著者プロフィール                

       
小学校時代 〜 私の良き時代・昭和!(その7)

森田 力

昭和31年 福岡県大牟田市生まれで大阪育ち。
平成29年 61歳で水産団体事務長を退職。
平成5年 産経新聞、私の正論(テーマ 皇太子殿下ご成婚に思う)で入選
平成22年 魚食普及功績者賞受賞(大日本水産会)
趣 味  読書、音楽鑑賞、ピアノ演奏、食文化探究、歴史・文化探究

小学校時代 〜 私の良き時代・昭和!(その7)

小学校時代

昭和三八年市内のT小学校へ入学した。

入学した子供たちは公立幼稚園の子が大半で、友達はいなかったといってもよい。また、九州訛りも完全には抜けていなかったので、みんなから「変な言葉を話してる」とよくからかわれた。しかし、一年生の勉強の方はあまりにも簡単すぎてびっくりした。通っていた幼稚園で習っていた内容の方が難しかったのだ。日常は当たり前のことをしていただけのことであったが、これだけの差を生じていたとは。母に感謝である。

私の成績を見てからというもの、みんなからかわなくなり、向こうから友達になろうといって近づいてきてくれた。勉強ができるというのは大きな武器になると子供心に感じたものだ。

小学校二~三年の頃、この商店街出身の同級生が数人いた。中でも頭のよい文房具屋のY君はいつも最新の文房具を持っていた。そのころ見たこともないシャープペンシルというものを、自慢そうに見せびらかすのだった。見れば見るほどそれが無性に欲しくなるからたまらない。お正月のお年玉をもらうなり店に走った。しかし、店は休みで開いているはずもない。この時代は欲しいものは店まで足を運んで直接取引きすることしかできなかった。情報はテレビからの一方通行であり,個人の欲求形成もテレビの影響が大きかった。私が小学校低学年頃には、東京オリンピック景気もあり、新三C(クーラー、カラーテレビ、カー)といわれる三種の神器が、経済発展と豊かさの象徴とされ、誰もが躊躇することなく磁石に引きつけられるように群がったのである。このように時代は大量生産、大量消費の時代である工業化社会へと突き進み、個人の欲求が成熟し多様化するまで続いて行くのである。

一九五〇年後半から六〇年代はSNSやカタログ通販、ネットショップでの購入などあり得ない時代である。欲しいものは自分の足で見つけるしかなかった。

文房具屋を数軒回りやっとの思いで買ったのだが、新学期になり授業が始まってびっくりした。何とほとんどみんながシャープペンシルを持っているではないか。これを見たとたんに愛着と欲求が遠のいてしまった。「折角買ったのに……」と。もっと自分に合った他の文具を買えばよかった。

子供の世界では珍しいものを持つからこそ価値が生まれ自慢することができるが、その思いが一瞬にして潰えた瞬間となった。しかし、みなそれぞれ個性に合ったシャープペンシルを選んでおり、その後はみなで機能比べへと発展させていった。それこそ、靴、下敷きや筆箱、消しゴムなど、新製品には敏感な子供時代であった。しかし、今も感じることだが、やはり鉛筆には温かみがあってよい。使えば芯は減る。減れば鉛筆削りで削る。当時はナイフで削っていたがそこには鉛筆への感謝と愛着の狭間のなかで、無心に物と対峙できる時間があり、それは無駄ではない。私にとっては大変貴重な時間だった。

友達のなかには最新のものは一切持たず古い筆箱にはきれいに削った短い鉛筆を所狭しと整列させている几帳面な女の子がいた。流行に左右されることのない素朴で清楚な子だからこそ考え方もしっかりしていて勉強もよくできた。

私は小児ぜんそくをもっており、かかりつけ医は商店街からほど近い幼稚園横の小林診療所・院長の小林先生だった。威厳のある先生であるが、やさしく、医者らしく母も絶大な信頼を寄せていた。小学校二~三年のときに大病を患い、この医院で助けていただいた。小林先生は私の中では名医であり、憧れでもあった。私は抗生剤の多用のため完治後、膝の裏に後遺症と思われる皮膚炎を発症し四~五年は苦しめられた。

