機嫌が悪くてなぁ。一晩中抱いてあやしていたのさ。あれは、大男の山賊がくるぞぉ~という警告だったようじゃわい」とカロ祖父ちゃんも揶揄で返した。
ウェン祖母ちゃんが「ところで、シュン兄。ヂュ・イェン(褚燕)はどうしているの?」と聞いた。「嗚呼、数日後にはイェンの奴めも到着する。出がたに一寸した揉めことが起きてなぁ。イェンが始末をつけているところよ。あいつも今じゃりっぱな黒山党の党首よ」とシュン兄が答えた。
感慨深そうにウェン祖母ちゃんが「街で物乞いをしていたイェンをシュン兄が拾って来たのは、あの子が九歳の時だったわよね。あれから三十九年も経つのね。お互い白髪頭に成る筈ね」と微笑んだ。
山賊の頭ヂャン・シュン(張勲)は、昔漢王朝軍の武官だった。十七歳で太学に学び武官になった後は、都尉から司隷校尉まで務めた。都尉だった頃、若い侍中の横暴な態度を戒めたことがある。その侍中はリャン・ブォヂュオ(梁伯卓)という男で時の大将軍の息子だった。そして、妹は皇帝の妃である。父のリャン(梁)大将軍と妹の皇后は、とても優れた人柄だったが、ブォヂュオは呆れる位に傲慢な男だった。そのブォヂュオが父の死を受けて大将軍に成った。
仲間の面前で戒められたことへの恨みを抱き続けていたブォヂュオは、司隷校尉になったヂャン・シュンに、濡れ衣を着せ葬り去ろうとした。シュンは腐敗していく王朝に嫌気がさし下野した。職を辞し故郷に帰った後もブォヂュオの執拗な追及は続き、ついには家族とも別れ独り山野に逃れ義賊団・黒山党を結成した。そして、名もヂャン・ニィゥジャオ(張牛角)と変えた。それからもう四十一年である。
初めは共にリャン・ブォヂュオ(梁伯卓)の悪政から逃れた七人の仲間と結成した黒山党も今や五十万人を擁する大集団である。否、集団というより国と言ってよい規模である。しかし、各地の盗賊団をまとめあげたこの大集団には、国政を司れる者はいない。それが、張牛角の目下の悩みの種である。
養子にした孤児のヂュ・イェン(褚燕)は今やりっぱな山賊団の頭である。その武勇と見識は正規軍の武官達にも劣らない。そして、身のこなしの速さと、巧みな用兵は、猛将ヂャン・マンチョン(張曼成)に並び立つ程である。だから、皆はフェイイェン(飛燕)とあだ名している。飛燕こと褚燕の悩みも、養父と同じように国政を司れる同志が居ないことだ。つまり、太平道におけるフェ・シャオ(何邵)のような人物を欲しているのである。
ジャオの仲間達には、太学で国政を学んだ者も多い。そこで、ジャオにシャオのような人物を推挙してもらおうと考えた訳である。更には、太平道がシャー(中華)の東部に自由の国を建国するなら、そこに加わろうとも二人は考えていた。三日後には、太平道の各指導者が集まる会議が開かれる。そこに二人は参加し、皆からの意見をもらおうという心積もりである。
勢いよく燃え盛っていた炉端の炎も程よく治まり熾火(おきび)が出来た。チュクムは、その熾火の上に大鍋を乗せ、粥を作り始めた。山賊団の分も含めた朝餉である。ジャオとバオとリャンの三兄弟は各地を飛び回りまだ帰っていない。だから、粥を食べられるように成ったヂェン・ファ(姫華)を含めた一家四人と、山賊団との朝餉である。
チュクムに粥を手渡された張牛角が「おお、水芹(すいきん)の香りが冷えた体に効くわい」と声を上げた。その声に釣られるかのように、山賊団はチュクムから粥を受け取った。誰彼なしに「噂に違わぬ巫女女王の粥だのう」と囁(ささや)きが洩れた。どうやら、漢王朝に服わぬ者達の間では、チュクムは、既に女王のような存在らしい。
