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卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第9部 ~龍の涙~ 〜 卑弥呼 奇想伝(その9)

葦田川風

我が村には、昔から蛇が多い。輪中という地形なので湿地が多く蛇も棲みやすいのだろう。更に稲作地であり野鼠やイタチ、カエルと餌が豊富である。青大将は木登りが上手い。そのまま高木の枝から飛べばまさに青龍だろう。クチナワ(蝮)は強壮剤として売れる。恐い生き物は神様となるのが神話の世界である。一辺倒の正義は怪しい。清濁併せ飲む心構えでいないと「勝った。勝った」の大本営発表に騙される。そんな偏屈爺の紡ぐ今時神話の世界を楽しんでいただければ幸いである。

卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第9部 ~龍の涙~ 〜 卑弥呼 奇想伝(その9)

幕間劇(12)「梅と兵隊と船頭暮し」

 梅雨の雨は、止むことを忘れたかのように降り続いている。その豊潤な水の森では、アマガエルが、慌ただしくギッギッギッギギギギと、命を爆発させている。そろそろ早乙女達の若々しい田植え唄も聞こえてくるだろう。

 そろそろ、今年のエツ漁も、終わりが近づいている。武吉の父ちゃんと、母ちゃんの夫婦舟は、小雨の中を、今日も筑後川の河幅いっぱいに、刺し網を流している。まるで、印象派の点描画のような川面に、時折銀色の魚体が跳ねる。きっと今日も豊漁だろう。

 武吉は、泥船の艪を巧みに操っていた子だ。やっぱり、川漁師の子である。皆からはブキチっちゃんと呼ばれているが、本当は、河野武吉という名前である。しかし、校長先生が「おい、ブキチ」と、呼びかけるものだから、皆もブキチと呼ぶのだ。

 校長先生の名も読みが難しく山野武巽という。そして、誰も巽をヨシと読めない。そこで、校長先生は自分を「校長のブソンです」と、自己紹介する。でも本当は、武を「タケ」ではなく武士の「ブ」と読ませたいだけなのだ。

 『名体不二』という仏教用語がある。そこから『名は体を表す』という言葉が生まれた。その体とは仏様のことである。名とは、お経で読まれる仏様の名前である。阿弥陀仏が有名な名である。仏様には実体が無い。だから、仏様の名を唱えることで、仏様の体を感じられる。そのように言われている。ブキチの剣道も、常人或いは凡夫の域を超える天性の才を秘めている。だから、校長先生自慢の生徒なのだ。

 校長先生も剣士であるが、武吉の剣道の師匠は、父ちゃんと母ちゃんである。女剣士の母ちゃんは、薩摩の示現流と呼ばれる剣術の使い手だ。示現流にも、いくつかの分派があり、正統の示現流は城下町に在り、一子相伝で受け継がれている。だから、薩摩の各地に或る示現流は、分派である。その為それぞれに独自の鍛練法がある。しかし、その太刀筋の鋭さは、共通している。

 母ちゃんの名は、旧姓を中村ヨシと云う。薩摩の蒲生という町で生まれ育った。中村家は、薩摩郷士の家柄である。だから、ヨシは、幼い頃から、八幡神社の境内で、兄の武秋の背中を追って、木刀を振りおろしてきた。中村家は、蒲生氏の流れである。だから、島津の殿様の一族より古く、太古からの地元民である。

 兄は、文武両道に秀でた神童であった。だから、武秋は、ヨシの自慢で有り憧れの人でもあった。しかし、中村家は武士だとはいっても、薩摩藩には溢れている芋侍である。暮らしぶりは決して楽ではない。武秋と、ヨシの母フミは、蒲生町の外れにある白男の農家の出である。母フミの実家である柳原家からは、稲刈りが終わると、毎年、沢山の米が差し入れられる。これがなければ、中村家は、芋ばかり食べて暮らすことになる。そうなれば、正に、屁こき侍の体である。

 武秋と、ヨシの父、利春は、陸軍の騎兵隊長だった。祖父の利秋も、やはり陸軍の騎兵将校だった。その祖父利秋は、日露戦争の奉天会戦で、戦死したそうだ。三十八歳の若さだったらしい。父の利春は、まだ八歳だった。

 その利春も、昭和十六年の十月二十三日に四十四歳の若さで亡くなった。戦病死である。戦とは、恵まれた環境で行うものではない。鱈腹食べて、良く寝て「さぁ戦うぞ」と臨む武道の試合ではないのだ。互いに命を削りあい戦う死闘である。だから、劣悪な環境の中で、病に倒れる者も多い。

 白兵戦や、銃撃戦で戦死する者より、結核や、マラリヤや、脚気の為に戦病死する兵の数の方が多いといわれている。もちろん極寒の地では、凍死した兵士も多かっただろう。いずれにしても、大往生ではないことは確かだ。

 そして、武人の家系である中村家の跡取り武秋も、父や祖父と同じように、陸軍幼年学校から、陸軍士官学校に進んでいた。だから、もし、日本が先の大東亜戦争で敗れていなければ、武吉も、また今頃は、陸軍幼年学校の生徒だったかもしれない。

 幼くして父に先立たれ、母子家庭で育ったヨシは、その境遇を跳ね返すかのような、男真さりであり、その剣の腕も鋭かった。だから、そんなヨシには、なかなか嫁の貰い手もなかった。更に、武秋が、陸軍幼年学校に進み、蒲生の町を出た後、町には、ヨシを負かせる男などはいなかった。だから、いくら見合いをしても、ヨシのきりりとした切れ長の眼で、グイッと睨まれると、ほとんどの男共は萎えてしまうのであった。

 武吉の父ちゃんは、河野守人という。父親は、旅芸人だったようで守人は、父の顔を知らない。いわゆる、私生児である。英語では、私生児のことを『ラブチャイルド』というらしい。日本語に直訳すれば『愛の子』である。だから、守人も愛されて生まれてきたのは間違いない。少なくとも、守人はそう思っている。

 守人は、ポジティブな思考をする男である。どんな窮地でも、真っ直ぐ前を向いて歩いて行く男なのである。そういう経緯で、武吉に祖父ちゃんはいない。その代わり、武吉を、猫可愛がりに甘やかしてくれる祖母ちゃんがいる。

 祖母ちゃんは、駄菓子屋をやっており、武吉の仲良しには、いつも『雀の卵』をひとつ余計にくれる。醤油味のそのピーナツ菓子は一個五十銭だ。でも、この時代には、既に銭という単位の貨幣はなかった。つまり一円で二個貰えるのだ。この頃の子供のお小遣いは、平均的に十円だった。だから、大半の子供達が、五円で雀の卵を十個買う。そして、残りの五円で、当たりくじ付きのお菓子を買うのだ。

 もちろん、堅実に、ニッキ玉や、醤油せんべいを買う子もいる。いずれにしても、五十銭の雀の卵が、一個タダでもらえるのはありがたい。だから、村の子供達は皆「ブキチちゃん遊ぼ~う」と、言いながら店先に立つ。中には、当の武吉が知らない隣村の子供がいたりもするのだが、祖母ちゃんは、意に介さない。とにかく、武吉が、誰からも仲良くしてもらえれば良いのだ。

 実は、武吉と、祖母ちゃんは、血が繋がってない。もちろん、祖母ちゃんは、そのことも知っている。でも、武吉は、祖母ちゃん好のみの二枚目なのだ。祖母ちゃんは、武吉が、将来東映の映画スターになることを信じて疑っていない。それに武吉は、学校の成績も飛びぬけて良かった。何しろ、秀才の英ちゃんが、勉強を見てくれている。

 武吉は、自分の本当の母親は、朝鮮人だと薄々気付き始めていた。そして、母親のヨシは、実は叔母さんなのだと確信しつつあった。だから、同じ朝鮮人の血が流れている英ちゃんは、兄のように思えてくるのだ。

 武吉は、近頃、英ちゃんに、朝鮮の言葉も習い始めている。そして、いつの日か朝鮮に渡り、実の母に会ってみたいと秘かに思っている。武吉には、香那という六歳下の妹がいる。香那は、守人とヨシの実の子だ。だから、本当は、武吉の従兄妹になる。

 この前、英ちゃんの地図帳から、漢字の形だけで、島と原という地名を選び出し、原が「バル」と読む所以を探ろうとしていた四歳の神童香那嬢である。香那は、ヨシが、兄武秋を慕っていたように武吉が大好きである。無理もない。武吉の実の父は、武秋なのだ。

 河野守人は、陸軍時代には、武秋の部下だった。守人は、十八歳で陸軍特別幹部候補生に志願した。それは、駄菓子屋を営みながら、女手ひとつで育ててくれた母の翠に早く楽をさせたかったからだ。そして、昭和十九年四月十日。陸軍航空通信学校神野教育隊に入隊した。そこは、守人の生まれ故郷でもあった。小学校の低学年までは、加古川小学校に通っていたのだ。親子三人で暮らしたのは、そこまでだった。

 ある日、父は若い女優と二人で、どこかに消えた。それきり会ってない。逢いたいと思ったこともない。「オヤジは、愛の風化者だ」と、守人は思っている。だから「俺は、情の土方で生きよう」と、思ってきた。実際、守人は小さい時から土いじりが好きだった。だから、本当は工兵隊に入りたかったが、特別幹部候補生という響きに魅かれたのだ。

 二等兵の月給が六円であるのに対して、少尉になれば七十円と破格の待遇になる。更に少佐まで上れれば二百円を超える。学校の月謝が五円の時代である。兵のままでは、子供を学校に入れることなど叶わない。だから、将校になれば、母に楽をさせてやることが出来るだろうと考えたのである。

 昭和十九年十二月二十九日教育終了。開けて、昭和二十年四月一日第三十七航空情報隊に転属と成り、四月三日下関港から出航し、釜山港に入港。四月四日京畿道京城府京城に到着した。いよいよ、前線に向けて出発である。そして、幾度かの戦闘を経験し、終戦を迎えた。

 しかし、守人達の終戦は八月十五日では終わっていない。それから半月ほど、抵抗戦を続け八月三十日咸鏡北道吉州郡白岩において武装解除をされた。女王卑弥呼の時代なら高句麗の発祥の地である。階級は、陸軍伍長になっていた。守人が将校になる前に、日本は戦に敗れたのだ。その時の部隊長が、中村武秋中尉だった。

 守人は、小学の高学年から剣道を始めていた。母を守っていくには、武力を身に付けないと駄目だと思ったのだ。守人の剣筋は、荒々しかったが極めて鋭かった。剣先の動きが猛烈に早いのだ。中村武秋中尉は、守人の剣が気に入った。だから、稽古の相手に良く守人を呼び出した。程なく隊長付きとして傍らに仕えることになった。守人も軍隊の階級を越えて、剣の師匠としての武秋中尉を尊敬し慕っていた。八月三十一日守人と武秋中尉は、収容所の古茂山第三作業大隊に編入された。そして、昭和二十一年六月七日ソ連領シベリアに送られた。

 武吉は、養父守人と、実父武秋が、シベリアに抑留されていたことは知っている。しかし、守人は、シベリア抑留のことは語りたがらない。ただ、ヨシの話では、良く夜中にうなされているそうだ。守人は、昭和二十四年八月七日舞鶴港に上陸し、八月九日現役満期除隊になった。二十四歳に成っていた。

 村に戻ると、母の翠は腰を抜かさんばかりに驚き、そして泣いて喜んだ。家には、守人の位牌が飾られていた。母は、終戦から4年間、毎日涙を流しながら、ひとり息子の面影を追い、位牌に手を合わせていたのだ。位牌の傍らには、戦死の通知も置かれていた。

 守人は、ひと心地着いた夏の終わりに、武秋中尉の実家がある鹿児島に向かった。そして、西鹿児島駅から、日豊本線に乗り換え、加治木の駅で降りた。加治木の駅からは、入来温泉行きのバスに乗り、蒲生町で降りた。蒲生町に着くと、バス停から歩いて神社へ行った。神社には、大きな楠木が立っており、残暑の照り返しを和らげていた。その木の下で待っていると、程なく白いブラウスに、もんぺ姿の娘が迎えに来てくれた。中村武秋中尉の妹ヨシである。

 武秋中尉から聞いていた話では、妹のヨシは十七歳になっているはずだ。守人は帰国後、何度か手紙のやり取りをしていた。文面から察するに気丈な娘のようである。武秋中尉の家は、神社からさほど遠くない所にあった。そして立派な石垣に囲まれた古い家であった。父上は、すでに戦病死されていたが、母上は健在であった。そして、守人と同じように、仏間には、武秋中尉の遺影と、位牌が飾られていた。

 守人は、母上に武秋中尉は存命で有り、今は朝鮮に留まって暮らしている。そして、朝鮮人の娘さんと夫婦に成り、息子も誕生していることを告げた。手紙で、あらましは告げていたので母上は、守人の母の翠のようには、驚かれなかった。ただ、うんうんと守人の報告をいちいちうなずきながら確認し、息子の無事を噛みしめられているようであった。

 その夜は、中村家に泊めてもらった。夜には、武秋中尉の早い無事生還を願い、親戚筋も集まって来た。そして、武秋中尉の祝いだけでなく、守人の生還の祝いも兼ねた宴会となった。その酔いの席で、親戚の誰かが「河野様は、剣の腕が立つそうでごわンなぁ。一度、このヨシと、御手合わせ願えもはんか。そいで、ヨシを打ちすえてたもンせ。じゃっどが、少しは、ヨシも娘らしく、しとやかに成りやっど」と、言い出した。それを聞いていた他の親戚筋も「じゃっど、じゃっど、そいが良か。そいが良か」と、大はしゃぎになった。守人は断り辛くなり翌朝、八幡神社の境内で手合わせすることになった。ヨシも動じる様子はない。