その間、半ズボンがはけなかった。いやはきたくなかった。膝をさらけ出すのがいやで旅行に行くのも苦痛であった。半ズボンでの参加となる運動会が近づいて来るたびに気分がめいった。痒みもおさまらず、何をやるにも集中できない。四六時中痒くて痒くてたまらないのである。かきむしったあとは、かさ蓋のようになり、一生付き合っていかなければならないものと思っていた。しかしその後、記憶にないほどいつの間にか自然に完治した。

この大病により、小学校三年生のときは、半年ぐらい運動ができなかった。大きい体で体育は常に見学、これもいやな体験であった。担任以外の教員から「大きくて、健康そうに見えるのにどうして見学しているの」、など毎回同じ質問をされ飽き飽きした。休憩時間にたまたま走り回っていたときも、「そんなに元気だったら体育にも参加しろ」といわれたこともあった。そういうこともあり、子供ながらに休憩時間も自重するようになった。

この当時のクラスにおける座席の決め方は成績順であった。一番前の右側(廊下側前の入り口付近)には一番出来の悪い生徒が座ることになっていた。成績が良くなるにつれて横に移動して座っていく。一番良くできる生徒は一番後ろに座ることになっている。私は病気で長期欠席していたのでこの一番前の指定席に座ることとなった。体が大きいので良く目立った。父兄参観の時などはとても恥ずかしくやりきれない思いがした。「○○君は頭が悪いんだ」と思われるのがいやだったので、私は猛烈に勉強をし、次学期には後席に座ったのはいうまでもない。

小さいころは体が大きい割には気管が弱く小児喘息も度々出ていたようだった。母もリウマチの症状があり、週に一~二回の割合で午前中に町医者の中内先生に往診をしてもらい血管注射を受けていた。聞くところによると、大家さんの娘さんが中内先生の息子さんに嫁いでおり、その関係でおじいちゃん先生が大家さんのおばあさんを往診していたらしい。大家さんの紹介で母も診(み)てもらうことになったのである。

勿論私も体調が悪いときには診察をしてもらい、先生に注射を打ってもらっていた。しかしその注射が恐怖であった。先生が高齢ということもあり血管注射を打つときに手が震えて上手く血管に入らない。血管を突き抜けたりして失敗することが多々あった。私が怯えていると先生は笑いながら「今日は調子がいいので失敗はしないから安心して手を出しなさい」というので手を出して目を瞑っていると「御免、もう一回」という声が聞こえる。先生は注射器をこねまわしているのか知らないが、痛くてたまらない。注射を打たれた周辺は青くなっていたのはいうまでもない。

母の注射は当時でも結構高価なものであったらしい。月末になると医院から母宛に請求書がくるが、おじいちゃん先生は毎回月初めに来ては、「医院には、おじいちゃん先生に払いました」といっておきなさいといって、請求書を破いてゴミ箱に捨てていたとのこと。つまり、先生は無料で母を診てくれていたのだ。

今の世知辛い時代に、このような医者の鑑というべき赤ひげ先生のような方がいるだろうか。当時は人の心や痛みがわかる義理と人情が通用する時代であった。

先生は家に来るたびに、父が大事にしている熱帯魚を見ながら、「これは凄いな、綺麗だ。実に素晴らしい、これは高い魚だな」といつも感心していたが、その都度、「魚なんかに現を抜かすより、貴金属かダイヤモンドでも買ったほうが絶対にいいぞ、と親父にいってやれ」といつも母に笑いながらいっておられたようだった。

母の病状の仔細はよく知らない。若い頃に結構苦労をして神経痛の症状が出ていたようだった。血流が悪いということも聞いた。母の痛がる姿を私は何度も目撃している。

家の土間にはガスコンロはなく当時は石油コンロを使用していた。

定期的に石油を近くのお米屋まで、空の一升ビンを提げてよく買いに行かされた。ぬるぬるとした瓶なので注意して持っているが、帰宅途中一升瓶が手から滑り落ち石油まみれになったこともある。こうなると落した石畳や体中が石油臭くて大変なことになる。洗剤で洗っても効果なしなのである。一升瓶は子供には少し重いし、またビンが石油で滑りやすいため、よく落とした。

我が屋には冷蔵庫もなかったので、しばらくして氷を入れて冷やす氷温庫を買った。毎日氷屋さんが氷を売りにきた。氷をノコギリで適当な大きさに切ってくれるのである。結構冷えるが氷が大きく、隙間がない。物を入れるスペースがないということもあり、あまり効率的ではなかったと記憶している。