その上にチュクムは美少女剣士としての名も高い。男王であれば武王と諡名(おくりな)をされるのかも知れない。今、太平道では「武力革命」か「平和革命」か「独立運動」かの意見に三分され話し合いが続いている。
「武力革命主義」の先鋒は、荊太平道の猛将ヂャン・マンチョン(張曼成)である。「平和革命主義」の先鋒は、やはり荊太平道の教祖リャン(張梁)である。リャンの人と成りは、穏和にして義に富む所が多い。だから誰にも優しく争いを好まない。しかし、虐げられてきた山越族の怒りも良く分かってはいる。だから、マンチョンが己の蛮勇で「武力革命主義」を掲げている訳ではないことも良く承知している。
そこで、リャンの言い分は「今兵を挙げれば、国内に内乱を引き起こす危険性がある。悪政を正すのであれば、官僚を味方に引き入れ、皇帝に直に改革を進言する方が良い。もし、それが叶わなければ、挙兵しよう」というものである。
「独立運動主義」を唱えたのはフェ・シャオ(何邵)である。シャオの主張は「シャー(中華)が一国に成ったのは、始皇帝ヂョン(政)の時からであり四百年程の歴史でしかない。それまでは各民族や氏族が多数の国を成していた。だから今、我々がシャーの東方に国を成すのは不思議なことではない。また、益州を中心にヨウ(脩)とゴンチー(公祺)のウードウミーダオ(五斗米道)が国を為せば、東西を挟まれた漢王朝には安易に手が出せまい。そうして三国が分立するのが戦禍も抑えることが出来よう」というものである。
今回の会合はその三つの案をすり合わせ太平道の行く末を決めようというものである。三日目の会合は夜遅くまで紛糾した。そして、ジャオは「まず、マー・ユェンイー(馬元義)が、官僚達に働きかけ改革派の勢いが増せば、それを支援し一挙に守旧派を王朝から追放する。その見込みが立たなければ各地で一斉蜂起し、東方と西南にダオ(道)による新しい国を建国する。但し、戦火を広げない為に漢王朝の打倒までは深追いしない」と決めた。そして、その時期は来春と決まった。張牛角もそれに同盟し、加えて各地の山賊団にも働きかけてくれることに成った。チュクムはその会合をじっと聞いていたが何も発言しなかった。やはりチュクムの革命路線は違うようである。その冬は厳冬の様相を増した。
~ 悲しみの風雲児 ~
秋の日暮れ、河原の小道を、とぼとぼと歩いて行く少年がいる。道の脇には青紫色の竜胆(りんどう)の花がポツンと寂しげに咲いている。少年は、竜胆の花を手折(たお)った。ふと眼をやると、その先にも竜胆の花がぽつり、ぽつりと咲いている。少年は、ぽつり、ぽつりと、花を手折りながら丘の上に登って行った。
丘の上に立つと川面に夕日が映えていた。その丘の上は墓地である。一つの墓標の前に立つと、少年は、竜胆の花束を墓前に添えた。その墓に眠るのは、少年の母である。母は竜胆の花が好きだった。
少年の母が亡くなったのは昨年である。少年はまだ六歳だった。少年はもうすぐ養子に出ることになっている。養子に行けば、しばらく母の墓前に参ることが出来ないかもしれない。そう思い母に別れを告げに来た。
母の名は、リージュン(麗君)と言い、元は妓女であった。そして天涯孤独の身だった。母リージュンは、二十一歳で少年の父に身請けされ、二十二歳で少年を産んだ。そして亡くなったのは二十八歳の若さであった。