 薩摩の残暑は、手ごわく暑い。早朝だというのに、守人の額からはもう汗が噴き出ている。八幡神社の境内は、噂を聞きつけ既に黒山の人だかりである。その群衆は、蒲生の町ばかりか隣接する姶良、帖佐、入来、祁答院、樋脇、果ては川内や宮之城からの人が押し寄せている。また、定かではないが都城や八代からも来たとの噂も流れた。いずれもヨシに手ひどく打ち負かされている男剣士である。したがってこの男衆は、どうやら、守人を応援しているようである。

 若い娘達は、ヨシに声援をおくっている。薩摩は男尊女卑が顕著な地である。座敷で食事を取るのは男だけの特権であり、女達は台所の板の間で残り物を食べる。男達が焼酎を飲んで馬鹿話に花を咲かせている間も、女達は内職の手を休めない。そんな土地柄であるから、ヨシのその強さは、女達に痛快さを与えるのである。

 親戚筋は、密かに守人を応援し、町衆は、薩摩御女のヨシを応援している。ヨシは、剣を持たなければ、物静かで、上品な武家娘らしい。だから、町衆のヨシへの評価は、薩摩御女なのである。

 ヨシは、昨日と同じ装いで、木刀を右肩の上段に構えて立っている。薩摩の剣道では、試合の服装は問わないそうだ。平服でも戦えるようにと、実戦を想定した考え方のようである。更に『非礼構わず』ともいうらしい。

 守人が習ってきた、礼を重んずる剣道とは、ずいぶん違う剣への向かい方である。ヨシの構えは、武秋隊長の構えで見慣れた蜻蛉と、呼ばれる構えだ。守人は、正眼の構えを取った。示現流は、一撃必殺の剣だと、守人は、武秋に教わった。だから、最初の一刀目が勝負である。更に、剣道仲間達からは、「一刀目を外せば、勝機が見える」と、聞いていた。しかし、部隊では、誰も武秋隊長の一撃をかわせたものはいない。だから、守人は、剣道仲間がいう勝機を目にしたことはない。

 ヨシは「ちぇー」と、甲高く叫ぶと、猛烈な速さで、木刀を振りおろしてきた。守人は受け止めずに、右に流した。咄嗟の動きだが、武秋隊長との稽古が実ったようだ。これで、勝機が見えた。と、思った途端に、ヨシは、下段から鋭く足を払いにきた。示現流に『二の太刀要らず』と、教えてくれた剣道仲間は、きっと、示現流の一の太刀をかわしたことがなかったのだろう。守人は、咄嗟に飛びあがり、上段から木刀を振りおろした。しかし、巌流島の決闘の武蔵のようには、上手くいかない。ヨシは、更に、下段から逆袈裟斬りに木刀を振り上げた。守人は、肘を狙った切っ先を、危うくかわして、正眼の構えに戻り、息を整えた。ヨシは、左足を、やや前に出し、右足を引くと、木刀を、中段に持ち、切っ先を後ろに、払えの形で構えた。そして、さぁ切り込んでこいと、言わんばかりの面構えである。

 鋭く振りおろせば、左肘を断つことが出来るだろう。しかし、外せば、首を払われるだろう。ヨシの示現流は『二の太刀要らず』どころか、三の太刀、四の太刀と、繰り出してくるではないか。守人は、示現流の恐ろしさを、まじまじと感じた。まさに、実戦の剣法である。だから、守人達の剣道のように、竹刀で打ち合う稽古などはしないのだろう。『一の太刀を疑わず』の心は、決して捨て身の戦法ではないようだ。“ 一撃、一撃に全身全霊を込めて、一心不乱に剣を振る ”と、いうことのようである。力任せに振り下ろす一撃だけを見ていると、泥臭い田舎剣法のようであるが、それは一面だけ見ての評価だったのだ。

 ヨシの家の庭には、人の背丈ほどの丸太が突っ立っている。その丸太を、袈裟掛けに打ち込むのが、日々の稽古らしい。それも「ちぇー」と、叫んでいる間に三十回ほど打ち込むようだ。並みの速さではない。これは、立木打ちと呼ばれている。他家では、立木打ちではなく、小枝を束ねたものを、横にし、腰の高さに並べて打ち込む、横木打ちという稽古もあるそうだ。これは、ヨシに打ち負かされた男衆の稽古法らしい。

 この打ち込みは、すざましく、横木ではなく、大地を切り裂けと教えられるのだ。幼い頃は、横木の枝の数が少なく、その横木を、たたき割れるようになると、束を増して行くそうである。正に、一刀両断を実践するための稽古である。

 明治維新前後の動乱の時代、最も驚異的な武士の集団が、薩摩軍だったのは、この稽古の積み重ねによるものだ。西南戦争の折、小銃、大砲で勝る官軍に、刀で挑みかかり、倍する官軍に苦戦を強いらせたのも頷けるのである。戦史に依ると、小銃ごと、頭をたたき切られて、絶命した官軍の兵士も多かったようである。

 守人は、ヨシの挑発的な構えに踏み込めないでいた。兎に角、太刀筋が早いのだ。武秋隊長の太刀筋も、早かったが、ヨシの方が、更に早い。守人の額の汗は、暑さばかりのせいではなく、滝のように流れだしてきた。そして、汗が目に入り、一瞬ヨシの姿が霞んだ。すると、ヨシは、すーっと構えを解いて一礼した。そして「本日はこれまで。涼しき日にまた御手合わせ願います」と、言った。

 観衆から、ふっーと、溜息が漏れ聞こえてきた。そして誰かが「で、どちらの勝ちじゃ?」と、誰かに聞いた。「うむ~。一太刀目をかわされたからなぁ」「いや、最後の立会で踏み込めば、ヨシ殿が勝っていたよなぁ」「まぁ、引き分けかのう」等と、言う声が聞こえてきた。その声を背に、ヨシは、すたすたと神社の階段を降りて、帰って行く。守人は、額の汗をぬぐうと、楠木の大木を、見上げた。“ 実戦なら、俺は切られていた ” 数々の激戦地をくぐりぬけて来た守人は、素直に、そう思った。

 あれから、九年の歳月が流れ、ヨシは、守人と、ひとつ小舟の上で、筑後川の流れに身を揺らしている。そして、刺し網にかかったエツを手早く、網から外し、舟中央の水槽に流し込んでいる。川舟の中程には、板で区切られた所が有り、その側面には、小さな穴が開けてある。だから、そこは川の水が出入りする水槽に成っている。そこに、捕らえた魚を入れ生かしておくのだ。

 守人は、復員後、様々な誘いを受けた。特に、シベリア抑留時代の仲間からの誘いには、破格な条件のモノもあった。守人は、過酷な抑留時代に、我が身を呈して、仲間を守り続けたようだ。その為、幾度かの独房も経験したようである。だから、誘ってくれた人は「あんたへの恩を考えれば、決して、破格の条件ではない」と、熱心に誘ってくれた。しかし、守人は、社会人に復帰する道を閉ざした。自分は、多くの人を殺した。中国兵も、ソ連兵も殺した。銃弾が尽きた後は、数人のソ連兵を刀で切り捨てたこともある。そして、シベリアでは、救いようのない仲間の死を、幾度も見て来た。守人は、深い敗北感と、無力感のどん底から這いだせないでいた。

 そんな守人の姿を見て、重人の父ちゃんの鯉しゃんが、川の漁に誘った。重人と、守人は、竹馬の友であり、今でも、良く酒を飲み交わす仲である。そして、父親のいない守人にとって、鯉しゃんは父親代わりでもあった。

 ふたりは、季節になると、エツ網を流し、ウナギの仕掛けを掛け、瀬の下に潜っては、蟹や、手長海老などを獲った。そして、守人は、そんな暮らしが今の自分には合っていると思い始めた。漁で得た川の恵みは、辰ちゃんが高値で引き取ってくれた。だから、贅沢をしなければ、これで生計を立てる見通しもついた。そして、ヨシを娶り、武吉を引き取った。

 堤防の上から、武吉が叫んでいる。しかし、舟縁に打ち寄せる波の音にかき消され良く聞こえない。それでも、ふたりが耳を澄ますと「父ちゃ~ん。母ちゃ~ん。試合、勝ったばぁ~い」と、竹刀を振っている。「よかったね~」と、ヨシが手を振り返した。「やっぱり、隊長の子ばい。もう九州に武吉の敵はおらんばい」と、守人は親バカを発揮した。それから「もう何年も音沙汰がないが、隊長は無事なのだろうか?」と、守人は北の空を見上げた。そして、ふーっと息を吐き、

♪春まだ浅き 戦線の 古城にかおる 梅の花 せめて一輪 母上に 便りに秘めて 送ろじゃないか~ ♪

と、梅雨の晴れ間に美声を漂わせた。

 英ちゃんが、「お~い、仙人さんが来とらすば~い」と、皆を呼び集めている。武吉も、踵を返すと、お宮に向かって駆けだした。お宮には既に、お気に入りの香那嬢を、膝に抱えた仙人さんが、待ち構えており「さぁて、今日はどんな話をしようかのう」と、子供達を見渡している。すかさず、四歳の神童香那嬢が「涙雨の後には晴々した話が良か」と言った。

帰り船 凍土彼方へ 離れても 忘友浮かび 魂温もらず

≪首露王が語る「弁韓建国史」≫

 西南の海風が強く吹き付け、木々がゴーつと鳴った。港では桜鯛の水揚げが活気を呼び、田ではカエルが鳴きだした。私は、鯨海の海賊王首露船長と港が見渡せる広場に腰を下ろし、弁韓国の建国史を教わろうとしている。冬厳しい玄海の海は、今は穏やかに青く、初夏の潤みを含んだ風が老王の髭をたなびかした。この強い風なら船足は気持ちよいほどに早いだろう。私は、海の彼方を見やって王の話に耳を傾けた。

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 さて、何から話そうかのう。う~む。まずは、地の利から話そうか。その方が、これからの長い話を、思い描きやすいだろう。では、まず、俺の国弁韓を中心に話すとするか。ピミファ達が暮らす倭国は島国だが、俺達の国は、大陸から南に突き出した半島だ。そして、弁韓はその先端にある。半島の西には、黄海という海が広がっており、その向こう岸に、中華の国々がある。ピミファのご先祖の地だな。

 そして、半島の西には、 馬韓国がある。ラビアのご先祖の地だ。東は、ピミファの父様の阿逹羅王が治める辰韓国だ。その北には、濊貊の勢力が広がっている。半島の東の海は、ピミファも良く知る鯨海だ。だから、俺の都から、鯨海を東に向かえば、延烏と、細烏の住む高志に一気に着くわけだ。

 半島の北の付け根の西側は、漢王朝の支配が及ぶ地だ。その東側には、夫余と、高句麗という国が在り絶えず漢王朝と争っている。更にその東には、夫租族と呼ばれる種族がいる。夫余と、高句麗と、夫租族は、濊貊と同じ種族だ。高志や稜威母の民が、オロチと恐れる一族も同じ種族だ。中華では、彼らのことを、東胡族とも呼んでいる。ピミファの身近な人では、シュマリ女将が東胡族だ。

 馬韓国にも、彼らは多い。漢王朝との争いで、北から逃げてくる者が多いからだ。それに、沙羅隈親方のような西域人の血が混じる者もいる。馬韓国は、人種の渦巻く海峡のような所でなぁ。しかし、大半の馬韓人は、やっぱり倭人種が多い。倭国の倭人と、同じように大陸から移って来た者が多いからだ。だから、倭国に住む倭人と、馬韓人は良く似ている。まぁ東海沿岸人と言えば、同じ種族ともいえる。

 東海沿岸人としての倭人は、いわゆる海洋民だ。だから、北の渤海沿岸にも暮らしている。その北の地は、烏丸、匈奴、鮮卑という遊牧民が暮らしている領域とも重なる。だから、そこでは、倭人種と、東胡族の混血種も多いのさ。そして、馬韓の倭人種もこの傾向が強い。しかし、倭国の倭人種は、南方海人の血が多く混じっている者の方が多い。

 秦王朝が滅んだ時、その移民の多くは、黄海を渡り、馬韓国の地に逃れた。北の地は、東胡族の勢力下だからな。東胡族と、漢人は、昔から敵対することが多かったので、北の地には逃げ場がないのさ。倭人は、元々は漢人と同じ種族だ。だから、倭人が多く住む馬韓国の地に亡命したのよ。そこで、しばらく、起死回生を狙っていたが、漢の王朝の支配が盤石に成ると、更に、東に逃げ延びるしかなくなった。その末裔が、辰韓国を立てた。須佐能王の一族も、その中の流民だ。だから、須佐人のご先祖、秦家の始祖磯猛も、辰韓国で生まれた。

 その頃、弁韓には、倭人や、鯨海周辺からの移民が、十二部族ほどに別れて暮らしていた。馬韓系、辰韓系、沫裸党系、稜威母系、高志系、須佐能王の一族、大陸北方系、南方海人系、それに弁韓先住民系の九部族の勢力が拮抗し、それぞれ支族を、従えながら暮らしていたようだ。だから、馬韓国や、辰韓国のように、まだ国家という形はなしていなかった。

 国家というのは、様々な人種や民族が、一体的に生きようとする集団だ。だから、中央集権の政治体制が生まれる。その政治体制の中核が、王であれ、族長会議の合意性であれ、国家として決めたことには、全ての民が従うのが暗黙の了解だ。それを国家国民というのさ。だから、話し合いはしても、最終的には、それぞれの種族毎の判断で行動する集団は、国家とは言えない。倭国の山の民などは、その良い例だろう。