この界隈はいろんな行商人がいろんなものを売りに来ていた。竿竹(さおだけ)売りの人が竿を担いで通路を歩いているところに鬼ごっこをしていた私が路地から出てきてその竿と鉢合わせとなったことがある。おでこに勢いよくぶつけてしまい気絶してしまった。びっくりしたのは竿竹の行商人である。友達も集まってきた。母も慌てて出てきてそのまま医院へ急行した。

でこには棹の円形がくっきりと刻まれ血が出ていたのである。近くの医院で額に包帯を幾重にもまかれた。母によると「額に第三の目のような傷ができたみたい」とのこと。傷が治っても一〇年以上傷跡はとれなかった。ぶつかったときは目から光が出たような感覚はしたがその後の記憶が飛んでおりあまり覚えてはいない。

六軒長屋の裏には大きな大家さん宅があり、そこの息子とよく遊んだ。

大きな屋敷に住んでいるというだけで、どこか垢抜けし、賢そうに見えるし、着用しているのも少し上等の服に見えるからおかしい。中学生のおねえちゃんも垢抜けした色白のお嬢様のように輝いて見えた。まさに上流階級である。

子供なりに、こんな大きな家に住んでみたいとの憧れも強く感じていた。実際何度となく大家宅に上がりこみ、遊んだ。

とにかく広い。天井も高く、夏は涼しい。奥の大広間でよくプロレスごっこなどをした。時には大の字で寝転がったものだ。自宅では狭くて横になって伸び等できるはずも無かった。しかしその境遇を悲観したことはあまりない。子供ながらに自分の境遇を冷静に見ていたのだろう。

この大家の前に四メートル幅の石畳直線道路が通っていたので、ドッジボール、缶蹴りや鬼ごっこなどをしてよく遊んだ。しかしこの道路には、シルバーメタリックの車が駐車していることがあり邪魔で仕方がなかった。「いすゞべレット一六〇〇GT二ドアハードトップ」だったと思う。この車に当てないようにと皆で注意するが、たまにドッジボールが車の屋根に跳ねようものなら、その音を聞きつけて所有者のお兄ちゃんが家から飛び出してきた。「誰が当てたんや。車に当てたらあかんぞ。こんな処で遊ばんと、学校で遊べ」と怒鳴るだけ怒鳴ってさっさと家の中に引っ込むというのが、いつものパターンであった。しかし、私たちはめげずにやり方を変えながら車に当たらないよう工夫して遊んだのであった。

でもこのべレットは頗るいい。私はこの車が大好きだった。とにかくかっこいい。スタイリング、特にルーフ前方から伸びているアンテナがまたいい。子供の私でも外車に見えたし、憧れの車であった。貧乏長屋の近くにこんなかっこいい車が停めてあるだけで誇らしく思えた。あのスタイリングは五〇年を過ぎた今でも強烈に私の心に残っている。

小学校の三~六年の頃だったか、国産メーカーのカードシリーズが大人気でお金があればつい買ってしまった。ガムに車のカードがついているのである。メーカーごとに指定車種を集め台紙に貼っていくのだが、どのメーカーも一枚だけ、出にくいカードがあった。カードを貼る台紙があり、なかなか出ないカード以外は全て貼ってある。ひとつのメーカーもクリアできなかった。周りの友達も同じであった。それだけ出ないカードは幻であった。

無理をして一日に三枚買っても同じ車のカードしか出ない場合もあった。駄菓子屋では一箱ずつしか開けてくれない。箱の下には何箱も積んであるが、箱の中身が売れてしまわないと開けてくれないのである。

店に行くたびに、おばちやんに「新しい箱を開けて」とねだった。同じ箱のものを買うと、決まって同じカードしか出ないのである。三枚買ってカローラばかりという場合もあった。そんな日はなけなしの小遣いを出したこともあって、一日がスッキリとしないブルーな気持ちであった。

手元には大衆車のカードばかりだった。中でも日産のフェアレディーZ、プリンスのスカイライン、トヨタの二000GT、ホンダのS八〇〇、三菱ではデボネアなどは最も出にくいカードであった。これも記憶があいまいで結局そろったことがないという記憶しかない。

しかし大家の息子は出にくいとされるこれらのカードを持っていた。彼から得意げに「見にこいよ」とさそわれたので屋敷に遊びに行き見せてもらった。カードの台紙には見たことの無い幻のカードがズラリと貼られていた。びっくりして目が点になった。私は見られたことだけで大変興奮した。

