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昭和四〇年代の世相 〜 私の良き時代・昭和!(その29)

森田 力

昭和31年 福岡県大牟田市生まれで大阪育ち。
平成29年 61歳で水産団体事務長を退職。
平成5年 産経新聞、私の正論(テーマ 皇太子殿下ご成婚に思う)で入選
平成22年 魚食普及功績者賞受賞(大日本水産会)
趣 味  読書、音楽鑑賞、ピアノ演奏、食文化探究、歴史・文化探究

昭和四〇年代の世相 〜 私の良き時代・昭和!(その29)

ベトナム戦争

 中学から高校時代(昭和四〇年代の後半)は世の中が大きく変化する時代であった。ソ連が支援する北ベトナムと、アメリカが支援する南ベトナムとの戦争は長期化し、泥沼の状況であった。

  本格的にアメリカが北爆し始めたのが昭和三九年からであった。北ベトナムがアメリカの駆逐艦に攻撃した「トンキン湾事件」、これが起因となりアメリカが本格的に軍事介入を始めた。しかし米兵士の戦死者数が増える一方で、あまり成果もなく泥沼化したこと、また昭和四三年一月三一日には北ベトナムの大規模なテト(ベトナムの正月休日、サイゴンのアメリカ大使館も占拠された)攻勢により大打撃を被ると米国内でも反戦ムードは一挙に盛り上がり、同四八年一月には和平のためのパリ協定に調印し米軍は撤退、同五〇年四月三〇日、南ベトナムのサイゴンが陥落し北が勝利して戦争は終結した。

 アメリカにとってベトナムの敗戦はその後、大きな負の遺産として後遺症を抱えることとなった。

 この戦争は冷戦時代を背景とした共産主義と資本主義の代理戦争ともいわれている。

 そんななか「人類の進歩と調和」をテーマとする、当時の世界の現状とは相矛盾するテーマで大阪万博が開催されたのである。当時日本は自由主義社会に属していたし、沖縄の嘉手納(かでな)基地からは多くの爆撃機が出撃し、日本もこの戦争特需で経済成長することとなった。しかし日本国民にしてみれば東南アジアでの戦争は遠い国の出来事であり一部では反戦運動もあったが、総体的には単なる傍観者であったといえる。この博覧会は裏を返せば人類の進歩についての皮肉めいたメッセージが詰まった博覧会ともいえる。

 昭和四五年ごろは、万博開催を機に経済や思想が大きく変化する時代でもあった。

 暗い事件としてはこの年の三月末に、日本で最初のハイジャック事件が起こった。日航よど号が共産主義赤軍派のメンバーにハイジャックされた事件である。解決までの四~五日間、連日テレビで放送された。その後も共産系左派によるテロ事件が相次いだ。

三島由紀夫の事件と文学

 同四五年一一月二五日には、作家の三島由紀夫が東京市谷(いちがや)の陸上自衛隊東部方面総監部で総監を監禁して縛り上げ、幹部八名を日本刀関孫六で切り付けて負傷させ、自衛隊員にクーデターを呼びかけた事件が起こった。三島はバルコニーに立ち集まった隊員に「憲法改正のために決起せよ。自分たちを否定する憲法を何故守るのか。武士なら立ち上がれ。でなければ永久に救われないぞ」と呼びかけたが、野次と罵声の中、賛同者はおらず三島は一〇分ほどで切り上げ、森田必勝(まさかつ)(「楯の会」学生長。二五歳)とともに皇居に向かって万歳と拝礼をした後、総監室に戻った。そして総監室で、自ら割腹自殺したのである。三島の介錯は森田が実行したが、師への躊躇(ためら)いもあり二太刀でも首を斬り落とせなかった。そばにいた古賀(こが)(ひろ)(やす)(「楯の会」第五副班長。二三歳)が一太刀与え首の皮一枚残した。その皮一枚を、三島が割腹した短刀で小賀正(こがまさ)(よし)(楯の会第五班長 精鋭の決死隊メンバーで三島より日本刀を受けている。二二歳)が胴体から斬り離したのである。森田も同様に割腹し古賀が一太刀で介錯した。