 実は、弁韓先住民は、倭国の山の民と同根なのだ。だから、自由民の気風が強いのさ。ところが、倭国もそうだが、馬韓国は、いつ、漢の王朝が攻めてくるとも限らない所だ。馬韓国が攻め落とされれば、次は、辰韓国も危うくなる。いずれにしても、倭人種はやっと中華から逃げ延びてきた者同士だからなぁ。そして、倭国や、辰韓国が、漢の王朝に攻め落とされれば、倭人種にはもう逃げ場はない。だからいざとなれば反撃出来るように、国家としてまとまっておくことが必要だったのさ。それに、反撃力が強ければ、漢の王朝も下手に手出しは出来ないだろう。

 しかし、弁韓の各部族は、漁業と、農業を、基盤にしながらも、土器や、鉄の生産技術を高める奴らが多かった。そして、それらを中継ぎ貿易することで潤っていたのさ。だから、自由な交易を望む部族が、連合体を成していたという様相だったのさ。その点では、倭国自由連合と似ている訳さ。まぁ~沫裸六党のようなものだと思えば分かりやすいだろう。

 ところが、伊佐美王が、倭国を統一し、漢の王朝からも、倭国王として認められ、その勢力を強化した。一方、辰韓国と、馬韓国の領土争いは激化していた。そんな周辺諸国の情勢を受けて、弁韓の部族長達は、危機感を募らせた。弁韓は、馬韓国や、倭国がしっかりしている間は、漢の王朝の脅威から守られていた。しかし、その倭国が、強大な力を得て漢の王朝との絆を強めたのだからなぁ。今度は、倭国が脅威に成ってきた訳よ。更に、瓢が、辰韓国の王に就いたのは決定的だった。昔脱解王のことだな。

 その時の部族長達は、瓢を弁韓から追放した輩だからなぁ。いつ瓢が、辰韓国の大軍で攻めてくるか分からない。そこで、その危機感から弁韓の部族長たちは、瓢の息子の首露を、王に立てて弁韓国を、建国することにしたのさ。

 瓢が昔脱解と名をかえて、辰韓国の四代目の王になるまでの話は、ピミファも、延烏から聞いているだろう。瓢と、弁韓の関係は、なかなか込み入っている。瓢は、幼い頃に、高志から母の国辰韓国に渡る途中で難破し、狗邪小国の浜に漂着した。それから、四年ほど巫俗の一座と、弁韓中を旅して育った。

 辰韓国に戻り、国の重臣になった後、下野して高志に渡り、須佐能王に敗れて、また、弁韓に逃げてきた。そして今度は、育ての親である巫俗の巫女頭の里がある伴跛小国に腰を落ち着けた。

 数年程、伴跛小国で過ごしていると、辰韓国から迎えの使者が来た。南解王の容態が悪化していたのだ。南解王の娘である妻の阿孝は、父を看取りたいと懇願した。それに、阿孝の異母弟儒理は、まだ七歳だった。南解王に乞われて瓢は、辰韓国に帰り、阿孝と共に幼い儒理王を育て支えた。

 儒理王が、十六歳に成った年に、突然阿孝が病で亡くなった。二人の長男仇鄒は、まだ四歳だった。傷心の瓢は、幼い仇鄒を儒理王に託し、辰韓国を去った。そして、南解王が妹を弔う家を起こさせた昔氏を、仇鄒に継がせて欲しいと頼んだ。それが、昔氏の始まりだ。

 独り身になった瓢は、また、巫俗の里に戻った。育ての親である巫女頭も高齢に成っており、親孝行をしながら、静かに余生を送ろうと思っていたらしい。しかし、瓢の名声は、弁韓でも鳴り響いていた。その上に、伴跛小国の族長は、九干の代表の主帥だったので、瓢を、放って置くはずはなかった。

 早速、瓢を巫俗の里に尋ねると、伴跛小国の族長代理を頼んだ。「自分は、チュスの仕事が忙しくて、パンパ小国の政治を充分見ることが出来ない。そこで是非とも、ヒョウ殿のお力をお貸しいただきたい」と言うのである。

 瓢は、世捨て人として余生を過ごすつもりだったので、一旦は断った。しかし数日ほど経つと、今度は九干達が、入れ替わりに押し寄せてきた。皆「是非、我が国にお越しいただきたい」というのだ。弱り果てている瓢に、育ての親の巫女頭が「パンパ小国の族長代理になっておくれ」と諭すように決心を促した。そこで、瓢は、伴跛邑小国の、族長代理に就任した。

 翌年、今度は、主帥が「わが娘は、今年で十八歳になりました。やや嫁に行き遅れた歳になりましたが、気立ての優しい娘です。母は、大伽耶山の巫女でした。だから、自分も大伽耶山の巫女に成ると言って、なかなか嫁に行かないのです」と話し出した。

 大伽耶山は、今でも弁韓の神の山なのだ。この山に、弁韓の神は、天降ったといわれている。先っき「弁韓先住民は、倭国の山の民と、同根だ」と言ったのは、そういうことだ。

 狗奴国の山幸王のご先祖との関係も深いようだ。彼らは共に、天から降りて来たと主張している。天降った山がどこであれ、山岳信仰を持つ彼らは、大陸北方系の山の民だった可能性が高い。南方海人は、自分達の神は、海の彼方からやって来ると、主張しているからなぁ。そして、俺には、その両方の血が流れているという訳さ。

 巫女の世界は、ピミファの方が詳しいだろうが、大伽耶山の巫女は、巫俗の巫女とは違い旅はしない。だから、大伽耶山を離れて他国に嫁に行く気は、なかったようだな。しかし、この姫は、主帥の一人娘でもあった。だから、主帥としては、どうしても、娘に跡取りを産んで欲しかったのさ。そこで、主帥は、瓢の妻にしようと考えたようなのだ。それに、瓢の子なら間違いなく九干の一人に成り、そして主帥の後継者に成れるだろう。

 九干は、族長達の中から選ばれ、更に、その九干の代表者として選ばれるのが、主帥だ。だから、主帥に成るには、政治的な手腕が求められる。大伽耶山の姫の息子なら、誰が父親であろうと、間違いなく伴跛小国の族長には成るだろう。それに、主帥の孫だから、九干にも選ばれるだろう。しかし、今言ったように、政治的な手腕がなければ、主帥には成れない。もし、父親が瓢で、その才を受け継いでおれば、間違いなく主帥に成る。先っきも言ったように、当時の弁韓には王がいなかったので、他国から見れば主帥が、弁韓国の王のようなものなのだ。

 瓢の手腕は、一年も経たずに表れてきた。伴跛小国は、目に見えてまとまりが生れ、大きな富も生まれた。そして、その手腕は、伴跛小国に留まらず、北の星山小国にも及び始めていた。星山小国は、辰韓国に接している。だから、瓢の存在を借りて、辰韓国との中継貿易で潤み始めていた。そこで、星山小国の族長は、何としても、星山小国の姫から、瓢の妻を出そうと目論み始めていた。幸い瓢は独り身である。それにまだ、三十四歳の男盛りだ。その目論みに気づいた他の族長達も瓢の妃候補を立て始めた。中でも、南の安邪小国には、三人の美しい姫がおり、安邪小国の族長は、三人とも瓢に嫁がせようと目論んでいた。その様子に、主帥は慌てたのだ。伴跛小国の姫の名は、天鏡と言った。だが、大伽耶山の神の娘でもあるこの姫を、人々は 金加耶姫と呼んでいた。それに、加耶姫は、巫女の力も大きかったが、夏希にも負けない美人だった。そして、同じようにしっかり者だった。

 夏希には、加耶姫の血が流れている。だから、夏希は、加耶姫の生まれ変わりかも知れんなぁ。ピミファは、すでに察したと思うが、実は俺にも加耶姫の血が流れている。それに、血だけじゃなく名も継いでいるのさ。先っき加耶姫の本当の名は、チョンキョンだと言っただろう。俺の名は知っての通り青龍だが、親父の名も金清疾なのさ。皆が金蛭子と呼ぶのは、その容姿から来たあだ名なのさ。親父を、チョンチル伯父さんと、本名で呼ぶのは夏希だけさ。祖父さんは、金千富と言って、二代目の首露王さ。千富祖父さんには娘がいて、名を美詩阿という。俺の叔母さんで、夏希の母様さ。そして、初代の首露王は、金田萬という名だ。

 なぁ~ チョンマン、チョンプ、チョンチル、そして俺チョンヨン。首露は、四代とも皆、チョンキョンのチョンが付くだろう。北方系の東胡や、辰韓国等は、一族の名を継がないようだが、南方系や、倭人は良く先祖の名前を継ぐことが多い。どうやら、俺の一族も、南方海人や、倭人種の末裔が多いのかも知れん。なにせ瓢が倭人だからなぁ。ピミファや、須佐人の先祖を遡れば、須佐能王に辿り着くように、俺や、夏羽の先祖を遡れば、瓢に辿り着くのさ。おもしろいだろう。

 それで、どうして、加耶姫が瓢に嫁いだかというと、主帥が、瓢の育ての親である、巫俗の巫女頭を口説いたのさ。巫俗の巫女にとって、加耶姫は女神のような存在だ。その女神様を、瓢の妻にしようと持ちかけられたのだからなぁ。巫女頭が嫌という訳がない。どうやら俺は主帥の、そのずる賢さを受け継いだようだなぁ。困ったものさアハハハ……

 瓢にとって巫女頭は、命の恩人であり、血肉に勝る母親だ。その母の言葉に瓢は従った。そして、一年後に息子が生まれた。それが阿具仁だ。そこから、辰韓国の金氏が生まれる。

 どうだい。これで少しは、ピミファにも、朴家、昔家、辰韓金氏と、俺の一族の関係が分かりかけてきただろう。更に、瓢と加耶姫は、奴那珂という娘を授かり、その三年後には、初代の首露王となる金田萬を授かった。

 しかし、瓢の存在と、伴跛小国が強大に成っていく様を、喜ばない族長達も出てきた。その筆頭の九干だったのが、狗邪小国の族長だ。

 初代の首露王となる金田萬が二歳になった年に、若き伊佐美王は、ついに筑紫島を統一した。そして、その勢いは止まらなかった。弁韓の南の国々は、一斉に伊佐美王になびいた。そして、その敵対勢力とみなされていた瓢は、窮地に立たされた。瓢は、またしても単身国を捨てた。

 しかし、瓢は、良く国を追われる男よ。生まれ故郷の高志を追われて、これでもう七度目の逃亡の旅さ。その因果が、世代を超えて俺に染みついたんだろうなぁ。だから、俺は旅をしていないと息が詰まりそうなんだよなぁ。こりゃぁ、まるで瓢の呪いだな。アハハハハ………

 瓢が国を追われた時、阿具仁は、まだ十歳だった。しかし、伴跛小国の行く末は、阿具仁の双肩にかかった。そして、瓢を失くした伴跛小国の国力と、地位は落ち、代わって、伊佐美王と縁を結んだ狗邪小国が、台頭してきた。伴跛小国の族長でもある主帥は、辰韓国の族長の弟を、加耶姫の婿に迎えることで、どうにか、伴跛小国の滅亡をのがれた。そして、阿具仁の成長に命運をかけた。

 幸いなことに、辰韓国の族長の弟は、寛容な男であった。名を、阿南といい聡明さも兼ね揃えていた。だから、大伽耶山の神の娘である加耶姫にも気遣いを怠らず、三人の子供達も、大事に育ててくれたんだ。明朱兄貴は、この人の子孫だ。だから、俺も、明朱兄貴も、夏希も、それから、夏羽も、加耶姫の子孫なのさ。だから俺達は皆、加耶姫の子供達なのさ。

 阿南と、加耶姫の間には、阿鼓今という男子が生まれた。阿具仁が、伴跛小国の族長になり、その後、伴跛小国を追われた話は、延烏から聞いているだろう。阿具仁に代わって、伴跛小国の族長になったのは、この阿鼓今だ。その子孫が、明朱兄貴まで、伴跛小国の族長に就いている。

 何故、異父兄の金田萬が、伴跛小国を継がなかったかは、少し込み入っている。阿南の兄で、狗邪小国の族長は、首南という名だった。首南は、猛商だったようだ。つまり海賊だ。そして、特に鉄や銅などの鉱物資源を、一手に握っていたようだ。それに、野心家でもあった。いつかは、弁韓を国として建てようと考えていたようだ。しかし、その野心を継ぐ子供に恵まれていなかった。そこで、娘が生まれると直ぐに、娘を金田萬の嫁にしたんだ。娘は、亀姫と名付けられた。

 首南は、生まれたばかりの亀姫を、まだ六歳の金田萬の嫁にすると、さっさと、狗邪小国の族長を、金田萬に継がせた。そして首露と名乗らせたのさ。どうも俺は、この首南の強引な手法を受け継いだところがあってなぁ。困ったものさ。アハハハハ………

 阿具仁が、十八歳で、伴跛小国の族長に成ると、その才を、如何なく発揮しだした。だから、誰もが、阿具仁が、主帥の後継者だと考えた。しかし、首南は、その財力で首露を、主帥の後継者にしようと動きだした。初めは、勇猛で、才気に溢れた阿具仁に付く族長達が多かったが、徐々に、首露を推す族長達が増えてきた。阿具仁は、まだ若く強引なところも多かったので、反感を持つ族長達も出てきたという訳さ。

 阿具仁が、十九歳になった年に、反阿具仁派の族長達は、首露を、九干の一人に押し上げた。首露は、まだ十一歳だったから、この企ては首南の陰謀だなぁ。伴跛小国は、既に二人の祖父である主帥が、九干の一人なので、阿具仁は、まだ九干には成れないという悪だくみだ。俺が悪だくみが好きなのも、やっぱり首南の血だなぁ。困ったもんだ。アハハハハ………