ある友達がカード一〇〇枚とトヨタ二〇〇〇GTと交換してくれと申し入れたが、けんもほろろに断られてしまった。それもそのはず、彼の部屋には、なんと手も付けていないガムのケースが何箱も置いてあった。さすがに金持ちだ。僕らのように一枚一枚チマチマと買うのではなく、箱買いをしていたのである。これなら当たるわけだ、カードだけを抜いて、ガムは食べずに放置してあった。無駄遣いもはなはだしい。金欲と物欲で当てたカードかと思った瞬間にあほらしくなった。当然帰りにはたくさんのガムとカスのカードを貰って帰ったことを覚えている。

家主の家の斜め角に駄菓子屋があり、よく十円玉をもって買いに行った。そこではアイスクリンやバナナバーアイスを買い、ゆっくりとかまずになめたものだ。しかしかたちがバナナなのでバランスを考えないとなめ方によっては直ぐ落ちてしまう。遊びながらなめてしまうので低学年の子はよく落とし、時に通路の石畳はバナナのアイスだらけとなってしまうこともあった。だが、あの当時のバナナバーの味を越えるバナナバーにこれまで出会ったことがない。本当にバナナ一本そのままの形であった。今もなつかしく思い出す。

サイダー味のアイスは二本のバーとなっており、友達と五円ずつ出し合って買い、割って一本ずつで食べた。しかし割り方によっては真ん中から割れずにバーすれすれで割れることがあり、その時はじゃんけんに勝てば大きいバーをとれたのである。

この駄菓子屋は後に家を改造し、お好み焼きを始めた。結構おいしく、まったりソースで大阪の下町の味ともいうべきおいしさであった。よくお世話になった。

勿論母も貧乏生活のなかでも、おいしい料理を作ってくれた。おはぎも特大のを作ってくれたが、母はぼたもちとよんでいた。手のひら一杯の大きさでもち米の上に溢れんばかりのあんこが贅沢にぬられている。これはたまらないおいしさであった。二~三個は食べたが腹持ちがよく友達にも自慢のぼたもちであった。

黒砂糖蒸しパンもたくさん作ってくれた。白蒸しパンという時もあった。そのほかにも、特大おにぎり、焼き芋、寒天ゼリー、海鮮焼きそば等々、どれももう一度食べてみたいものばかりである。なかでも、特製のポテトサラダは忘れられない味である

おにぎりについても印象的な思い出がある。

小学校入学の前、昭和三六年ごろだったか、第二室戸台風が関西を襲い、大きな被害をもたらしたが、この台風の威力は相当なもので、強風が吹く度にギシギシと天井が持ち上げられるような音を上げ、風圧で長屋が吹き飛んでいくのではないかと心配した。

避難命令が出ており、父の背中に背負われて家族で小学校に非難した記憶がある。そのときも、母は大急ぎでおにぎりを作ってくれた。膝下まで浸水し、また降りしきる雨と強風の中、やっとの思いで避難したのを覚えている。

当時の親父(三〇歳頃)の給料は手取りで三~四万円だったように記憶している。

父は家にいる時はいつもパンツ一枚でごろごろしていた。冬もランニングシャツとパンツ姿と決まっていた。小柄だががっちりとした体型である。私の理想の父親像からは少し離れていたが、酒も飲まずタバコも吸わず、賭け事もしないという、世間でいうところのまじめな人であった。

父は社交家で、仕事から早く帰ると、いつもご近所の家に上がりこんでは奥さんや旦那さんとお茶を飲み話し込んでいた。軽い男といえばそれまでだが、人と話すのが大変好きなようで、性格もよく善人で、陽気ということもあり、みんなから好かれたようだ。

また多趣味で特に動植物が大好きだった。まず、熱帯魚、金魚(価値の高い)にはじまり、次に紅スズメ、ジュウシマツ、ウグイス、メジロやインコ、ウサギまで、いろいろと飼った。しかし、犬と猫は飼わなかった。ウグイスを飼ったときは、当初近所から心地よい鳴き声でいいとの評判であった。しかし、父が早出の時には、母が朝三時過ぎには起床することもあり、朝の三時から「ほうほけきょ」の連発で、ご近所からは「朝からうるさくて寝られない」との苦情が寄せられた。実は、母が早朝に電気をつけたために、その灯りでウグイスも朝が来たと勘違いし鳴き出すのであった。