少年の父には既に正妻が居り、長男や長女に次女もいた。だから、少年は所謂(いわゆる)妾腹(めかけばら)である。しかし、父は少年を愛おしんだ。父は心の底から少年の母リージュンを好いていたのである。だから、独り残された少年が痛ましく思えて辛かった。少年の継母に当たる正妻ヂェン・シュゥァン(甄爽)も、幼くして母を亡くした少年に優しかった。異母兄や姉達も同じように少年を可愛がってくれた。だから、少年に家族に対する不満はなかった。
しかし、妾の子は、やはり妾の子である。当主に成れる可能性は低かった。そこで、父は少年を兄の養子に出すことにした。少年の伯父は本家の当主である。しかし、娘ばかりを授かり男子に恵まれなかった。そこで、父と伯父は相談し少年を本家の跡取りとした。少年の名は、ユエン・ベンチュ(袁本初)という。後年、袁紹と言う名で語り継がれる男である。
本家とは名門汝南袁氏である。養父となる伯父ユエン・ウェンカイ(袁文開)は、王宮を守る将軍職についていた。義姉となった従姉妹達は四人姉妹だった。長女は、ベンチュより七歳年上でメイチュン(美春)という名だった。次女は五歳年上で名はチュンリー(春麗)である。三女は三歳年上で名はリーレイ(麗蕾)である。そして、四女はひとつ年上のレイメイ(蕾美)である。
姉達は皆ベンチュを可愛がってくれたが、中でも末っ子だったレイメイは、弟が出来たのでうれしくてお姉ちゃん振りを大発揮してくれた。だから、レイメイが嫁ぐ日まで、ベンチュは、いつもレイメイの後をついて回っていた。
養父ウェンカイには沢山の甥達がいたが、ベンチュはずば抜けて賢かった。一族の中には「妾腹を一族の当主にするのか」という陰口もささやかれたがウェンカイは無視した。彼は、人の面倒見が良く所謂(いわゆる)親分肌の人だった。だから、困り事があると人々は、彼を頼ってきた。しかし、ウェンカイ自身は、ベンチュの実父で弟のユエン・ヂョウヤン(袁周陽)の方が優れていると思っていた。そして、ベンチュは弟ヂョウヤンに瓜二つである。
本家の当主ウェンカイには十一人の弟妹が居た。だから、ベンチュの従兄妹は、数十人程居り覚えきれない位であったが、ウェンカイの目には一番にベンチュが映っていた。しかし、ベンチュが十三歳の時、王朝を跋扈(ばっこ)していた暴臣リャン・ブォヂュオ(梁伯卓)が誅殺されたのである。ブォヂュオを成敗したのは、時の皇帝劉志に仕えた宦官達である。その際、養父ウェンカイも高官の一人として連座され刑死したのである。人望が高かく、名君の誉れが高かった当主ウェンカイを亡くした汝南袁氏は、一時的に窮地に陥った。そこで、汝南袁氏の当主は、ベンチュの実父ヂョウヤンが担い、汝南袁氏の復興を図った。
ベンチュが十八歳の時、同じく汝南の名門甄氏から妻を娶った。新妻の名はヂェン・チャン(甄姜)と言い、まだ十三歳だった。したがって、これは一族と一族の婚姻である。この頃の漢王朝は、皇帝を名乗ってはいても始皇帝ヂョン(政)のような絶対的な権力はない。有力な名門豪族が各地の覇権を握り皇帝の名を借りて王朝を運営しているのである。そして、汝南袁氏や汝南甄氏もそのような名門の一族である。
孟徳の曹氏も大家ではあるが、曹氏は孟徳の祖父ツァオ・ジーシン(曹季興)から成り上がった新興勢力である。孟徳の祖父ジーシンは、順帝、冲帝、質帝、桓帝の四代に亘り皇帝に仕えた宦官である。中でも順帝とは寝起きを共にした学友でもあった。つまり、順帝のお守役である。歳が近かった順帝は、ジーシン(曹季興)を兄のように慕い二人の絆は死ぬまで強かったようである。そして、暴臣ブォヂュオを倒した桓帝の代には、宦官の頂点大長秋まで昇りつめている。