 首露が、九干の一人になったことで、祖父の主帥は、首露を後継者に選ぶしかなくなった。そして、事態を悟った阿具仁は、自ら身を引き高志に落ち延びた。

 やっぱり、阿具仁が一番瓢の血を引いていたのだろうなぁ。引き際を心得ているところなどは、そっくりさ。

 阿具仁が去った伴跛小国の族長は、一旦、加耶姫が引き継いだ。そして、阿鼓今が成人すると、阿鼓今に族長を継がせた。その頃は、首露の狗邪小国が、弁韓の一等国に成っていたが、伴跛小国も、加耶姫の夫になった阿南が、手堅く国を富ませていた。どうやら、阿南も、兄の首南に劣らない商才があったようだ。この商才は、俺より明朱兄貴の方が、受け継いでいるなぁ。頼もしいかぎりよ。

 初代の首露が、十五歳になった年に、漢の王朝が、倭国の伊佐美王に「漢委奴國王」の称号を授け、金印を贈った。更に、瓢が、辰韓国の王になった。先に話したように、この事態に、弁韓の部族長達は大慌てさ。北の辰韓国か、南の倭国か。このままでは、いずれかの国に併合されそうだからなぁ。まして、瓢を追い出した黒幕は、狗邪小国だ。

 そこで、首南は更に悪知恵を働かした訳よ。本当に困った先祖達よ。策士首南の考えは、首露を王として、弁韓国を、建国することだった。伊佐美王と、首南の関係は、元々良い。伊佐美王も、首南の商才を買っていたし、何より、伊佐美王は、勇ましい奴が好きだ。だから、阿具仁と、同じ位勇ましい首南は、お気に入りだった。何しろ、ただの商人ではない。ひとくせも、ふたくせもある自衛貿易商人だからなぁ。まぁ平たく言えば、先っきから言っているように鯨海の海賊王よ。

 そして、首露は、瓢の息子だ。だから、息子の国を攻めるはずはないという魂胆よ。なぁ首南って奴は、悪知恵が働くだろう。嫌になっちゃうよ。一族からも、俺が一番首南に似ていると言われるからなぁ。困ったもんだ。アハハハハ………

 以上が、弁韓国建国の経緯よ。ついでに話しておくと、二代目首露王金千富の妃になったのは、伴跛小国族長阿鼓今の娘だ。名を賢廷という。俺の祖母さんだ。だから、祖父さんと、祖母さんは従兄妹でもある。

 俺には優しかったが、気が強い祖母さんでなぁ。少しおっとり屋の金千富祖父さんは、完全に尻に敷かれていたなぁ。だから尚更、賢廷祖母さんは、親父を産んだことを悔やんでいたよ。

 親父は、金蛭子と、あだ名されるように、足が曲がり、背が曲がった醜い身体だった。賢廷祖母さんは、これでは、弁韓国の王にはなれないと、親父が二歳になると、伊佐美王の長子である室巳様の許に流したのさ。

 室巳様は、金千富の義兄にあたる。だから、親父は義理の甥だ。その甥を憐れんで、室巳様は、親父を十四歳まで倭国で育てた。そして、室巳様のような武人には成れないと分かっているので、弟の三笠様の許で、多田羅師の修行をさせたのさ。

 親父が十四歳になった年に、既に二代目首露王に成っていた金千富は、親父を弁韓国に呼び戻した。その際に、三笠様は、大勢の多田羅師を親父につけてくれたらしい。そのおかげで親父は、鉄の王と呼ばれるように成った訳よ。

 親父が、弁韓国に戻ってくると、賢廷祖母さんは、親父の嫁さがしに奔走した。気は強いが、根はやさしい祖母さんなんだ。醜い親父だって、二歳までは自分の母乳で育てたらしい。そして、人の目につかないように、ひっそりと、館の奥の薄暗い部屋で、二人で暮らしていたそうだ。

 しかし、使用人達は、苦労したらしいぞ。何しろ俺の祖母さんは、食べ物の好き嫌いが激しいんだ。山国のお姫様育ちだから、海の物はからきし駄目なんだ。狗奴国は、海の幸が旨いのに残念な話さ。俺も、祖母さんの土産に色んな海の幸を届けてみたが、やっぱり駄目さ。俺の祖母さんは頑固者なんだ。困ったものさ。やっぱり俺もそこが似たのかなぁ~ アハハハハ………

 醜い姿の息子に合う嫁はいないか。と、探し回った賢廷祖母さんは、結局自分の姪に目をつけた。名を貞媛という。賢廷の兄貴は、阿修という名で、伴跛小国族長阿鼓今の跡取りだ。貞媛は、その娘だ。

 貞媛には、阿明という異母兄がいた。そして、どうやら二人は、恋仲になっていたらしい。禁断の恋というやつさ。そのことを苦にしていた父の阿修は、醜い甥の蛭子に、娘を嫁がせることにした。そして、多海姉さんが生まれた。

 それでも、貞媛さんは、醜い親父が嫌でなぁ。結局、異母兄の阿明と縁りを戻してしまった。怒った親父は、族長会議でそのことを明らかにし、阿明は、勒島へ、貞媛は、州胡に島流しにした。そして、貞媛さんは、州胡で独り明朱兄貴を産んだ。

 伴跛小国族長阿修も、俺の賢廷祖母さんも、何の手助けも出来なかった。それに、弁韓国の中では、二人の名誉も著しく落ちていたからなぁ。誰も同情するものなんかいなかった訳よ。

 そういう経緯で、俺と、明朱兄貴は、実の兄弟ではないが多海姉さんを間に挟むと、兄弟になるわけよ。俺達は、二人とも多海姉さんの弟だからな。だから、俺も、明朱兄貴も、命がけで多海姉さんの子供達を守りたい訳さ。

 どうだね。少しは呑み込めてきたか。それから、ピミファが知りたがっていた「何で、王の俺が、勝手気ままに、海の暮らしが出来るのか?」と、いうことだが、国の舵取りは、明朱兄貴がしているのさ。

 ピミファの八海森国でいえば、淀様や、香美妻の役割を、明朱兄貴がしてくれているのよ。ピミファも、自由に生きたければ、淀様や、香美妻を大事にすることだな。

と、俺の話はここまでだ。良いかなピミファ姫よ。

… … … … … … … … … … … … … … …

 そう、海賊王の首露船長は、話を締めくくった。私は、大人の世界の複雑さに、目がくらみそうだった。

~ 胸さわぎの夏 ~

 夏の暑さが、身も心も溶かしそうだ。私は、先ほどから、南の望楼に立ち、高来之峰を、じ~っと眺めている。「あの峰を越えて、大風が吹いてくれないかしら」と、期待しているのだ。そうすれば、筑紫海を渡り湿って、涼しい風が吹いて来てくれそうだ。もし、そうなれば、少しは暑さも和らぐだろう。

 北の山々の上には、天空高く、雲がもくもくと立ち上っているのに、米多原の館の上には、夕立さえ降ってくれない。しかし、そんな汗に濡れた私の体の奥を、時より冷たい風が、ざわめきながら吹き抜ける。だから、私の体調と気分は、すこぶる良くない。そんな私の様子を気遣うように、子犬の茶肥が、私を見つめている。私は、不安をかき消そうと、思いきり熱風を胸に流し込み、それから、北の空に大きく息を吹き出し茶肥の頭を撫でた。そうして「良し、チャピ。私頑張るから大丈夫だよ。」と、茶肥を抱きかかえた。

 朴菊月姉様の懐妊祝祭が終わった七日後に、アチャ爺一行は、首露王と、辰韓国に旅立った。その一行の中には、ラビア姉様と、ラクシュミー親子に、 吠武琉の姿もあった。それに、 沙羅隈親方が、ラビア姉様の護衛にと、三十六人の河童衆を同行させていた。 狭山大将軍と、その護衛官達も含めると、総勢は六十三名の大きな旅団だ。そこで、首露王の船と、 天之玲来船に分かれて乗り込み、辰韓国に向かうことにした。そうしておけば、「帰りの航海も天之玲来船が使える」という判断になったのだ。

 アチャ爺と、テルお婆、そして、巨健伯父さんに、狭山大将軍は、首露王の船に乗った。航海の途中で打ち合わせを行う算段である。ラビア姉様と、ラクシュミー親子、それに護衛官と、河童衆は、天之玲来船に乗り込んだ。

 私達は、ラビア姉様と、ラクシュミー親子、それに三十六人の河童衆を降ろした天乃磐船で送ってもらうことになった。私は、久しぶりに山幸王と、心行くまで語り合えると思い、心が浮き立った。何しろ、政務についての私の知識は、乏しすぎるのだ。だから、臼王の許を離れる今は、山幸王ほど、頼りがいのある先生はいないのである。

 ラビア姉様につき従う三十六人の河童衆は、首露船長の海賊衆と見分けがつかない位の猛者ぞろいである。それもそのはずで、ラビア姉様の商隊も、首露船長の自衛貿易商人団と同じように、武装商隊なのである。

 そして、この旅は、商売も兼ねた道行である。そうしながらラビア姉様と、三十六人の河童衆は、天竺まで、ラクシュミー親子を送っていくのだ。そうして、各地の商業都市で商売をするのである。

 そんな商業都市を、バザールと呼ぶらしい。その郊外には市が立ち、その市を、スヌークというらしい。そして、武装商隊のことは『キャラバン』と云うのだ。決して山賊団ではない。

 首露船長の話では、「山賊は、海賊のような貿易商ではない。真の盗賊団なのだ」ということである。更に、首露船長や、夏希義母様は、海の貿易商人だが、ラビア姉様と、沙羅隈親方は、陸の貿易商人なのだ。 弁韓国に到着したら、アチャ爺とテルお婆は、辰韓国に向かうが、ラビア姉様の商隊は、一旦、馬韓国に向かうそうだ。そこで、沙羅隈親方の一族に、長旅の支度をしてもらい、沿岸の港町を北上して行くそうである。

 大きな船での旅ではないので、一気に海を横切る旅は出来ないのである。そうやって小舟での旅を続け、 中華に上陸するのである。そこからは、馬での旅になるそうだ。

 中華の上陸地点は、臨楡という港町らしい。臨楡は、かつて沙羅隈親方や、 秦家の一族が、馬韓国や、辰韓国、そして、倭国に渡った港らしい。だから、賑やかな中継貿易港のようである。

 ラビア姉様は、臨楡で、馬車に荷を積み替え、キャラバン隊を組織したら、張家口という町を目指すそうだ。張家口には、万里長城と呼ばれる長い塀のような土壁の城が築かれているそうだ。その長城の北には、 烏丸、 匈奴、 鮮卑という遊牧民が暮らしているようである。彼らも、また、シュマリ(狐)女将と同じ東胡族らしい。彼らから見た長城は白い壁のようであり白壁と呼ぶそうである。また長城の南に暮らす漢人は彼らのことを塞外と呼び、そこが、民族の国境線でもある。その国境の町、張家口には、漢人だけでなく、烏丸も大勢暮らしているらしい。そして、沙羅隈親方は、烏丸との繋がりも持っているそうである。そうやって、ラビア姉様のキャラバン隊は、西へ西へと旅を続けるのである。

 その心浮き立つ夢のような話を聞きながら、私も、いつか女王の仕事を、淀女房頭や、 香美妻に押し付けて、海賊になるのだと決心した。そして、首露船長のように海風に………… ウ~ム 髭はないから、長い黒髪をなびかせ、天之玲来船で、長い交易の旅をするのだ。そうしながら、まずは、天竺に渡ろう。天竺に着いたら、次は西域を目指して、陸の貿易商人になろう。もちろん、キャラバン隊の隊長は、私である。………… と、私の妄想は限りなく広がって行った。だって、どう考えても、私に政務は向いていないのだ。

 夏希義母様と、 夏羽を、斯海国の口ノ津で降ろすと、 筑紫海の海面を激しく叩く雨が降り始めた。それから数日経って、蒸し暑い雨季が終わった。そうして今度は、茹だるような太陽の熱さに焼かれている。頭の中と身を焦がし早く秋に成らないかと、私は、望楼の上で、ささやかな川風に身を横たえて耐えている。せっかく、 山幸王に教わった政務の心得も、この照りつける暑さで蒸発しそうである。 

 須佐人は、元気に亀爺の許で、河童の頭領見習中である。そして、川面の陽光を、勢いよく跳ね上げながら泳ぐ姿は、すでに、見事な河童である。

 香美妻は、干からびた私の代わりに奮戦中である。もちろん、ひっつめ頭には、沙魚革の真珠の鉢巻を締めている。

 私も、去年の夏は元気だった。千歳川を遡り、 磐羅山から、 層々岐岳を駆け回り、冒険の旅を謳歌していたのである。でも、今年の夏は、女王の政務に負われている。まともに総理を行っていたら、眠る時間しかない位である。那加妻と過ごした伊都国の夜が懐かしい。 

 日子耳は、すっかり那加妻に懐き、何となく那加妻も、お母さんらしく成ってきた。 火尾蛇大将とも、秋になったら、祝言を挙げるそうだ。投海国の三人の族長が、戸惑う火尾蛇大将を、説き伏せたらしい。でも、火尾蛇大将は、那加妻が嫌いだった訳ではない。まだうら若い那加妻を、親子ほども年の離れた自分が娶るなど、滅相もないことだと考えていたそうだ。那加妻は、今とても幸せそうである。早く日子耳の弟か、妹を、産まなければいけない。ト、私と、香美妻は願っている。

 先日、伊都国にいる 玉輝叔母さんから、便りが届いた。この猛暑にめげることも無く、 菊月姉様は、元気なようだ。もちろん、お腹の中の可愛い子洵も元気である。近頃は、お腹の中で良く暴れているそうだ。子洵は、 朴奈老大将や、 志賀沫裸党の愛加那さんの血を引いているのである。だから、きっと、女戦士に成れる位に、元気な娘なのだろう。走り回れる位大きくなったら、磐羅山から、層々岐岳への、天空の道を駆けまわりに連れていこう。そうして、もっと大きくなったら、高来之峰に登り、筑紫海を見せてやろう。その後は、天之玲来船に乗せて、枚聞山と、 火神島も見せに行こう。もちろん、砂の温泉にも入るのだ。私は、子洵の誕生が、待ち遠しくて仕方なく成ってきた。