それ以来、早朝にはケージに黒い風呂敷を被せるようにしたところ、鳴かなくなったという。

さらに盆栽や菊が大好きで熱中していた。自宅長屋前の突堤の壁には観賞用の棚を拵え盆栽と花を並べて世話をしていた。貧乏長屋の前は盆栽と花で埋まり、家の軒先はメジロなどの鳥かごが下げられ、家の中には高級熱帯魚の大きな水槽が設置され、寝る場所が浸食されているという状況となっていた。熱帯魚の水槽が割れでもしたら狭い部屋は水浸しになるという危険性をはらんでいても、父はお構いなしでやりたいことをやっていた。また、この熱帯魚の水槽の掃除となると一日がかりである。折角の休日なのに手伝わされるのだ。

その後父は、熱帯魚を卒業すると「ランチュウ」という高級な金魚に魅せられたといって飼いはじめた。相当な金額を出して購入していたようだが、具体的な金額は母にも話さなかったらしい。

母も父の道楽にあまり文句をいわなかった。父の道楽は貧乏長屋に相応(ふさわ)しくない不釣り合いなものであったが、引っ越すという選択肢は全くなかったのである。

私もあまり記憶にないが、メジロの鳴き声大会に参加するというので父についていったことがある。メジロは興奮すると鳴かないので鳥かごには黒い風呂敷を被せて運んだ。

父は暇さえあれば自宅の水道からホースを繋げて糞の掃除をし、行水をさせ、鳥のご機嫌をとっては鳴かせていた。その世話は半端ではなかった。好きでないとできないと私は思った。今思えば、粗末な長屋で贅沢するならもっと広い家に住まわせてほしかった。しかしその頃はそんなことは何一つ思わなかったのである。

気が多いといえばそうかもしれないが、父は好きなことができる自由人であったということだろう。自分勝手自由人とでもいっておこう。

父はいつも午前八時過ぎ(早出の場合は午前六時)に自転車で会社に出かける。

出かけるときは握手をして「旅順……敵の将軍ステッセル……」という軍歌らしきものを歌っていた。この歌を歌い終えると「行ってらっしゃい」ということになる。

父の会社(製鉄所)は川の土手から小さいがよく見えた。三本の高い煙突が遠方に見えたが、そこが仕事場だと聞かされていた。
 父の会社を一度見てみたいという気持ちがあり、友達と自転車に乗っていってみた。近くだと思って行ってみたが、煙突は見えるものの、なかなか目的地には着かない、結構遠かったんだと思った。

途中、木津川だったかポンポン船の渡し舟に乗船しなければならなかった。しかし最初は不安で乗れなかった。この船に乗ることで、彼の地に赴くような感じがした。乗ってしまえば家に帰れないのではという不安感が押し寄せてきた。結局のところ頑張って乗船したのだが、会社にはたどり着けなかった。家庭から遠くなればなるほど無性に家が恋しくなり、家に帰れるだろうかとの不安感が大きくなり、結局さっさと引き返してきたことを思い出す。

小学校の前には神社があり、ここでよく遊んだ。

境内は広く木々も多く茂みもあり、かくれんぼには好都合であった。いつも七~八人が集まりよく缶蹴りをした。この当時は空き缶一つあれば楽しく遊べる時代であった。

まずジャンケンで鬼をきめる。地面に丸い円を描き空き缶を置く。隠れる側の一人が空き缶をおもいっきり蹴る。鬼が空き缶を取りにいって円の中に戻す間に隠れるのである。鬼は隠れた子を探し、見つけたら名前を呼んで素早く空き缶の所に戻り缶を三回踏む。これで隠れた子を缶の傍に連れ出し鬼の捕虜となる。しかしまだ隠れている子がいるので、鬼が探しにいくが、その隙を見て隠れていた子が鬼よりも早く空き缶を蹴れば、捕まった子を助けられるといういたってシンプルなものだ。終結まで体力のいる、結構きついが面白い遊びなのである。

クラスのなかの足の遅い子や巨漢の子が鬼にでもなれば、相当な体力がいる、終わったころには鬼になった子の頭から湯気が立ち上っているほどである。なかなか終わらない場合は、最初に見つけた子を助っ人の鬼とし二人で探すこともあった。悪戯好きな子は空き缶を隠したり、蹴るのではなく、手にもって遠くに投げたり、木の枝に向け投げたりして鬼をいじめていた。