桓帝は、ブォヂュオの脅威から我が身を守ってくれた宦官達を頼りにした。そして、宦官に養子を取っても良いという破格の特典を与えた。それまで我が身一代で絶えた宦官が一家を成せるようになったのである。孟徳の曹氏はそうして大家となった一族である。だから、家の格式からすると、明らかにベンチュの汝南袁氏の方が高かった。
新妻ヂェン・チャン(甄姜)の父は、ヂェン・イー(甄逸)といい名門汝南甄氏の当主である。母は、ヂャン・ヂェン(張姫)といい常山の張氏である。したがってジャオの母ヂャン・ウェン(張文)とは同門である。
家柄の良さに加えて清廉であったベンチュは、幼少にして官僚に取り立てられ、二十歳の時には、濮陽県の県令に任命された。勿論、孟徳のような荒っぽい出世の仕方ではない。ベンチュには、良家の子息らしい優雅さが漂っている。しかし、裏返せば孟徳のような積極性に欠ける面もある。
但し、義侠心は、ジャオや孟徳にも劣らない。「自分は妾の子だ」という負い目が、良家の子息に有りがちな傲慢さを抑え、低い身分の者にも気遣いを怠らない。そして、県の民で優秀な者には、身分や資産の優劣を問わず要職を与えた。だから、濮陽県の民はベンチュの評判を高めた。
ベンチュの妻ヂェン・チャンは、五年が経っても子を生さなかった。そこで、ベンチュ二十四歳の時に、皇帝の一族につながる劉氏より側室を迎えた。名をリィゥ・シュェ(劉雪)といい十五歳だった。
しかし翌年、正妻チャンが、長男のユエン・スーシィェン(袁思顕)を儲けた。そして、その翌年には側室シュェ(雪)が、ベンチュの次男ユエン・シイェンヨン(袁顕雍)を儲けた。そして、チャン(姜)が長女ユエン・モンリン(袁夢蓮)と三女ユエン・メイヨウ(袁美友)を、シュェ(雪)が二女アイリン(愛鈴)をそれぞれ儲け、そして最後にシュェ(雪)が、三男ユエン・シイェンフー(袁顕甫)を儲けた。だから、ベンチュは、自身の孤独な身を十分に埋めるだけの家族を得ていた。
正妻:甄姜 | 長男:スーシィェン(思顕)諱は袁譚 長女:モンリン(夢蓮) 三女:メイヨウ(美友) |
側室:劉雪 | 次男:シイェンヨン(顕雍)諱は袁煕 三男:シイェンフー(顕甫)諱は袁尚 二女:アイリン(愛鈴) |
しかし、三男シイェンフーを授かって間もなく、こよなくベンチュを愛しんでくれた養母メイユイ(美雨)が亡くなり、更には実父ヂョウヤン(袁周陽)も世を去った。二人もの愛おしい人々を失ったベンチュの悲しみは深く、全ての役職を辞退して養母メイユイの喪に三年服した。
汝南袁氏の取りまとめは、実父ヂョウヤンの後を継いだ異母兄ユエン・ジー(袁基)が担ってくれた。兄は漢王朝の高官でもあったので、父ヂョウヤンの安国亭侯の爵位も継承していたが、都から遠い安国県の首長には直接赴任せず都で公務に当たっていた。
養母メイユイの喪が明けた年、そもそも病弱だった正妻チャン(姜)が病で亡くなった。ベンチュは、実父ヂョウヤンの喪と重ねて三年の喪に服した。その間、人との交わりも極力少なくし華美な生活は一切避けた。唯一、ベンチュ(袁本初)が下した采配は、長男スーシィェン(思顕)を、跡継ぎに恵まれていなかった兄ジーの養子に出し、安国県の首長として出向させたことである。この時スーシィェンは、まだ十二歳である。
この厳しい采配には意見する者もいたが、ベンチュは「袁家の長男たるもの一国を治められなくて勤まりはしない」と突きはねた。ベンチュ自身も七歳で養子に出され、十三歳で汝南袁氏の当主と成ったのである。だから我が子であればそれ位の試練は当たり前だと考えていたようである。