 臼王は、政務も手に付かないらしい。もちろん、私のように暑さにやられている訳ではない。跡取り娘のことが、心配で成らないらしい。臼王は、本来は実務屋らしく、あまり神頼みなどしない方だ。でも、今は田の石の神様にさえ、手を合わせ「どうぞ、スヂュンが無事に生まれますように」と、連日のように、神頼みに回っているらしい。

 私の父様は、どうだったのかしら? 私と、身重の母ぁ様をおいて、国に帰った位だから、きっと、薄情な男に違いない。私も、臼王の娘に生まれれば良かった。

 玉輝叔母さんの見立てでは、子洵は、年が明ける前後には産まれそうだ。だから、私の目下の悩みは、どうやって子洵に会いに行くかなのだ。

 冬の山越えは無理だろうし、海も荒れるかも知れない。「秋から伊都国に留まりスヂュンの誕生を待つ!!」と、言ったら香美妻が怒るだろうし、淀女房頭も許してはくれないだろう。私は、剣の項荘、徒手の項佗、槍の項冠の三人に、大雪が降っても越えられそうな峠を、探すように頼んだ。そして、どうやら、 伊美国に回り込む道なら、峠の雪も少なく越えられそうだ。ということだった。そこで、私は、秋になったらシュマリ女将を呼び寄せておこうと、考えている。シュマリ女将がいれば、雪の峠も、無事に越えられるだろう。

 項権の妻問いは、予定通り、梅雨の晴れ間の日を選んで決行した。ところが、なんと項権は、夜這いの経験がないというのだ。項権は、夏羽より少し若い位の年頃である。斯海国の男は、夏羽のような助べえばかりかと思っていたので驚いた。更にこともあろうに、項権は、私と、香美妻に「どうしたら、良いのでしょうか?」と聞いてきたのである。私も、香美妻も、夜這いなどする訳はない。それに、まだ夜這いをされたこともない。だから、私は、項権に「夜這いの仕方なら、スサトに聞くとよい。スサトは、夜這いの手伝いなら慣れたものだから」と言ってやった。

 それから、香美妻は、 豊海に「ななつ星の柄の先から、お前の元に、夜這い星(流星)が落ちてくる。それは吉兆なり」と告げていた。それでも、項権の様子が心配なので、私は、須佐人を呼んで「項権の妻問いは、スサトの肩にかかっているから、よろしく頼んだわよ。」と、念を押しておいた。

 何で、「私が、こんな馬鹿な真似をしているのだろう」とも思ったけど、こうしないと、剣の項荘、徒手の項佗、槍の項冠を、夏希義母様に返せないのだ。夏希義母様は「項荘、項佗、項冠の三人は、いつまでもピミファの許に置いていて良いのよ」と、言ってくれそうだが、私は、馬鹿兄貴の夏羽のことも心配なのだ。夏羽が、斯海国を束ねていくには、項荘、項佗、項冠の三人は、欠かせない存在の筈である。本当に、助べえでお調子者の兄を持つと、妹は大変なのである。

 三日後、須佐人から「ななつ星 柄の先から 吉兆垂らす 権 夜這い来て 枇杷の実をもぐ」と、したためた竹簡が届いた。そして、初夏の猛暑が襲ってきた頃、豊海は、悪阻に襲われていた。そこで私は、豊海の父母である 鬼水族の於美奈族長と、その妻の八十女を呼んで「トヨミの夫は、項権にする」と沙汰をした。二人は一瞬驚きそして歓喜した。

 豊海は、二人のたった一人の子である。その豊海が、「神様に仕えるので嫁には行かない」と、言い張っていたのである。孫が出来なければ、族長の家は絶えてしまう。二人は、日々そのことに悩まされていたのである。

 更に、豊海は、悪阻に襲われていると告げると、八十女は、喜びの余り泣き崩れた。めでたいことである。於美奈族長は、私に深々と頭を下げると「我が一族から、ヒミコ様を、お守りする隊長が出せるとは、こんな栄誉なことは、有りません。さっそく一族の元に戻り、コウケン殿を、オナミ族の族長にすると告げてまいります。そして、我が一族の夏の祭りには、ぜひコウケン殿を派遣いただきたい」と言った。

 もちろん、私は「この夏、コウケンは、オミナ族のお世話になりますので、宜しくお願いします」と告げた。傍らでは、香美妻が、満面の笑みを浮かべてうなずいていた。

 それから、私と、香美妻は、早速後の二人の妻問いの計画を、練り始めた。そして、秋の終わりには、剣の項荘、徒手の項佗、槍の項冠を、 斯海国に返えそうと考えたのだ。当初は、二年程の時をかけてと考えていたが、長引かせても、未練がつのるだけである。やはり三人は、三人にふさわしい処に帰すべきである。そう香美妻に諭されたのだ。

 夏の暑さが峠を越えた頃、三月の長旅から、 天之玲来船で、アチャ爺一行が帰ってきた。テルお婆は、孫を抱くことが出来たようだ。そして、明人小父さんも元気なようだ。表麻呂船長の話では、 秦鞍耳の操船の腕も随分上がったそうだ。順風満帆な日には、表麻呂船長の代理を務めさせてもらったらしい。私は、表麻呂が帰って来たので、風之楓良船の建造に取り掛かろうと思っている。

 既に夏羽には、斯海国の口之津に、大型船の造船所を作ってもらっている。そして、美曽野女王にお願いして、沫裸党の船大工も口之津に集めた。更に伊美国の粕耶族長には、優秀な工人を送ってもらった。

 天之玲来船は、 琴海さんが私の為に貸し付けてくれている船だが、風之楓良船は、倭国の総力を挙げて造る倭国の大型船だ。それに天乃磐船と同じダウ船である。天乃磐船は、そもそもラクシュミーさんの船である。

 倭国では、まだ大型船を造ったことはないのだ。だから、表麻呂がいなければ建造は無理なのである。表麻呂の補佐には、秦鞍耳を任命した。それを知った 倉耳族長は大喜びし、 投海国から百名の人夫を送ってきた。更に 火尾蛇大将の計らいで、 狗奴国の上質な木材が届けられた。

 各国の族長達も、自国の規模に応じた人夫を、送り出してくれた。そして、口之津の造船所には、千人程の人夫が集った。皆屈強な男達である。もちろん、その屈強な千人程の男達を束ねる人夫頭は、秦鞍耳である。鞍耳は、寡黙だが人を束ねる威厳がある。きっと、須佐人も、鞍耳に負けない統率者になるだろう。この二人がいれば、女王の私は、ますます遊び呆けて暮らせるだろう。頑張ってね。須佐人に鞍耳よ。

 西の空が真っ赤に染まった。どうやら台風が近づいているようだ。私は、小さい時から台風が大好きである。でも、そのことを、口に出すと、皆の眉を顰めるので、秘密にしておかねばならない。この顰蹙を買う秘密を知っているのは、健だけだ。健は、福爺から方術を伝授されている。だから、多少変わった話でも驚かない。

 私が、この秘密を、健に打ち明けると、健は「ピミファ姉様は、太陽で、その霊魂は、奇魂です。奇魂には、智が働きます。だから、古い因習などには、囚われません。常に、新しい世界を、生み出す力があるのです」と言った。

 物事に、善悪や、個人的な好き嫌いの感情を込めない健の、いつもの言い回しに、私は一瞬戸惑ったが、良く考えれば、私は変人らしい。やっぱりそうかと思いながら、健ともこの話は、あれ以来していない。

 確かに、舟に乗れば、転覆を期待しているし、まだ馬には乗ったことはないが、もし馬に乗ったら、振り落とされるのを期待する気がする。海に放り出されそうな、或いは馬から振り落とされそうなギリギリの瞬間が、私は、好きなのだ。そんな瞬間に、私は、生きている喜びを感じる。

 朴延烏様が「死ぬのは嫌ですが。死んだように生きるのは、もっと嫌でしてなぁ。戦は好みませんが、理不尽な輩には、いつでも撥ねつける力も、つけておかねば気が済まん質でしてなぁ~」と、快活に、笑いながら話されたことを思い出す。と………? 言うことは、延烏様も、もしかしたら変人だったのかしら………?

 アチャ爺一行の報告会は、日が沈んで行われた。燈明にアチャ爺の陰影が浮かんだ。いつもの陽気なアチャ爺は、そこには居ない。私の胸を大きな不安が過った。亀爺が「では、アチャの報告から聞かせてもらおうかのう」と口火を切った。

 それでも、アチャ爺は、口を開かない。蒸した川風が、重い空気を更に淀ませた。そして、亀爺は黙って待つ。この兄弟は、重要な局面では、いつもこうだったのかも知れないと思わせた。

 「兄様、私から話し始めては、いけませんかのう」と、テルお婆が声を上げた。「良いか。アチャ」と、カメ(亀)爺が、アチャ爺に訪ねた。アチャ爺は、小さくこくりと頷いた。「では、テル。話を聞かせてくれ」と亀爺が、やさしくテルお婆を振り向いた。

 「今回の訪問では、おかしな様子はありませんでした。 ユリも元気で、 ユナは、いつも弟君のアマ王子を抱いていました。ナリェ王妃のユナを見る目は優しく、アマ王子と、ユナは、母を同じくする姉弟のようでした。幼いアマ王子は、ユリに飛び掛かっては、甘えていました。三人の兄弟仲は、周りがうらやむ程です。ですが………」と、テルお婆が声を落とすと「すまんじゃったテルよ。ここからはワシが話そう」と、アチャ爺が、テルお婆の話を遮った。

 「兄じゃ。気になったのは、ナリェ王妃の、ユリを見る目じゃ。とは言っても、疎ましいという目ではない。ナリェ王妃も苦労人だ。安易に人を貶めたり、恨んだりする人ではない。じゃがなぁ~気になるのだ」と、アチャ爺が、深くため息をつくと「サヤマは、どう見た」と、亀爺が、狭山大将軍を返り見た。

 「私は、最初気がつきませんでした。どうみても仲睦まじい親子なのです。しかし、アチャ副頭領の話を聞いて、私も違和感を覚えるように成りました」と狭山大将軍は静かに答えた。

 「イタケルはどう思う」と亀爺が聞いた。「一瞬なのです。ナリェ王妃が、その眼差しを、ユリに向けられるのは……… ナリェ王妃自身も、そんな眼差しをユリに向けたとは、気づかれていないでしょう。アチャ叔父でなければ、気付かない仕草なのです。だから、もちろんアダラ王も、お気づきでは有りません」と巨健伯父さんは、確信的に答えた。

 「アチャよ。何故だと思うか?」と亀爺が訊ねた。「実の子が出来れば、たいがいの女子はそうなるものよ。いわゆる継母じゃ。じゃが、先っきも言ったように、ナリェ王妃は苦労人だ。継子いじめをするようなお方ではない。論より証拠で、ユナは、実の母以上に、ナリェ様に懐いておる。だから、アダラ王は、王宮のことは全て、王妃にお任せなのじゃろう。だがな、魔物は、どこにでも巣食うものじゃでなぁ」と、再びアチャ爺は声を落とした。

 「どうやら、魔物が再び動き出したようじゃのう。困ったもんじゃわい」と、亀爺は、頭の上の皿を撫でた。そして、「イタケルよ。どこまで掴めたのじゃ」と再び亀爺が、巨健伯父さんに尋ねた。「ヨンオ様が、ジンハン国を去り、パク氏は、本家と分家がまとまりました。アマ王子は、六代チマ王の孫で、アダラ王の息子ですからね。そして、ソク氏、キム氏も、アマ王子が世子なら、異論は出ません。しかし、ユリの聡明さが、事態を狂わせたようです」と、巨健伯父さんは、言いだした。

 「それはどういうことなの?」と、淀女房頭が、首を傾げて聞いてきた。「ユリには、パク分家の血は流れていません。当然、ソク氏、キム氏の血も流れていません。ユリに流れているのは、パク本家の血だけです。もちろん、ユリは庶子ですから、王妃の血を引くアマ王子が、正統な世継ぎです。しかし、パク本家の者からすると、そもそも王位の正統を欠いたのは、パク分家です。加えてユリの聡明さは、重臣皆が認めるところです。そこで、パク本家が、アマ王子への掣肱策として、ユリの擁立に動きだしたようなのです。だから、その動きに応じて、パク分家、ソク氏、キム氏の三氏は、アマ王子擁立派としての立場を、鮮明にし始めたようです。そして、ナリェ王妃を、取り込もうとしているのではないかと思います」と、巨健伯父さんは、話を締めくくった。

 「アチャよ。良うないのう。歯がゆいのう。アチャよ。何か手はないかのう」と亀爺は、まるで地団太を踏むかのように苛立った。「兄じゃよ。歯がゆいのう。魔物がユリに手を出そうとしておるのに、ワシ等は手をこまねいているしか能がないのかのう」とアチャ爺も苛立った。そして、その場の重い空気を、台風の前兆が、かき乱し始めた。私は、加太や、 美英と、志賀が儒理の傍についていることだけに望みを託した。

~ じれったい秋 ~

 私は、胸騒ぎに苛まれながら、どうにかこの夏を乗り切った。 巨健伯父さんは、秦家の総力を挙げて、 辰韓国の情報を、逐一集めている。しかし、玉輝叔母さんには、遠回しにしか伝えていないようだ。今は、 菊月姉様の母様代理に専念させようとの、計らいのようだ。玉輝叔母さんに取って儒理は、たったひとりの甥っ子である。その儒理に危険が迫っているかも知れないと分かったら、きっと、玉輝叔母さんは、何も手がつかなくなるだろう。須佐人は、何とか辰韓国へ潜り込もうと目論んだようだが、亀爺が許さなかった。私は、事態を延烏様に知らせておこうと思い、再びシュマリ女将に高志に走ってもらった。