参加者が多くなると鬼の数も増やして遊んだ。ある時最後の一人が見つからないといって大騒ぎになったが、その子は自分だけ家に帰っておやつを食べていたということもあった。また長い時間隠れて疲れたのか、本殿裏の廊下の下でそのまま寝入っている子もいた。

同級生の友達に幼稚園ぐらいの弟がいたが、

いつもお兄ちゃんにくっついて離れないので隠れても直ぐ居場所がわかり、鬼に発見されてしまう。しかしルールを知らない弟は何も知らず兄の傍ではしゃいでいる。お兄ちゃんはしかめっ面をするが、怒らないやさしいお兄ちゃんであった。

この弟はいつも運動靴を左右取り違えて履いていた。注意して直して履かせても、いつの間にか互い違いに履いている。いつも「なんで逆に靴を履くのだろう。気持ち悪くないのかな」と思うのだが、この弟の幸せそうな喜ぶ顔を見ていると、ついつい気持ちも和み、注意することも諦めてしまった。

境内の階段では「ぽっこん」(手でカードをひっくり返せば勝ち)や「べったん」(カードを打ってカードをひっくり返せば勝ち)をして遊んだ。野球をするときはピン球とプラスチックのバットや新聞を堅く巻いたバットで巨人軍の帽子をかぶりやった。これも結構面白い。

学校の校庭では、陣地取りの「肉弾」や「ひまわり」遊び、晴れた日には「影踏み」(鬼が影を踏み名前を呼ぶ)や「どうま」(男子高学年が体を張った遊び)などして遊んだ。放課後女子等は「ホームランケンパ」(石を蹴ってゴールする遊び)をしていたと思う。この遊びも女子たちが最初の図形を基に創意工夫を重ね独自のルールを加えていた。

特に高学年男子向けの「どうま」は楽しい遊びであった。男子数人ずつ二手に分かれジャンケンをし負けた方が馬になる。負けた方は壁に煙突役となる男子が股を広げて立ち、その股に一人目が頭を入れ、一人目のお尻に二人目が頭を入れ、次々に頭を入れて長い馬になっていく。勝った方は順番に走って馬に飛び乗り、煙突役まで跨いだまま進んでいく。全員が馬に乗ったところで煙突役とジャンケンをし、煙突役が勝てば交代し、負ければみんなから文句をいわれるのである。

負ければ再度馬となるので馬役は結構痛くてきつい。次々に飛び乗ってくるのだが、体重の重い男子が乗ってきたときは大変なことになる。馬が崩れたら負けとなるのでこの巨漢を如何に耐え凌ぐかにかかっている。ジャンケンが長引けば馬は疲れて総崩れとなり再度やり直しとなるから馬役からは「もうあかん」「はよしてくれ」「勝てへんかったらしばくぞ」などの大きな声が飛び交う。特に体の小さな子の背中に何人も乗ろうとするので、小さい子は煙突役か、最初の馬になるなどの作戦をたてて戦うのである。

あの時代はそろばん教室以外の学習塾は皆無であった。それに現在のようなゲーム機器のない時代であったが、工夫することで道具も使わず健康的に楽しく遊べた時代であった。考えれば現在よりも子供らしく育った幸せな時代であったといえる。遊具が潤沢になかった中でも、子供たちが工夫をこらして遊び方を考える。その遊びから運動能力や創意工夫、社交性を学んだように思う。

低学年の頃、本殿前の狛犬にまたがって、遊んだところ、降りるときに狛犬の鬣が太ももに突き刺さり膝の上の肉がえぐられたことがあった。血が滴り落ち、その血を見て気が遠くなった。神様の罰が当たったと思いその事以来、狛犬に跨らなくなった。

毎年七月二十・二十一日はこのT神社の夏祭りである。丁度夏休みの初日に祭りが重なるということで、一番楽しい時間であり心から楽しめたのだった。夕方ごろから混み出し、午後七時ごろになると周辺の人たちが繰り出し境内はラッシュアワーのような状況となり、露店(出店)でゆっくり楽しむということすらできなくなる。人が溢れているがそれが災いとなって露店にはお金は落ちないという痛し痒しの状態となっていた。

私は輪投げが好きでよくやったが、なかなか、ほしいものが取れなかった。手が短いので、友達の体を支えに手を伸ばすと、手前の商品まで届いた。しかし、店の人に「そんなことしたらアカンぞ」と怒られた。