スーシィェン(思顕)は、長男としての責務だと考え喜んで青洲に赴いた。スーシィェンは、良家の長男で何不自由なく育っているので陽気で前向きな性格である。だから、都から遠い地へ赴くのも悲観してはいない。むしろ、母の死の悲しみを、異国の空が慰めてくれるかも知れないと思っていた。
ベンチュの次男シイェンヨン(顕雍)は寡黙な子だった。だから、陽気な兄スーシィェンを慕い良く付いて回っていた。異母兄スーシィェンも、控え目でおとなしい異母弟シイェンヨンを、とても可愛がっていた。シイェンヨンは、人見知りも激しかったので、異母兄スーシィェンは、唯一無二の存在だった。その為、陽気な兄スーシィェンが家族の元から遠ざけられると塞ぎがちに成った。
一族の中には、「ベンチュは、末子シイェンフーを袁家の当主に据える腹積もりだろう」という噂も起った。確かに、ベンチュは、末子シイェンフー(顕甫)を溺愛していた。シイェンフーは可愛い顔立ちをしており、それに愛嬌に溢れていた。だから、同母兄シイェンヨンや、妹達も末子シイェンフーをとても可愛いがっていた。
しかし、父ベンチュのシイェンフーへの溺愛は更に大きかった。だから、「兄スーシィェンを遠ざけた」という噂に十一歳の多感な少年シイェンヨン(顕雍)の心は傷ついた。そして、父ベンチュへの不信が芽生えた。ヂェン・チャン(甄姜)が亡くなり、ベンチュの正妻となった母のシュェ(雪)は、そんなシイェンヨンの様子を気遣い、幾度となく「父様は思慮深い方だから、あなた達の行く末を良く考えられているのよ」と諭した。しかし、シイェンヨンには納得がいかない。「次は、自分が父から遠ざけられる番だ」という不信が拭えないのである。
だが、ベンチュは「シイェンヨンが最も袁家の当主にふさわしい資質を備えている」と胸の内に秘めたものを持っていた。確かに、周りの者達から見ても、シイェンヨンの立ち振る舞いや勤勉な様子は、最もベンチュに似ていた。しかし、当の本人シイェンヨンは、自分の存在は、「父の中では最も関心が薄い」と思っていた。
ベンチュの末子で三男のシイェンフー(顕甫)は、この時、四歳に成っていたが見事な位に明るくて愛嬌の良い子だった。誰に対してもにっこりと笑い、そして気さくに接した。だから誰からも好かれた。そして、母の劉家の血が濃いのか身体も大きく活発だった。その上に甘え上手である。特に同母兄シイェンヨンに対しては、「ヨン兄、ヨン兄」と甘え付いて回わった。だから、必然的にシイェンヨンも七歳年下の末子シイェンフーを一番可愛く思った。
兄のシイェンヨンは控え目な割には武術に抜きんでていた。だから、弟シイェンフーは、姉達からは歌や踊りを、兄シイェンヨンからは武術を学びながらたくましく育っていった。ある時、弓を覚えたばかりの弟シイェンフーは、手当たり次第に小さな生き物を獲物として狩った。それを、兄シイェンヨンは「虎は、自分が食べる分だけしか他の命を奪わない。それが強者たる者の心得だ」と諭した。するとシイェンフーは「分かったヨン兄、次は虎を狩りに行こう」と言った。兄シイェンヨンは、弟の蛮勇に苦笑した。
またある時、暴れるように踊るシイェンフーに、長姉モンリン(夢蓮)が「フーちゃん。もう少し優雅に舞えないの?」と聞くと「綺麗な踊りは、アイリン(愛鈴)姉ちゃんのものだから、俺は虎の踊りを覚えようとしているだ」と答えた。モンリン姉は、その奇抜な発想に苦笑した。シイェンフーは、誰とも仲良くなったが、自己主張は六人兄弟姉妹の中でも群を抜いていた。所謂(いわゆる)我がままな一面も強く併せ持っているのである。