 秋風が吹き始めた頃、亀爺が皆を呼び集めた。巨健伯父さんの情報収集が、ある程度の進展を見たようだ。会議は、リーシャンの料理を囲みながらとなった。ずい分大きくなった愛犬の茶肥も、聞き耳を立てている。茶肥には、私が毎晩話を聞かせているので、もうすっかり人間の言葉がわかるようになっている。ただし、人間の言葉は喋らないから、皆は茶肥が人間の言葉を理解しているとは気づいていない。

 茶肥の犬語も、私には理解出来るので、茶肥に、遁甲の役をやらせたら、きっと、完璧に情報をつかんで来ることだろう。シュマリ女将に、この話をしたら「きっと、チャピは良いトンコウに成りますよ」と、お墨付きをくれた。そして「しかし、ジンハン国は、犬掻きで泳いでいくには遠すぎますからねぇ。じれったいですよね」と、笑いながらため息をついた。

 亀爺が招集した会議には、シュマリ女将も加えた。いざとなったらシュマリ女将に、辰韓国に渡ってもらおうと考えているのだ。この前、シュマリ女将に「どうやったら、いろんな種族の言葉が話せるようになるの?」と聞いてみた。そうしたらシュマリ女将は「言葉を一つ一つ覚えないようにするんですよ」と答えた。えっ? 言葉を覚えずにどうしたら話が出来るの? と訝しがっていると「言葉、一つ一つは、とても意味が深くて、難しいものなんですよ。だから、言葉一つ一つを丁寧に覚えようと考えると、なかなか会話に進まないないんですよ。今度、誰かと誰かの会話を良く聞いていてごらんなさい。意外と、意味のない言葉で、会話は進んでいくものですよ。『そうそう』とか『ああそれそれ』とか『あれよ。あれあれ』なんて具合にね」と教えてくれた。

 確かに、そう言われてみればそうである。アルジュナ少年との哲学的な話でもなければ、言葉は厳密でなくても会話は通じるものである。例えば、朝なのに、「こんにちは」と、挨拶の言葉を言い間違えたとしても、大きな問題にはならない。相手は、クスッと笑うかも知れないけれど、挨拶をされたのだとは分かっているのである。シュマリ女将は「言葉一つ一つを聞き取ろうとせず。相手の心を読むのですよ。言葉一つ一つを、必死に聞き取ろうとすると、かえって、相手の心が聞えなくなるんですよ」と、教えてくれた。なるほど、だから茶肥は、人の話をよく理解しているのだ。良く考えてみると、茶肥は、聞き耳を立てる以上に、話している私の眼を、じっと見つめている。まるで、私の瞳から心を読み取ろうとするような仕草である。

 巨健伯父さんが、辰韓国の情報を報告する前に、亀爺が「皆に古い話を聞かせておこう」と、辰韓国の昔話を始めた。須佐人や、私は、もちろん、巨健伯父さんや、アチャ爺でさえ良く知らない昔話らしい。

 「ピミファは、イン家の話は詳しく聞いておろうが、パク家の話は、あまり詳しく聞いておるまい。父様からは、どんな話を聞いておるのかのう」と、亀爺が、私に訊ねた。私は「父様の四代先のご先祖は、『卵から産まれた』と教わったわ。何でもその卵は、ナジョンという井戸の端に転がっていたらしいの。その卵は、瓠のような大きさと形をしていて、不思議な紫の光を放っていたそうよ。だから、ジンハン国の言葉で、瓠を意味する朴を、氏族の名前にした。と聞いているわ」と答えた。

 すると「では、その四代先のご先祖様の名前は、聞いておるのかの?」と、また亀爺が聞いてきた。そこで私は「この前、ヨンオ様に、四代先のご先祖の名は、ヒョッコセだと伺ったわ。そのヒョッコセの娘が、ヒョウ様、すなわちソクタレ王のお母様だった。とも聞いているわ。だから、ソクタレ王は、ヒョッコセの孫になるわね」と得意顔で答えた。

 「ほうほう、なかなか、良お~知っておるではないか。では、ヒョッコセの通り名は、何という。つまり、普段皆から呼ばれていた名のことだな」と、再び亀爺が聞いてきた。

 「えっ? ヒョッコセじゃ駄目なの?」と、私がいうと「居世と云うのは尊称で、王に成って付けたのじゃ。だから、その前の幼名じゃなぁ。つまり、養父様や、養母様や、あるいは周りの親しい者たちが呼んでいた名じゃ。今、アマ王子を、ナリェ様や、ユナが『アマよ。私の可愛いアマよ』と呼んで愛おしんでいるようなものじゃな。

 では、勿体ぶっていても、話が先に進まんから教えようかのう。そりぁ、アルヒョクじゃ。アルは、卵のことじゃ。そして、ヒョクと云うのは、光輝いている様を云うのじゃ。だから、赤紫の光を放っている卵そのままを、名前にしたのじゃなぁ」と、亀爺は教えてくれた。私が「へぇ?」と呟くと「なかなか面白いじゃろう。どうだね、ワシの昔話に興味が湧いてきたかね」と、亀爺が皆を見渡した。すると、茶肥がワンワンと元気よく返事をした。「良お~し。では、話を始めるとするかのう」と、亀爺は、ふさふさの毛に覆われた茶肥の頭を撫でながら話を始めた。

≪カメ(亀)爺が語る辰韓の昔話≫

 まずは、辰韓国とは、どんなところか? と、いうことから話そうかのう。場所は、おおよそピミファにも分るじゃろう。では、国の大きさじゃが、辰韓国の広さは、筑紫島より、少し小さい位かのう。古朝鮮半島の東南が、辰韓国で、西南が馬韓国じゃ。国の大きさも、同じくらいかのう。そして、 弁韓国が、その南に位置しておる。馬韓国と、辰韓国は、良く戦になるが、弁韓国は、その狭間で、いつも微妙に立ち振る舞っておる。まるで、気の強い嫁と、姑の間に立たされた気の毒な婿殿のようじゃ。だから、弁韓国の王は、胆の据わった策士じゃないと勤まらん。じぁで、金青龍殿は、まったくの適任者じゃでなぁ。

 筑紫島は、三十国ほどの国に分かれておるが、辰韓国は、中心部の大半の領土を六つの氏族が収めている。領土の中心を成す所は城邑と呼ばれている。そこは城壁に囲まれた大きな町じゃと思えば良い。六つの城邑は、国と呼ぶほどには大きくはないが、氏族の族長を中心にそれぞれに統治されている。

 辰韓国でピミファが良く知るのは、朴氏、 昔氏、金氏の三氏族じゃろう。しかし、これは新しい氏族じゃ。この三氏族以前から、李氏、鄭氏、 薛氏、崔氏、孫氏、裴氏という、六氏族がおったんじゃ。この六氏族は、元は皆、漢族を主流としておる。

 その中のひとつ楊山城邑は、李氏が治めており、その当主は、 李閼平という男じゃった。じゃで、閼平が楊山城邑の族長じゃ。李氏の始祖は、李耳というて、大学者じゃった。だから、その血を受け継ぐ 閼平も、高潔な男だった。閼平は、日頃より「自然を人間の手で制するのではなく、自然を受け入れながら、自然の中で共生して暮らす道を、歩まないといけない」と、一族の者や、周辺の人々に説いていた。

 李氏は、六つの氏族の筆頭である。しかし、閼平は「王は、人が選ぶものではない。王は、天が選ぶものだ。天が選んだ王の証は、徳の深さにある」とも考えていた。その考えは、他の氏族にも支持をされておったので、六つの氏族は、常々より、『天がつかわした徳ある者』を探していた。そして、その者が現れたら、その者を辰韓の王と成し、国を建てようと考えていた。

 その頃の辰韓国は、 中華からの流民と、濊貊の移民で、治安が乱れておったのじゃ。そして、それを治めるだけの力は、六氏族の族長達にはなかった。李閼平は、賢い男だからそのことをよく自覚していたのさね。

 ある年の春先、冬の厳しさが影を潜めた日を見計らい、族長達は、閼川の丘の上で、春の祭りを開いた。そして、今年こそは、天命が下るように祈った。すると、丘の南側にある、 蘿井という井戸端に、不思議な気を放つ光が立った。そこで、族長達は、急ぎ蘿井の井戸端に降りて行った。すると、井戸端に、一匹の白い馬が、地に膝まずいて、拝礼をするように座っている。そして、その白い馬の先には、紫の光を放つ卵が、一つあった。それを見て、突山高墟城邑の族長蘇伐都利が、「その白い馬は、大伽耶山の卷属神だ」と言った。蘇伐都利の母は、倭人だったので、大伽耶山の神の許で育ち、大伽耶山の神の卷属のことも、良く知っておったのじゃなぁ。それを聞いた他の族長達も、この卵は、間違いなく天命によって遣わされたのだ。と、確信した。

 そこで、蘇伐都利が、その卵を持ち帰り、育てることになった。数日後、卵が割れ始めたので、六氏族の族長達は集まった。すると、卵の中から、赤紫の光を放ち、まるまると太った大きな赤子が産まれてきた。そこで、 李閼平が「この子は、我々の王になるべく、天が遣わされた赤子である」と述べた。そして「光輝く卵から産まれたこの赤子は、アルヒョクと呼ぼう」と言った。その言葉に、他の族長達も大きくうなずき、将来の王が決まった。卵赫は、後継ぎの男子がいなかった族長の蘇伐都利が、そのまま育ての親になることに決まった。

 どうじゃね。ピミファよ。ここまでは詳しくは、知らんかっただろう。もちろん、人が卵から産まれる筈などないから、ワシャ(私)~この卵とは甕棺じゃなかろうか? と、考えておるがのう。もちろん、「自分は、卵から産まれた龍神の末裔だ」と、ピミファが思う分には、それも良かろうとワシャ思ちょるよ。まぁピミファの好きにすりぁ良かたい。

 ところで、捨て子の卵赫の親は、誰だと思うかね。例え、卵の龍神だったとしても、親はおる筈じゃのう。まぁ卵が先か、雛が先かっちゅう難しい問題も、横たわってはおるが、そんな難しい話は、加太殿か、アルジュナ少年に任せよう。

 卵赫の育ての親になった蘇伐都利夫婦も、やっぱり気になったので、母の里に出向き調べてみたのさ。そうすると、どうやら母親は、弁韓にある大伽耶山の巫女女王らしいと判った。しかし、この時、巫女女王は、未婚だったので、父である 伴跛邑小国の族長は、この懐妊を許さなかった。そこで、巫女女王は、倭国に渡り、卵赫を産んだ。倭国には、卵赫の父親がいたようじゃ。しかし、卵赫を産むと、程無く倭国で亡くなった。その大伽耶山の巫女女王は、「高木の神のおひとりじゃ」と、ワシャ(私)帛から聞いておる。

 倭国にいた卵赫の父親は、瓠公という男だった。この瓠公という男は、ピミファともおおいに縁がある。何故なら、瓠公の母親は、尹家の巫女じゃったからだ。実は、瓠公の本名は、 箕恣というのだ。瓠公と云うのは、 箕氏の一族に伝わる屋号のようなものだ。 金青龍様が、 首露王と呼ばれるのと一緒じゃ。

 箕恣の一族箕氏は、古朝鮮の王族じゃった。しかし、満と云う男に、国を奪われ、箕氏の一族は、南に逃れた。そして、時の当主箕準は、馬韓国の初代の王となった。

 二代目の王は、 箕卓という。箕卓の弟に、 箕胡蘆という者があった。ある時、父箕準は、兄弟に『狡兎三窟』の故事を語って聞かせた。狡兎三窟とは、中華の孟嘗君の食客の一人であった馮驩という策士が語った処世術じゃ。『狡賢いウサギは、三つ以上の巣穴を持っています。だから、手堅く生き残るには、三つ以上の逃げ場所を作っておくことが賢明です』と、いう訳じゃのう。

 そこで、弟の箕胡蘆を、辰韓国に渡らせた。胡蘆とは、瓢箪のことじゃで、辰韓国に渡った箕胡蘆は、瓠公を名乗った。瓠という文字はヒョウタンと同じ意味じゃ。ヒサゴとも言うのう。じゃで、瓠公という訳さ。それから、辰韓国の箕氏は、瓠公を屋号としたのさ。

 ちなみに、ヒョウタンは縁起の良い植物でなぁ。ヒョウタンは中には、たっぷりと納められるが、出し入れは、難儀じゃ。だから、酒入れとしては、もってこいじゃわい。酒がこぼれては、勿体ないからのう。それに、邪気も封じ込めれば、なかなか出られんでなぁ。方術師は、化殺の秘儀にも、良ぉ~使うよのう。いかん、いかん、また話が横道に逸れ始めたわい。話を箕氏の起源に戻そう。

 箕氏の始祖は、箕子と呼ばれた人で、ピミファの尹家の始祖伊尹が、湯王と共に、夏王朝を倒し、その後に起こした商王朝の末期の皇子だ。だから、箕氏一族と、尹家の関係もまた深いのさ。どうじゃね。だいぶん混ぐらかって来たかい。要は、朴氏の始祖卵赫と、ピミファの尹家は二千年程前からの縁が続いていたのさ。

 さて、次は、話を卵赫の時代に戻そうかの。「卵赫が産まれ、大伽耶山の巫女女王が死んだ」と、聞いた 伴跛小国の族長は、大いに怒り、産れたばかりの、呪われた子である卵赫を、殺すように命じた。そして、倭国から、卵赫を、連れ去ると、生きたまま甕棺に入れ、大伽耶山の麓に埋めた。

 しかし、哀れに思ったある男が、そっと掘り出し辰韓国に隠した。男は薛支徳といい辰韓国の明活山高耶城邑の族長の息子だった。城邑というのは先ほども言ったように城壁に囲まれた領土のことだ。つまり薛氏の領土という訳じゃな。