「しかし大人と子供と違うで、オッちゃん」というと、それならといって輪を一本多くくれた。

そのほかにもスマートボール、金魚すくい、ヨーヨー、ウナギ釣り、射的、宝釣り、砂糖菓子でできた型抜きゲームなどをした。喉が渇くと決まってよく冷えたラムネを買い、熱々の回転焼きとタコ焼きとを口にりながら飲んだ。

出店は神社境内だけでなく表通りの両サイド二〇〇メートルにも及んだ。遊び疲れた後での、よく冷えたラムネやサクサクのみぞれやイチゴのかき氷の味は決して忘れることはない。

高学年になると祭の宵宮の午後、友達と待ち合わせして神社の山車の太鼓の前に集まり威威勢良く叩いた。ここは子供たちが多く集まる場所であり、お目当ての女の子も衣姿で集まってくる。夏休みが始まるお祭りということもあり、少し違った新鮮な雰囲
気のなか、気持ちの高鳴りを感じずにはいられなかった。友達や先輩との交流は本当に楽しかった。

暑い夏まつりの夜、川の土手で友達と花火をしていると前方から駆け足でこちらに向かっている後輩がいた。彼らは「火の玉が飛んでいる」といって逃げて行った。半信半疑で出たとされる家へ行ってみると、門の脇に火の玉のような物体が飛んでおりそのまま屋根を超えて消えていったのである。びっくりして友達と顔を見合わせながら茫然と立っていた。実はその日にその家の御爺さんが無くなったということを翌日母から聞いたのである。もしかしてあれは御爺さんの霊魂だったのだろうか。

この話は翌日学校で大きな話題となった。しかし、信じない者が多く、「作り話だ」といってからかわれたのだった。「本当に見た」と言えば言うほど反発を食らうのである。子供心に「必死になって主張してもこんなに信じてもらえないのだな」という事を肌で感じたのである。

この当時の暗い事件としては、昭和三八年三月末に東京で発生した吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐事件である。誘拐後、犯人が五〇万円の身代金要求をしたが、警察の不手際で身代金を奪われた上、犯人を逮捕することができなかった。

公開捜査により二年後に犯人は逮捕され、裁判の結果死刑が確定し、昭和四六年死刑が執行されたのである。

この事件では警察は犯人と身代金のやり取りを一週間にわたって行っていたが、吉展ちゃんは既に誘拐当日には殺害されていたのであった。
このやるせない悲しいニュースは全国をかけ巡った。この事件を契機に小学校や我が家でも「知らない人に絶対ついていったらあかんよ」と口が酸っぱくなるまで指導されたのである。

私の良き時代・昭和! 【全31回】 公開日
(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 2019年6月28日
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 2019年7月17日
(その3)死への恐怖 2019年8月2日
(その4)長屋の生活 2019年9月6日
(その5)私の両親 2019年10月4日
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 2019年11月1日
(その7)小学校時代 2019年12月6日
(その8)兄との思い出 2020年1月10日
(その9)小学校高学年 2020年2月7日
(その10)東京オリンピックと高校野球 2020年3月6日
(その11)苦慮した夏休みの課題 2020年4月3日
(その12)六年生への憧れと児童会 2020年5月1日
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 2020年5月29日
(その14)少年時代の淡い憧れ 2020年6月30日
(その15)父が父兄参観に出席 2020年7月31日
(その16)スポーツ大会と学芸会 2020年8月31日
(その17)現地を訪れ思い出に浸る 2020年9月30日
(その18)父の会社が倒産、広島県福山市へ 2020年10月30日
(その19)父の愛情と兄の友達 2020年11月30日
(その20)名古屋の中学校へ転校 2020年12月28日
(その21)大阪へ引っ越し 2021年1月29日
(その22)新しい中学での学校生活 2021年2月26日
(その23)流行った「ばび語会話」 2021年3月31日
(その24)万国博覧会 2021年4月30日
(その25)新校舎での生活 2021年5月28日
(その26)日本列島改造論と高校進学 2021年6月30日
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 2021年7月30日
(その28)社会見学や文化祭など 2021年8月31日
(その29)昭和四〇年代の世相 2021年9月30日
(その30)日本の文化について 2021年10月29日
(その31)おわりに 2021年11月30日