ベンチュが、母と愛妻と実父の喪に服している間、時勢は風雲急を告げようとしていた。しかし、袁家は、未だ一族の悲しみの帳(とばり)の中で、ひっそりと平穏な日々を送っていた。
~ 放浪の朴念仁 ~
朝霜の降りた野の道を、サクサクと音をたてて、赤子を抱えた若い母親が歩いて行く。その脇には、白い息を吐きながら、二人の娘が歩いている。先頭を歩くのはどうやら長男のようである。後ろの荷馬車には、一歳程の男の子が寝かされている。親子の従者は、荷馬車の手綱を引く農夫と、背後を警護する二人の私兵のみである。
この一行の旅の始まりはタイシャン(泰山)である。そして旅の目的地は冀州のジュルー(鉅鹿)である。だから子供の足を考えると十日以上の旅になる。若い母親の名は、ヂャン・イェチン(章葉青)という。イェチン(葉青)の夫は、泰山郡の副長官に就任したばかりである。だから泰山を長期に渡り離れることは出来なかった。旅の目的からすれば、彼女と赤子だけが鉅鹿に向かえば良かったのだが、四人の幼子を仕事に追われている夫に託すわけにもいかず、親子六人の旅と成ったのである。
赤子は、泰山に住まいを移して生まれた。他の兄弟は、夫の本領であるランシェ(琅邪)国のヤンドゥ(陽都)で生まれ育っていた。今、その本家は夫の弟が守っている。夫の一族は、琅邪諸葛氏である。夫の名は、ヂュグェァ・ジュンゴン(諸葛君貢)と言い、弟の名は、ヂュグェァ・シュェンミン(諸葛玄明)である。
ジュンゴン(君貢)とイェチン(葉青)の長男の名は、ヂュグェァ・ヅーユー(諸葛子瑜)という。そして、この子が将来、琅邪諸葛氏を率いることになる。ヅーユー(子瑜)は、まだ八歳であるが背丈も大きくその上に大層賢い顔をしているので、十分に成人に見える。
その後ろを歩く幼い娘は、姉がヂーアイ(智愛)五歳である。この子も五歳には見えない位に大きくしっかりとした足取りである。妹はマーメイ(麻美)といいまだ三歳である。だから、時折兄のヅーユーに負ぶわれている。そして、歩き疲れたのか、ただ今は兄の背で居眠り中である。
荷馬車で寝ていた次男が目覚めてぶるっと寒さに身を震わせた。それを見て、姉のヂーアイ(智愛)が荷馬車の後ろに座り、次男を抱き上げ自分の外套に包み込んだ。目がくりくり可愛い男の子である。そして、どうやらお姉ちゃん子のようである。安堵した表情を浮かべ姉に笑顔を向けている。
この次男は、父ジュンゴン(君貢)の弟シュェンミン(諸葛玄明)も大のお気に入りであった。同じ次男同士相通じるものを感じたのかも知れない。次男という存在は、大抵は思慮深い者が多い。兄弟喧嘩では仲裁役と成り、兄をなだめ弟を諭すのである。そして、シュェンミン(玄明)は、兄の次男にも自分と同じ気が流れていると感じていた。だから、陽都から泰山に向かう兄の一家を寂しそうに見送っていた。
この次男の名は、ヂュグェァ・コウミン(諸葛孔明)という。子に恵まれていなかった弟のシュェンミン(玄明)に、兄のジュンゴン(君貢)は、将来コウミン(孔明)を養子に出してやると約束してくれていた。だから、シュェンミンにしてみれば、コウミンとの別れは、我が子との別れに等しい寂しさだったのである。
そして、赤子の名はヂュグェァ・ヅーゴン(諸葛子貢)である。三男ヅーゴン(子貢)は生後三月以上経っても、キョトンと母の顔を見るだけで、泣き愚図ることが殆どなかった。母のイェチン(葉青)は、兄や姉達の赤子の時とは、明らかに違う様子に不安を搔き立てられていた。そして、ある日長男のヅーユー(子瑜)が「ヂェンウー(真烏)は、耳が聞こえていないようだ」と言い出した。