 薛支徳は、瓠公つまり箕恣の親友でもあったのだ。実は、辰韓国に逃げ延びた、もうひとつの箕氏の一族は、この明活山高耶城邑で隠棲していた。そして、箕恣も、ここで生まれ育った。恋人の大伽耶山の巫女女王が懐妊した後、二人は、箕恣の母の国、倭国に駆け落ちしたのさ。

 明活山高耶城邑の族長は、 薛居伯という名だった。薛氏は、 中華の斉国薛からの亡命人だった。遠祖は、斉国の田文じゃ。田文は、人々からは、孟嘗君と呼ばれていた。先っき『狡兎三窟』の故事に出てきたお人じゃな。その為、田家とは、出自が浅からず古い姻戚でもある。田家が、斉国から落ち延びた時も、一旦、明活山高耶城邑の薛氏を頼り、その後、尹家との結びつきで、倭国に移り住んだんじゃ。

 じゃっで、田家を、窓口として、薛氏は、倭国との関係も深い。今、阿逹羅王が頼りにする側近に薛虎珍という者がおるが、薛虎珍は、薛居伯の八代目の子孫なのじゃ。ピミファも、虎珍の名は、覚えておいたが良いぞ。なにしろ、辰韓国の、アチャのような男らしい。そして、薛氏二十八人衆と呼ばれる輩は、項家二十四人衆にも劣らない偉丈夫揃いらしいぞ。じゃから、薛虎珍が、儒理の守り刀になってくれると、安心なのじゃがなぁ。いかんいかん、話がまた逸れ始めたのう。元に戻そう。

 明活山高耶城邑の薛居伯族長は、この話を、楊山城邑の李閼平と、突山高墟城邑の蘇伐都利に相談した。李閼平は、迷いなく「これは天命である」と言った。そして、三人は、古朝鮮の王の血を引く卵赫を、王に立て辰韓国を建国することを決めた。他の三人の族長からも異議は出なかった。そして、卵赫が十三歳に成り、成人の儀式を済ますと王に立てた。これが辰韓国の建国じゃ。

 ところで、この時、もうひとつ始祖伝説が生まれたのじゃ。実は、それから三年後、李閼平が治める、楊山城邑の閼川で、行き倒れている貴婦人があった。その貴婦人は、中華の漢服を身に纏っていた。

 屋敷に運び気を取り留めた貴婦人に、李閼平が「名は何と言われるのかな」と尋ねると、貴婦人は「霍成……… いえ娑蘇と申します」と答えた。そこで李閼平は「ほおう。スォスーさんか。では、ジンハン風に、サソ様と呼ばせてはいただけませんかな」と、頼み霍娑蘇は、了解した。それから、妻を亡くしていた李閼平は、娑蘇を後妻に向かえ、翌年娘の李閼英が、産まれた。それは、ちょうど、卵赫が、十八歳になった年だった。そこで、生まれたばかりの李閼英を、王妃と成したんじゃ。つまり、ピミファの朴一族のご先祖じゃ。

 一方、 辰韓国の北には、悉直谷国が在り、 蘇志摩利と呼ばれる地があった。秦家の始祖である磯猛や、須佐能の生まれ故郷だ。蘇志摩利の首長は、蘇始母里という男で、須佐能兄弟の父であった。そして、また、この地は、濊貊との紛争の地でもあった。卵赫を王に育て、赫居世と名乗らせ、辰韓国の初代王に建てた一派は、大伽耶山の信徒である倭人と、古朝鮮の亡民が交わった勢力だ。しかし、蘇志摩利に暮らす民は、中華の移民だった。だから、共に、濊貊を敵としていたが、微妙な亀裂が生じることも多かった。そしてある年、磯猛と、須佐能の父の蘇始母里は、濊貊に通じていたとされ、卵赫こと赫居世に討たれた。

 須佐能は、まだ四歳だったようじゃのう。辰韓国を追われた一族は、我が秦家の始母摩利に導かれて、倭国に渡った。始母摩利が頼ったのは、尹家の巫女集団だったんじゃ。巫女集団は、母系集団でもある。だけん、困窮した女達が逃げ延び助けを求めるのは、巫女集団だったちゅう訳たいね。そして、尹家は、始母摩利と、その一族を、稜威母に匿ってくれた。それから先の話は、ピミファも良~お知っての通りじゃ。

 つまり、この卵赫こと初代王赫居世ことじゃな。つまり、須佐能の因縁の対立が、辰韓国の騒動の元凶なのじゃ。これを、第一次辰韓内乱と、呼ぶとすれば、第二次辰韓内乱が、ピミファのお祖父様逸聖王と、昔氏そして金氏の元締め金閼智殿の対立じゃ。その後、 朴奈老大将と、阿逹羅王の悲劇を生んだのが第三次辰韓内乱と言えようのう。そして、今、ふたたび、第四次辰韓内乱の危機が迫っておるようじゃ。困ったもんじゃわい。

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 と、亀爺の昔話は語り終わった。それを踏まえて、シュマリ女将が「六氏族の今は、どうなっているのですか。そして、朴氏、昔氏、金氏以外の氏族は、どんな動きをしているのですか?」と、聞いてきた。流石に、修羅場を生きてきたシュマリ女将ならではの質問である。いざとなれば、シュマリ女将に、遁甲に戻ってもらい、辰韓国に潜入してもらうしかない。そう心得ている 巨健伯父さんが「それは私からお話しましょう」と、シュマリ女将に向き合った。

≪巨健伯父さんが語る辰韓の情勢≫

 では、私は、おやじ殿の話しに出てこなかった、氏族の話からしましょう。辰韓国の原初にいた氏族は、李氏、鄭氏、 薛氏、崔氏、孫氏、裴氏の六氏族です。李氏は、おやじ殿の話しに出てきた楊山城邑の族長李閼平が始祖です。薛氏は、おやじ殿がピミファにその名を覚えておけといった薛虎珍の一族です。始祖は、明活山高耶城邑の族長薛居伯ですね。鄭氏とは、卵赫こと赫居世の育ての親となった、突山高墟城邑の族長蘇伐都利を始祖とする氏族です。この三氏族は、既におやじ殿の話しに出てきた氏族ですが、崔氏、孫氏、裵氏は、まだ話に出てきていません。だから、今から、この三氏族について掻い摘んでお話します。

 まず、崔氏は、觜山珍支城邑を拠点とする一族です。中華では、太公望・呂尚の息子丁公を、祖とする氏族だ。と、言われているようですが、辰韓国の崔氏が、それに繋がるのかは、分かりません。それよりも面白いのは、始祖は、東胡族の一種である、匈奴の出だと言われています。漢王朝の武帝の時代に、金日磾と云う有能な大臣がいたそうです。金日磾は、匈奴の族長の息子でしたが、何らかの事情で、漢の武帝に使えます。武帝は、この男の有能さを認め、金姓を与えたそうです。匈奴の男に、漢性を与えたのですから、よほど有能だったのでしょう。その金日磾と、崔氏の始祖が、どう繋がるのかは良く分かっていません。金日磾は、中華で没しますので、その弟か、息子が、崔氏の始祖かも知れません。更には、卵赫こと赫居世の王妃、李閼英の実母である霍娑蘇様は、崔氏の一族を頼って、中華から、辰韓国に、落ち延びてきたのだとも言われています。霍氏と、金日磾は、縁が深いので、信憑性が高い話です。

 そして、金閼智の息子の金星漢は確かに「自分は、ジンリーダンの末裔だ」と、言っておったそうです。金閼智の妃は、崔氏の娘月漢です。ですから、崔氏は、本来金氏だったようです。したがって、崔氏は、今でも金氏の一派だと見て間違いありません。今の当主は、 崔月星と言います。そして、阿摩王子の教育係をしています。奈礼王妃の信頼を、最も得ている臣下です。

 孫氏と云うのは、どうやら、太公望・呂尚が建てた斉国から流れてきたようです。斉国は、ある頃、太公望・呂尚の末裔から、田家の先祖が、その王位を奪いました。それを田斉と呼びます。ですから、太公望・呂尚の息子丁公の末裔かも知れない崔氏とは、微妙な関係です。その田斉人の中に、孫子と云う名軍師がいました。古来より戦人は、みなこの人の兵法書を学んでいます。その孫子に繋がるのが、孫氏の一族のようです。そのようないきさつから、孫氏は、田家との繋がりも強いようです。横爺なら、更に詳しい関係を語ってくれることでしょう。それに、実は、我が秦家も、秦王朝が滅んだ時に、田斉の浜から、孫氏を頼って、馬韓国に逃げて来たのです。したがって、孫氏、薛氏は、田家との縁も深く、田家の血を引く儒理を、庇護してくれそうです。

 裵氏は、今から千年ほど前に、周王朝に仕えていた非子に端を発するようです。非子は、我が秦家の遠祖でも有ります。非子は、西国人ですから、沙羅隈親方のような、容姿だったようです。そして、馬の扱いが巧みでした。そこで、周王朝の戦車隊を、強化しました。そのことが認められ、周王朝から、中華の西に秦国を与えられました。その秦国を、母体に秦王朝は、誕生します。裵氏の一族には、学者肌の人が多いようです。歴代、文官を多く輩出してきたようです。だから、気位も高い人が多いようです。

 そのことが災いして、今から六十年程前に、大騒動が勃発したそうです。切っ掛けは、音汁伐国と、悉直谷国の、境界線争いでした。両国は、その調停を、朴奈老大将の父である、婆娑王に願い出ました。しかし、婆娑王は、判断に迷いました。公平性という視点から見れば、音汁伐国に、理がありましたが、悉直谷国は、須佐能王と、縁が深い土地柄です。ですから、悉直谷国の背後には、須佐能王の末裔である倭国の影が見え隠れしていました。当時の倭国王は、臼王のお爺様である升王でした。升王は、穏健派でしたが無視はできない存在です。

 そこで、婆娑王は、弁韓国の二代目首露王金千富に相談しました。歳は金千富より婆娑王の方が八歳年上でしたが、二人は親友だったのです。それに丁度、金千富は、倭国の室巳に可愛がられて育った、三代目首露王金清疾を、伊美国より呼び戻していました。そこで二人は、金清疾に、調停役を任せることにしました。金清疾の調停なら、倭国も口を挟んでこないだろうという腹づもりでした。そして、若い金清疾は、理のある音汁伐国の方に、領土権があると差配しました。思惑どおり、金清疾の調停に、倭国は口を挟んでは来ませんでした。喜んだ婆娑王は、早速六氏族の長に命じて、金清疾を称える宴を開かせました。

 李氏、鄭氏、薛氏、孫氏、崔氏の五氏族は、当主自らが、金清疾に額ずき彼の英断を称えました。しかし、裵氏は、老いた家宰を出席させました。しかも、その家宰はろくに金清疾に挨拶もしませんでした。それどころか、金蛭子とあだ名されるような、金清疾の醜い容姿に侮蔑の視線を投げかけたのです。

 この事態に、二代目首露王金千富は、激怒しました。そして、奴僕に命じて、裵氏の当主裵祇利を殺させると、憤慨したまま帰国しました。奴僕に当主を殺された裵氏は、怒りに燃え、まずは、その奴僕を殺そうとしました。しかし、奴僕は、音汁伐国に逃げ込みました。実は音汁伐国の裏には、金閼智がいたのです。何故なら、音汁伐国と、悉直谷国の境界線争いには、倭国と、金閼智の戦いが潜んでいたのです。須佐能王と、卵赫の戦いはまだ尾を引いていたのです。

 そして、悉直谷国の裏には、婆娑王の兄朴逸聖がいました。つまりこの境界線争いは、朴逸聖と、金閼智の党派闘争だったのです。先ほどおやじ殿が言った『第二次辰韓内乱』の始まりです。婆娑王は、陽気で穏健な王でしたが、裵氏の当主裵祇利殺害犯を、音汁伐国が、匿い続けるので、やむなく兵を向けました。もちろん、兄の朴逸聖からの圧力が大きかったのです。これをきっかけに、朴氏本家と、秦家のきずなが生まれました。その為、今でも秦家は、阿逹羅王を支えています。

 裵氏の今の当主は、裵非子と言います。以上のようないきさつがありますから、裵非子は、間違いなく儒理を、庇護するでしょう。むしろ、儒理を、阿摩王子擁立の掣肱策として担ぎ出したのは、裵非子かも知れません。裵非子は、金氏に深い恨みが有りますからね。

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 と、巨健伯父さんは、話を終えた。私は、一気に、数百年の歴史を学ばされ、すっかり出来の悪い生徒になった気分になっていた。それでも、どうにか六氏族の存在と、対立構造の深さは、理解し始めた。しかし、策謀の世界に生きてきたシュマリ女将は、更に意をついた質問を、巨健伯父さんに投げかけた。「どうやら、鄭氏の動きが、事態を大きく変えそうですね。鄭氏のことが、もっと詳しくは分かりませんか?」そういうと、巨健伯父さんは大きく頷き「おっしゃる通りです。現状では、鄭氏の動向が、勢力図を変える可能性が高いと思います」と言った。すると「では、もう少し詳しく鄭氏と、李氏、薛氏の話をしておこうかのう」と、再び亀爺が話を始めた。

≪亀爺が語る辰韓国の昔話≫ その2

 まず、李氏じゃが、先ほども言ったように、李氏は、辰韓国の中では宗家のような存在じゃ。じゃから、常に中道に立ち、もめごとを収めてきた。李氏は、常に、天の道に生き、徳あるものを尊んだ。じゃっで、過度な欲に溺れ、権力に頼ることを戒めてきた。それは、李氏の血を引く、朴奈老様や朴華老様にも通じておる。そして、今は、朴延烏様の生き様が、そうあるようじゃ。李氏の今の当主は、閼丹と言い、華老様の学友じゃった。だから、もう、五十路になられたであろう。阿逹羅王より二歳年上だということもあって、阿逹羅王は、李閼丹の存在を、心の拠り所にされておるようじゃ。だから、このお二人が健在なうちは、大きな内乱は起こるまい。奈老の反乱は、お二人の心を痛ませ続けておる。