 私にとってこの事件は衝撃的で、新聞にも大きく掲載された。勿論、三島の生首もである。その後、特別発刊された雑誌を購入した。三島の演説が納められたソノシートや、三島の首が置かれた総監室の写真などが掲載されていた。その行動は理解しがたいもので何かに憑依されたとしか思えないような事件であった。

 三島自身が己の世界観(自分だけの美と正義)しか愛することのできない自己陶酔型であるがゆえに、現実が見えなくなっていたのではないかとする意見もある。「決起すれば自衛隊の中に必ず我に賛同する者がいる」と高を括り、丸腰の益田総監を威嚇して縛り上げ、総監の部下に制止されると逆上して日本刀で斬りつけ、その後バルコニーに出て隊員約一〇〇〇名(普通科連隊の精鋭部隊九〇〇名の野武士集団は、富士演習場に出ており不在であった。集まったのは後方部隊の通信、資材補給などの隊員等であったという)の前で決起を叫ぶが、自衛隊員の心には響かず、全く相手にしてもらえず、非難と罵声の嵐が飛び交うなか演説は掻き消された。諦めた三島は二時間予定していた演説を一〇分足らずで切り上げる。

 もはや万事休す、決起が不発に終った三島としては後へは退(ひ)けず、追い詰められて割腹するしかなかった。三島は決行の前に「死の決意」をほのめかしているが、本当に命を捨てる覚悟であるなら、そう簡単に死を言いふらすことはない。よって己の決起は何らかの勝算を生むと見越して自衛隊に押し入ったというしかない。この決起に同調するものがあれば、自分は死ぬことはないと当初は思っていたに違いない。自分しか愛せない三島が信じたのは自分の想像する独りよがりな自衛隊であり天皇像であった。つまり実在のそれではなかったといえる。政治至上主義の病魔に取りつかれ政治に対する劣等意識(道徳や芸術より政治が上である)に(さいな)まれながら決起し割腹した三島の死は哀れとしか言いようがないが、同胞として情け深い思いやりで接するほかない。

 理由はともあれ八人を斬りつけた三島の行為は犯罪であり、法治国家では許されるものではない(文学者だからといって特別に許されるものではない)。しかし当時の文学者たちはこの壮絶な割腹自決に驚愕して、三島を英雄視してしまう。この自決から逆照射され三島自身とその作品が「知行合一」の視点から評価を受けることになる。だがこの三島が自決した意図を無理やり作品に求めようとするあまり、作品の本来の姿が見出せないでいるといってよい。

 松原正(故人、早稲田大学名誉教授)は『人間通になる読書術』(徳間書店)のなかで三島由紀夫の『憂国』について次のように記している。

『憂国』は「すこぶる猥褻」だと思う。あれはポルノである。理由を今は詳述しないが、例えば森鷗外が『津下四郎左衛門』を書いたとき、鷗外は津下にも津下が殺した横井小楠にもあやかりたいとおもっていたが、三島は『憂国』の主人公である青年将校とその妻に溺れきっている。鷗外は自分は津下でも横井でもなく、津下にも横井にもなりきれないことを重々承知して書いている。しかし三島は自分が青年将校になったつもりで陶酔して書いている。それゆえ、もしもロレンス(一八八五~一九三〇年。イギリスの小説家)が『憂国』を読んだなら、「これは自慰である。すこぶる猥褻である」と評するに違いない。

 と書き、その二年後(平成五年)に出版された『文学と政治主義』にはその理由が書かれている。

 武山中尉と妻麗子が激しく愛し合うことが猥褻ではない。終始二人が「精神的」に一体になっており、二人の間に距離が全く存在しないこと、これが猥褻なのである。

 ロレンスはエドガワ・ポウ(一八〇九~一八四九 アメリカの小説家)の描く純愛物語について二人の間には肉体を有する独立対等の人格は保たれていない。そういう関係はすこぶる猥褻であるとロレンスはいった。この主張は日本人には容易に理解されない(自我の認識が極端に脆弱稀薄であるから)だろう。