ヂェンウー(真烏)とは、ヅーゴンの幼名である。因みにコウミンの幼名はヂェンユー(真魚)で、ヅーユーの幼名はヂェンヂェン(真真)である。ヂーアイの幼名はヂェンヂー(真智)で、マーメイはヂェンメイ(真美)である。これらの幼名をつけたのは、全て母である。つまり母イェチンは、相当に真(まこと)の心にこだわりがあるとみえる。その母の思いを受け止めているかのように、この兄妹は飾り気がなく素朴な考え方をする子供達である。つまり素直な良い子達である。
ヅーユー(子瑜)が「ヂェンウーは、耳が聞こえていないようだ」と言い出したので、父ジュンゴン(君貢)は都から官医を呼び寄せた。そして、官医はヅーユーの言うとおり耳が聞こえていないと診断した。しかし、自分には治せないと言い、太平道のジャオを紹介した。この官医は、ジャオの太学時代の学友だったのである。そこで、ジャオを呼び寄せようとしたが、ジャオは既に数十万人の信徒を抱えた身である。その為、おいそれと、泰山まで往診に来る訳にはいかなかった。そこで親子は、官医の紹介状を携えて冀州の鉅鹿を目指しているのである。
泰山郡から冀州の鉅鹿までは、倭国であれば、阿多国からヤマァタイ(八海森)国までに等しい位の距離である。倭国の巫女女王は、幼い頃その旅路を大型軍船で渡った。しかし、泰山から鉅鹿までの間には大海がないので陸路の旅である。そして、その間には幾本かの大河が横たわっている。だから、あまり大きな馬車では渡し舟に乗せることができない。そこで、これ位小さな荷馬車が良いのである。それに荷馬車の荷台には粗末な天幕も張られていた。もし、雨や雪にでもなれば、小さな子供達だけでも天幕の下で雨や雪を凌ぐことができる。それに、旅の宿は、一族縁者の館を頼って行くので、寒い思いやひもじい思いをすることはない。
冀州に入ると、太平道の施設を頼って本山を目指した。太平道の最小単位は保と呼ばれている。十家族ほどが一カ所に住んで居り、五十人前後の小さな班である。その代表は保長と呼ばれている。約八十名の保長からなる上部集団は、院と呼ばれている。院は、約八十名の保長の中から八名の代議員を出し運営されている。その八名の代議員を出す規模毎に、隣保館という施設がある。だから、ここは、八十から百家族ほどが集う協働と、相互扶助の拠点である。そして、そこはまた、流民達の最初の受け入れ先でもある。その為、簡易な宿泊施設も備えている。各院の中心には、教房と呼ばれる大きな施設があり、教育や医療に商工業の工房を備えている。そして、数十人の修道士達が寝泊まりし、院の運営に当たっている。イェチン親子が、隣保館の次に目指す施設は、その教房である。
修道士達の多くは女達である。その大半が夫を亡くした女達である。だから、院の教房には保育施設も完備されている。もちろん、修道士達の子供達だけではなく近隣の子供達も受け入れている。だから、太平道の信徒以外の子供達も居る。この保育施設は、太平道が運営する小学でもある。
教師の修道士は、ジャオの同志達である。だから、太学出の老師である。その為、この小学の教育は評判が良い。そこで、地方官僚の子弟達も多く学んでいるのである。イェチン親子が滞在した教房には、坊の道場も隣接していた。坊とは院の上部組織である。約十二の院で構成されている。その十二人の院長の中から坊の責任者が選ばれ、渠師(きょし)と呼ばれている。坊は七千戸から一万戸程の規模なので、倭国のシマァ(斯海)国程の規模である。だから、倭国であれば族長と呼ばれるだろう。漢王朝の官職では県長に近い存在であろう。