 薛氏は、古朝鮮の王族の血を引く、瓠公を庇護して来た氏族だとは、先に話したよのう。そして、瓠公は、ピミファの遠祖である卵赫の、実の父であったとも、話したよのう。つまり、朴氏は、古朝鮮の、箕氏に繋がる訳じゃよのう。ここまでは、何とのうピミファにも分かるよのう。

 じゃで、次は少し、瓠公の一族箕氏の話を、しておこうかのう。箕氏は、辰韓国や、馬韓国の歴史を語る時欠かせん存在なのじゃ。表面では活躍はせんが、味噌汁の出汁のような存在でのう。出汁が旨くなくては、味噌汁の味が定まらんように、箕氏の存在が無くては、半島の歴史の美味なところが分らんでなぁ。では、話そうかのう。良いかピミファや。よ~聞いとれよ。なかなか込み入った話じゃでなぁ~。

 卵赫の実の父、箕恣の一族箕氏は、古朝鮮の王族で、元はピミファのご先祖と同じように、中華の商王朝から出た連中であるとも先っき言ったようのう。商王朝の最後の王は、紂という人だったが、随分と、傍若無人な振る舞いが目につく人だったらしい。そして、箕氏の祖箕子は、この王の叔父であった。箕子は、甥の紂王に何度も王道を説いたらしいが、その為、紂王に疎まれ、身の危険さえ出てきたようじゃ。やがて、箕子が危惧したように、紂王は、革命によって倒された。

 天命を失った紂王にとって代わったのは、周王朝初代の発という王じゃった。後に周の武王と呼ばれる人じゃ。発王は、箕子に王道の教えを問い、箕子を敬った。そして、箕子を、自らの足元にひれ伏させることなく自由を保障した。そこで、箕子は、一族を伴い、古朝鮮の地に向かいここに国を建てた。古朝鮮の地には、夏王朝からの棄民や、濊貊。それに、海岸線沿いには、海人である倭人達が暮らしていたが、箕子の商業・農業の才が、国を豊かにしたので、喜んでこれに従った。

 嗚呼、棄民というのは国から捨てられた民のことじゃ。国敗れた亡民は、ひと財産を抱えて逃げるので、貧しくはないが、棄民は貧民なのじゃ。まぁ濊貊の地から流れてきた民も、同じように貧民じゃから、箕子が、豊かな国を造り、その国の民に成れるのは、喜ばしいことだったのさ。そこで民は、箕子の教えを素直に聞き入れ、とても礼儀正しい国と成ったようじゃ。

 しかし、その礼節の国も、千年程の時を経て、秦王朝の亡民達によって奪われた。この漢族の亡民を率いていたのは、満という男じゃ。しかし、この満の国も、百年程経ち、漢王朝によって滅ぼされた。そしてそこに、漢王朝は楽浪郡を置いた。

 満が率いる漢族に国を奪われた箕氏の一族は、馬韓国に逃れ、亡国の王箕準は、馬韓国で王になったという話は、先っき聞かせたようのう。箕準の次男箕胡蘆は「狡兎三窟の故事」に由って、辰韓国に渡り、瓠公を屋号とした。と、いうところまでが先っき話したところじゃが、その七代目の瓠公箕恣が、卵赫の実父よの。そして、卵赫が、ピミファの父系の始祖赫居世じゃから、ピミファは、瓠公の子孫でもある訳じゃ。その八代目の瓠公は、箕萬という名じゃが、赫居世の異母弟じゃから、赫居世を支えた辰韓国の重臣だった。ある年に、箕萬は、異父兄赫居世の命で、馬韓国に赴いた。すると、馬韓国王は「ジンハンは、マハンからその土地を与えられたのに、何故、貢物を贈ってこなくなったのか」と、責めたそうじゃ。じゃから、八代目瓠公の箕萬は「今、ジンハンの地は、天命により、アルヒョク王が、国を建てられました。そこで立国のご挨拶と、国交を開きたい旨を、お伝えに伺いました」と、馬韓国王を真正面から見据えて答えたそうじゃ。

 まぁ、箕萬も、初代馬韓国王箕準の末裔やからのう。分家とは言え臆することはないという態度じゃったのだろうのう。じゃっで、馬韓国王は「勝手に国を建てるなど許さん!!    この無礼者が!!」と激怒し、箕萬の首を刎ねようとした。しかし、重臣の一人が、「アルヒョク王は、初代マハン国王キジュンの末裔であり、ホゴンは、キ氏一族の隠れたもう一つの家です」と、馬韓国王の怒りを諌めたそうじゃ。そこで、馬韓国王も、溜飲を下げ、箕萬の無礼を許し、国交も開いたそうじゃ。

 その馬韓国王は、箕貞という名じゃが、この話から三年後に、箕貞は、東胡族の、温祚という男に、国を奪われることになるのじゃ。そして、温祚に、国を奪われた箕貞の一族は、辰韓国の瓠公の元に、落ち延びることになったそうじゃ。「狡兎三窟の故事」が、役に立った訳じゃのう。

 箕貞の長男は、箕学というて、この年には、三十八歳の男盛りだったそうじゃ。そこで、八代目瓠公の箕萬は、十八歳になった長女の雪炫を、亡国王箕学の妃にした。そして、九代目瓠公の箕徊が生まれた。つまり、箕氏の本家と、分家が再び一つになった訳じゃ。そして、瓠公の一族は、ますます辰韓国に欠かせない存在になったのじゃ。

 十一代目の瓠公箕望は、瓢の重臣だった。瓢とは、辰韓国の四代目王脱解尼師今のことじゃな。その脱解尼師今に、息子阿具仁の情報をもたらし、孫の金閼智を、辰韓国に呼び寄せるように進言したのは、この十一代目の箕望じゃ。

 金閼智の後見人になった箕望は、 崔氏の娘月漢を、金閼智の妻に迎えると、金氏を起こさせた。じゃから、瓠公は、金氏の黒幕とも言えようのう。今の瓠公は、十四代目の箕亮という男じゃ。阿逹羅王の信認も、厚いようじゃ。じゃが、箕亮が、儒理と、阿摩王子の存在を、どうとらえているかはよう分らん。しかし、ワシの予見では、この箕亮が、儒理と、阿摩王子の命運を握っているように思えるのじゃ。ただし、箕亮殿は、もう六十八歳になられたそうじゃから、ワシらが気を配っておくのは、十五代目の瓠公になるだろう箕敦の方じゃろのう。箕敦は、ピミファより七歳年上のようじゃから、まだ若い。しかし、なかなか頭の切れる男のようじゃ。じゃで、要注意人物なのは間違いないぞ。

 さて、次はいよいよ、シュマリ女将が、目をつけた鄭氏の話をしようかのう。先っき巨健が「チョン氏は、アルヒョクの育ての親であるソボルトリが始祖だ」と言ったが、もう少し詳しく話すと、鄭氏の源流は、蘇伐都利の妻、つまり卵赫の養母の方にあるのじゃ。蘇伐都利自身は、蘇氏の男なのじゃ。蘇氏とは、秦王朝の太子であった扶蘇という人の末裔らしい。扶蘇は、とても優れた人で、扶蘇が秦王朝の二代目の皇帝に成っていれば、秦王朝は滅ばずにすんだのではないかとも言われておるようじゃ。しかし、残念なことに、扶蘇は、陰謀に倒されその一族は、やはり海を渡り東に逃れた。

 その中のある者達が、辰韓国にも住み着いたようじゃ。その一族の長が、蘇伐都利なのじゃ。蘇伐都利の妻は、鄭夏姫という名で、この夏姫の先祖が、鄭氏じゃ。蘇伐都利と、夏姫の間には、蘇夏菜という娘がいたが、跡取り息子には恵まれなんだ。卵赫が降臨したのは、夏菜が四歳の時だ。だから、夏菜は、実の弟のように卵赫を可愛がっていたようじゃ。ある程度大きくなった卵赫は、蘇伐都利と、夏姫は、実の親ではないと聞かされたが、夏菜のことは、死ぬまで実の姉だと思っていたそうじゃ。

 もちろん、夏姫は、実の子以上に卵赫を愛で育てた。だから、夏姫が早世した時には、王としての体面も忘れ、狂ったように泣き叫ぶ卵赫の姿が有ったらしい。実の母を知らず、愛で育ててくれた養母も亡くした卵赫の悲しみは、いかほどにも測りがたいだろうのう。

 それから程なくして、卵赫は………いやいや、ここからは、初代王赫居世と呼ぼうかのう。王に成った卵赫は、朴氏を起こし赫居世と、呼ばれていたでなぁ。ピミファも、その呼び方の方が馴染み深かろうでな。

 愛おしい養母の夏姫が早世して程なく。赫居世は、卯佐美という娘を、倭国から呼び寄せ、養父蘇伐都利の後妻にした。卯佐美は、倭国の高木の神の信徒じゃった。先っき話したように、赫居世の実母である大伽耶山の巫女女王は、高木の神のおひとりじゃでな。赫居世とも縁が深い訳じゃ。そして、嬉しいことに翌年、卯佐美は男の子を産んだ。蘇氏の跡取りじゃなぁ。父の蘇伐都利は、五十路過ぎの子なので嬉しさよりも、照れの方が大きかったようじゃ。しかし、若い赫居世は、わが子の誕生のように喜んだそうじゃ。

 その男の子は、蘇赫という名じゃ。赫居世が、己が一字を取って自ら名づけたのじゃ。じゃで、蘇赫は、まるで皇太子のような扱いだったようだのう。しかし、あまりにも周りが甘やかして育てたものだから、蘇赫は早熟なお坊っちゃまに成ってしまったようじゃ。十八歳に成った時に、息子を儲けてしまった。相手は、悉直谷国の族長の娘で、蘇赫より七歳ほど年上だったようじゃ。それはそれは、美しい娘であったらしいが、大伽耶山の神に仕えたいといって独り身を通していたらしい。それなのに、蘇赫が、半ば強引に夜這いをかけたのじゃなぁ。悉直谷国の族長も怒ったが、それ以上に、蘇伐都利の怒りは大きかったようじゃ。

 蘇伐都利としては、六氏族の内のいずれからか嫁を迎えたかったようじゃなぁ。いずれ、蘇赫は、赫居世を支える重臣に成る身である。その為、正妻は、六氏族の中から選びたかったのじゃよ。生まれた蘇氏の三代目は蘇始母里と名付けられた。そして母の許、悉直谷国で育った。それが、我が秦家の始祖磯猛の父じゃ。だから、須佐能王の父でもあるがのう。

 悉直谷国というのは、巨健の話に出てきた裵氏との因縁の国じゃ。辰韓国の北の外れに在って、その北は濊貊の勢力圏じゃ。じゃから、悉直谷国は、濊貊の出入りも多い。毛皮や獣の肉等を交易しに来ているのじゃ。蘇始母里は、名家である蘇氏の跡取りでは有るが微妙な立場だった。何しろ、当主の蘇伐都利が認めていない子なのじゃからなぁ。

 蘇伐都利は、蘇始母里の従兄に当たるもう一人の孫、伐貊の方を跡取りにしようと考えていたようじゃ。伐貊は、赫居世が、実の姉と思い慕う蘇夏菜の息子だった。伐貊は、蘇始母里より二歳若かったが、その才は、蘇始母里にも劣らなかった。そこで、伐貊擁立派は「ソシモリは、ウェイムォと通じ、ジンハン国を、攻め取ろうとしている」と、いう噂を流した。

 始めその噂に、赫居世は否定的だった。しかし、執拗な姉夏菜からの働きかけに、腰を挙げぬ訳にはいかなくなった。そこで、伐貊に兵をつけて、蘇始母里の元へ向かわせた。しかし、赫居世には、蘇始母里を、討伐する気はなかった。我が一字を与え可愛がっていた蘇赫の息子である。都に、蘇始母里を呼び寄せ、真相を問いただしたら、不問に処す心づもりだったようじゃ。

 じゃが、伐貊は、蘇始母里を切り捨てると、赫居世には「噂通り、逆心を抱いていたので討伐してきました」と報告した。赫居世は、激怒し、伐貊を国外追放した。しかし、この騒動の心労が祟って、翌年三月に初代王赫居世は崩御した。

 蘇夏菜は、甥の南解王に働きかけ、伐貊の追放を解かせ復職させた。そして、伐貊を、蘇氏の当主に座らせた。しかし、伐貊は、逆族蘇氏を名乗ることを止め、祖母の鄭氏を名乗ることにした。それが鄭氏の始まりじゃ。今の当主は、鄭倭僑というようじゃ。どうやら、鄭倭僑は、倭国で育ったようじゃ。歳は阿逹羅王より一歳上のようじゃ。

 倭国育ちなので、阿逹羅王も、何かと心許せる関係のようじゃ。わが一族の宿敵、鄭伐貊からは、五代目の当主に当たるようじゃのう。じゃで、鄭氏の思惑は、良う掴めんのじゃ。すまんのう。ワシの知る所はここまでじゃ。

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 と、少し疲れた様子で亀爺の話は終わった。

 嗚呼、じれったい じれったい 月のカエルは 雲隠れしてしまった。ギッギッギッギギギギと鳴き声でも聞かせてくれれば良いものを、あまりにも遠くてそれも叶わない。やはり、シュマリ(狐)女将に遁甲働きを頼むしかなさそうだ。女将なら、きっと兎の尻尾を掴んでくれることだろう。嗚呼、じれったい じれったい。

⇒ 卑弥呼 奇想伝 第1巻《女王国》『第10部 ~三海の海賊王~』へ続く

卑弥呼 奇想伝 公開日
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