 二人の肉体は一つになることは決してない。そこで他者の心を知ろうとする。その後我々は完全に相手を知りえたと思い込んで、我々は他者を物体として扱う事となる。愛した女は単純ならざる一面を切り捨てられ、解明された物体(変化しない物体)とみなされる。人間を物と見做すことが道徳的である筈がない。ロレンスがいう猥褻とは「不道徳」ということである。それゆえ武山中尉と麗子の精神的合一は猥褻であり不道徳なのである。

 我々は決して他者と合一できない肉体を持っており、他者をいくら愛していようと、我々は他者の肉体的苦痛を自分の苦痛とすることは出来ないし、精神的苦痛も共有しきれない。だから、我々は他者を愛することの難しさを痛感するからこそ、他者を愛そうと努力するのである。

 我々は他者を愛せない。愛せないからこそ愛さねばならない。それが道徳的に生きるということだが、武山中尉と麗子にはそういった葛藤は微塵もない。だから没道徳なのである。

 中尉と麗子は三島に覗かれているのである。二人は傀儡として作者三島に奉仕している。従って二人は一体にならざるを得ない。二人が独立した人格を持たないことも不道徳だが、二人を傀儡として自己に奉仕せしむる三島はより一層不道徳なのである。

 『憂国』には三島由紀夫しか存在しない。要するに傀儡たる中尉と麗子を出しに使って自分を賛美しているのである。

 天皇についても彼が愛していた天皇は観念の中の天皇であり現実の天皇ではない。三島は昭和天皇の「人間宣言」は許せなかった。しかし距離があり意のままにならない現実の天皇とは違い、「文化概念としての天皇」は三島の傀儡であり、愛することができたし、中尉と麗子と同様、好きなように料理することが出来たのである。三島にとって実在の天皇よりも自分の「観念の中の天皇」の方がはるかに大事であった。ようするに三島は自己だけを愛して他者を愛さなかったということに他ならない。

『憂国』には「死にいたらずにはやまない」志はない、と松原正は分析している。

 私もこの自決と作品を切離して冷静沈着かつ客観的に作品を見る必要があると思う。

 その後購入した雑誌とソノシートは処分した。三島は四五歳の若さでこの世を去った。当時の防衛大臣は中曽根康弘、総理大臣は佐藤栄作であったと思う。

 また三島の師であるノーベル賞を受賞した川端康成は昭和四六年一月に築地本願寺で行われた三島の葬儀委員等を務めたが、その後、川端は文学者仲間である志賀直哉を始めとした周辺の作家の相次ぐ死に接し、また身内の急逝など度重なる不孝にも遭遇し、つらい日々を送っていたようだ。翌年四月一六日、川端はガス自殺を図り死去する。享年七二歳であった。

 

ドルショック

 経済発展の最中で思想も多様化していたころで、何をやっても熱中できない若者が多く、「しらけた時代」と形容されたこともある。

 昭和四六年八月一五日にはドルショック(ニクソンショック)が起きた。戦後世界の政治と経済を牽引してきた米国は、冷戦時の軍事費やベトナム戦争の戦費拡大などによる財政赤字を生じさせていた。また、戦後復興を成し遂げ急成長した西欧や日本の対米輸出の拡大が昭和三五年頃から始まった。それが原因で貿易収支の赤字が増大し、ドルが海外へ流出するようになった。

■戦後ドルが世界の基軸通貨であり、金一オンスが三五ドルで兌換され、固定相場制(当時日本は一ドルが三六〇円であった)をとっていた。しかし米国の経済が行き詰まると、ドルの価値が下落、各国はリスク回避でドルを金に兌換し始めたことから米国の金保有量が縮小し、金価格が高騰する。

■ドルの下落が続きドル危機となったことから、ニクソンはドル防衛のために他国には一切の相談もなしに突然、金とドルの兌換停止と米国国内企業を守る観点から一〇%の輸入課徴金を課すことを発表する。戦後の体制(自由貿易と経済発展のため米国主導でIMF、GATT、世界銀行を基軸として調印したブレトンウッズ体制)を米国自ら壊すことになった。