イェチン親子は、多忙なジャオに会えるまで、この坊で待機しているのである。この坊の渠師(きょし)は、リンユー(鈴玉)という肝っ玉母さんである。元は貧しい川漁師の娘なのだが、ジャオの母ウェン(張文)の教え子である。それもウェンの教え子の中でも一番の才女である。だから、貧しい身分の出であるが、教養に裏打ちされた気品がある。しかし、根は川漁師の娘なので腕っぷしも強い。つまり親分肌である。
その渠師リンユーに、イェチンは、すっかり魅せられてしまった。イェチンは、琅邪諸葛氏の当主に嫁ぐ位だからやはり、良家のお嬢様育ちである。しかし、彼女には、良家の娘を気取る素振りはない。至って素朴な人柄である。そこがリンユー母さんと意気投合する所以(ゆえん)であろう。そして、長男ヅーユー(子瑜)は、この坊の小学で、類(たぐい)まれな才能の片鱗を見せていた。
冬が深まって来た頃、ジャオが訪ねて来た。そして、三男ヂェンウー(真烏)の様態を診て、やはり小児性の難聴だろうと言った。すこし肌の黒いヂェンウーは、反応が鈍い点を除けば至って元気である。ジャオは、薬草を使い治療し、暫く様子を見てみようと言った。それで治らなければ耳の手術をしようということに成った。薬草は虎耳草(ユキノシタ)の絞り汁に、ジャオが調合した白い粉を少し混ぜて使った。虎耳草の絞り汁は、ヂーアイ(智愛)姉ちゃんが「ヂェンウーの薬は私が作る」と主張し小さい手で揉んだ。
それから、ヅーユー(子瑜)兄ちゃんがヂェンウーの耳に流し込んだ。最初は、その違和感に泣き声を上げていたヂェンウーも慣れてくると泣かなくなった。最初はゴボゴボと音がして気持ち悪いのだが、暫くすると耳の奥がホワ~ッと暖かくなり気持が良くなるのである。
そして、ヂェンウーの頭を傾け、絞り汁を抜くのはマーメイ(麻美)姉ちゃんの役割である。そうしながら春先まで様子を見ていたが、容態は好転しそうになかった。そこで、ジャオは、耳の手術を判断したが、この手術は難しくて最高位の大医にも出来ないそうである。その神業に等しい技を持つのは、やはり加太だけなので、雪解けを待ちガオミー(高密)に行くように決まった。
しかし、今度の旅は一月以上を要するので、ジャオが太平道の若者十二人を同行させてくれた。雪解け水の流れる山道を、一行は元気に進み、予定の日数で高密に到着したが、加太は居なかった。また、天灯という不確かな空飛ぶ乗り物でどこかに飛んで行ったらしい。応対に出たのはチュクムだった。傍らでは、ヂェン・ファ(姫華)が勢い良くハイハイで動き回っていた。チュクムは、ヂェンウーの額に己が額を付け何やら様子をうかがっていた。そして、フフーンと鼻を上げるとヂェン・ファのお尻をポンと叩いた。 ヂェン・ファは寝かされているヂェンウーに近づくと、ヂェンウーの耳の中にフーッと息を吹き込んだ。すると、ヂェンウーの両の耳から大量の水が流れ出し、最後に膿がボタリと落ちた。その音に驚き、ヂェンウーは大声で泣き出した。どうやら治ったようである。コウミン(孔明)がニコニコと笑いながらヂェン・ファに近寄り頭を撫でた。周りに居た大人達はこの様子を唖然として見守り、そして拍手喝采した。ヂェン・ファは、魚のようなまん丸目玉のコウミンをきょとんと見つめていた。さて、また不思議な縁が始まったようである。
⇒ ⇒ ⇒ 『第2巻《自由の国》第2部 ~ 愛の熱風 ~』に続く
卑弥呼 奇想伝 | 公開日 |
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