 昭和四六年一二月、これを受けて先進諸国は米国経済を救済すべくスミソニアン博物館で会議を開き「ドル切り下げ」を決定(スミソニアン協定)、一ドル三六〇円が三〇八円となった。しかし海外に流出していた保証力のないドルの信頼性は低下、各国は国際経済安定化に向け、昭和四八年には変動相場制へと移行したのであった。

 その後三極構造(米国、欧州、日本の三経済圏)となる中でドル高傾向が続いたため、昭和六〇年レーガン大統領はニューヨークのプラザホテルで先進国の蔵相らを集め、「ドル安円高」路線へ協調することを要求し各国の同意を得る(プラザ合意)。この会議で一ドル二四〇円が二〇〇円となった。昭和六三年には一二〇円となり、日本はバブル経済へと移行するのである(円の最高値は平成二三年一〇月に記録した七五円五四銭とされている)。

連合赤軍、横井正一

 同四七年二月、冬の寒い頃、軽井沢・浅間山荘で連合赤軍五人が人質をとって立て籠もる事件が起き、犯人と警察との戦いは一〇日間続いた。人質の救出に難航するも最終的には警察の強行突入により解決した。

 この事件報道もリアルタイムで放送された。これを機に赤軍派の起こした残虐非道な所業が明らかにされたのである。

 その年の五月には沖縄が二七年ぶりに日本へ返還され、九月には日中国交正常化が実現した。

 前後するが昭和四七年一月にはグアム島で横井庄一さんが二八年ぶりに発見され帰国した。飛行機のタラップから日本の地に降り立った時の「恥ずかしながら帰ってまいりました」という発言は、横井氏の時間軸が三〇年間止まったままであったことを示しており、同胞として強く印象に残っている。一週間ジャングルで訓練するとしても私には到底サバイバルはできないだろう。中毒を起こし下痢をするか病気感染で発熱し体力を消耗し死んでいくのが落ちだろう。一口で三〇年というが想像を絶する時間である。横井さんは日々緊張の中で自然と同化し生きてきたので我々が感じる時間よりも速かったかもしれない。

 第一弾では恥ずかしいが筆者の高校時代までの出来事を語ってきた。うまく纏まっているとは到底思えない。一個人の生い立ち等どうでもよいことだが、ご批判を覚悟で昭和の懐かしい出来事として綴ってみた。

次編では人や書物の出会いを中心に語りたいと考えている。

最後に拙いながら、私の文化についての考えを記しておきたい。こうした考えが生じたのも、私が生きた時代と無縁ではないと思う。

私の良き時代・昭和! 【全31回】 公開日
(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 2019年6月28日
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 2019年7月17日
(その3)死への恐怖 2019年8月2日
(その4)長屋の生活 2019年9月6日
(その5)私の両親 2019年10月4日
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 2019年11月1日
(その7)小学校時代 2019年12月6日
(その8)兄との思い出 2020年1月10日
(その9)小学校高学年 2020年2月7日
(その10)東京オリンピックと高校野球 2020年3月6日
(その11)苦慮した夏休みの課題 2020年4月3日
(その12)六年生への憧れと児童会 2020年5月1日
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 2020年5月29日
(その14)少年時代の淡い憧れ 2020年6月30日
(その15)父が父兄参観に出席 2020年7月31日
(その16)スポーツ大会と学芸会 2020年8月31日
(その17)現地を訪れ思い出に浸る 2020年9月30日
(その18)父の会社が倒産、広島県福山市へ 2020年10月30日
(その19)父の愛情と兄の友達 2020年11月30日
(その20)名古屋の中学校へ転校 2020年12月28日
(その21)大阪へ引っ越し 2021年1月29日
(その22)新しい中学での学校生活 2021年2月26日
(その23)流行った「ばび語会話」 2021年3月31日
(その24)万国博覧会 2021年4月30日
(その25)新校舎での生活 2021年5月28日
(その26)日本列島改造論と高校進学 2021年6月30日
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 2021年7月30日
(その28)社会見学や文化祭など 2021年8月31日
(その29)昭和四〇年代の世相 2021年9月30日
(その30)日本の文化について 2021年10月29日
(その31)おわりに 2021年11月30日