著者プロフィール                

       
2015年10月インド鉄道の旅 〜 海外地理紀行(その9)

児井正臣


昭和20年1月19日
横浜市で生まれる。

昭和38年3月
東京都立両国高校を卒業

昭和43年3月
慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)

昭和43年4月
日本アイ・ビー・エム株式会社に入社

平成 3年12月
一般旅行業務取扱主任者の資格を独学で取得
 
平成16年12月
日本アイ・ビー・エム株式会社を定年退職その後6年間同社の社員研修講師を非常勤で勤める

平成17年3月
近代文芸社より「地理が面白い-公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」出版

平成22年4月
幻冬舎ルネッサンス新書「ヨーロッパ各停列車で行くハイドンの旅」出版

令和3年2月
幻冬舎ルネッサンス新書「自然災害と大移住──前代未聞の防災プラン」出版


現在所属している団体
地理の会
海外鉄道研究会
離島研究クラブ


過去に所属していた団体
川崎市多摩区まちづくり協議会
麻生フィルハーモニー管弦楽団 (オーボエ、イングリッシュホルン奏者)
長尾台コミュニティバス利用者協議会
稲田郷土史会

2015年10月インド鉄道の旅 〜 海外地理紀行(その9)

海外地理紀行 【全15回】 公開日
(その1)ジブラルタル紀行|公開日は(旅行日(済)) 2001年8月1日
(その2)スイスルツェルン駅の一日|公開日は(旅行日(済)) 2003年3月1日
(その3)ベルリンの壁その前後|公開日は(旅行日(済)) 2003年11月1日
(その4)プラハとバイロイト|公開日は(旅行日(済)) 2006年9月4日
(その5)2009年の香港と広州|公開日は(旅行日(済)) 2009年3月11日
(その6)デンマークの2つの世界一|公開日は(旅行日(済)) 2010年2月1日
(その7)2014年10月 ミャンマーの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年10月15日
(その8)地理的ー曲目解説 チャイコフスキー「フィレンツェの思い出」|公開日は(旅行日(済)) 2005年2月1日
(その9)2015年10月インド鉄道の旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年10月17日
(その10)2014年12月 プロヴァンス鉄道の旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年12月1日
(その11)2019年暮の中国沿岸部旅行(上海航路と高速鉄道)|公開日は(旅行日(済)) 2019年12月1日
(その12)リフレッシュ休暇 カナダ東部への旅|公開日は(旅行日(済)) 1993年7月21日
(その13)2023年スペインの歴史を知った旅|公開日は(旅行日(済)) 2023年5月25日
(その14)鉄道で辿るゲーテのイタリア紀行|公開日は(旅行日(済)) 2024年3月9日

 旅行会社の主催するパックツアー「インド鉄道満喫の旅6日間」に参加した。初日羽田を午前10時に搭乗し、6日後の14時に降機するまでの124時間の間、飛行機、列車、専用バス、その他地下鉄や路線バスなど乗物に乗っていたのが合計64時間、睡眠時間を含む全行程の半分以上だった。また全16回の食事は、ホテルやレストランなどの静止している所で食べたのがわずかに6回、残りの10回は飛行機、列車、バスなどの中だった。それでも文句をいう人など誰もいない。言うはずがない。「鉄道満喫の旅」を承知で参加しているからで、この徹底ぶりに皆大満足だった。

 旅行社のパックツアーは、私にとっては昨年のミャンマーに続いて2度目だが、すっかり鉄道徹底旅行の面白さに嵌ってしまった。十数名の同行者との楽しい旅をしながら、インドがわが国の海外鉄道ビジネスの対象になるのかどうかも考えてみた。

インドの鉄道

 インドは人口13億1千万人で中国に次ぐ世界2位であるが間もなく1位になるといわれている。外務省のHPによると2011年国勢調査結果では、民族はインド・アーリヤ族、ドラビダ族、モンゴロイド族等からなり、連邦公用語はヒンディー語、他に憲法で公認されている州の言語が21ある。宗教ではヒンズー教徒79.8%、イスラム教徒14.2%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.7%、 仏教徒0.7%で、頭にターバンを巻いているのはシク教徒である。また識字率は73%、しかし路上生活者などを多く見かけ、どこまで正確に把握できているのか怪しいものである。

 インドの鉄道路線長は6.5万Kmで、ロシア、中国に次いで3位だ。人キロで表した旅客輸送量では世界1だ。初の開業はムンバイとその郊外を結ぶもので1853年というから中国よりも、もちろん日本よりも早い。一部を除いては1676ミリの広軌で、特に今回乗ったデリーの北部は平原地帯で直線区間が多かった。イギリスの統治時代、鉄道関係者は恐らくイギリスの本土では実現できなかった大型車両による高速運転を、新天地のインドで実現しようとしたのだろう。かつて日本が本土でできないことを満鉄で実現しようとしたことと似ている。満鉄経営にあたって、当時の日本はインドを参考にしたのかも知れない。

 ちょうどこの旅から帰って5日後に、「インド鉄道インフラの近代化と改良に向けて、日印協力への期待」という笹川汎アジア基金という団体が主催するシンポジウムがあり聴講した。インド国会の上院議員の講演があり、いくつかの地域や区間での旅客列車の高速化の他に、高速貨物専用線を計画しているという話があった。しかし同時に同議員は、それらとは別にインドには50万の村があり、これらに遍く交通サービスを提供することも必要である、と言っていたのが印象に残った。

ヒマラヤ・クィーン急行 デリー→カルカ

 羽田から香港乗継でデリーのインデラガンジー空港に到着したのが21時過ぎだったが、入国管理での外国人用の窓口が少ない上に係官は雑談をしながらのんびり作業をするので延々長蛇の列、迎えのバスに乗るまで2時間近く要し、ホテルに着いたのは日が変わる直前の23時50分だった。そして寝たと思ったら間もなく3時半にモーニングコールがあり、眠い目をこすりながらバスで駅に向かった。配られた朝食弁当もバスの中で食べた。中央駅に相当するのはニューデリー駅とデリー・ジャンクション駅(オールド・デリー駅と書かれたガイドブックもある)だが、乗車するヒマラヤ・クィーン急行はサラーイ・ロヒーラという駅から発車する。この駅は東京で言えば品川や赤羽のような複数路線が集まるジャンクション駅ではない中間駅で、尾久とか王子とかいった場所にある感じだ。

 なお我々は子供の頃、インドの首都はニューデリーと教わったが、現在ではデリー大都市圏がひとつの都市と見なされており、日本の学校でも「首都はデリー」と教えているそうだ。だから私も都市名を指すときはデリーを使うことにする。

 まだ真っ暗な中、駅舎などない駅の裏側の焼け跡のようなところでバスを降り、荷物を引きずりながら吹きさらしの跨線橋階段を登ると、一応屋根はあるもののここも吹きさらしの通路上に手荷物検査所があり1人ひとり手荷物を通す。このような荷物検査はデリー市内の各駅や、地下鉄の駅でも行われていたが、帰路の列車の発駅や、途中駅では行っていなかったので、どの程度役に立っているのかわからない。

 列車は、デリーの北305Kmのカルカまで5時間45分かけて行く。東京から蒲郡くらいの距離で、往年の準急「東海」では4時間半かかっていた。電気機関車に10両以上の客車が連なり、そのうち1両だけのエアコン付き座席車に乗った。通路を挟んで3人と2人の席が、一方方向に並ぶ。リクライニングはするが座席の転回はできず、ずっと後ろ向きのままで、また窓と座席の位置がずれているものもあり、車窓を楽しむことが難しかった。座席の背面に折り畳み式のテーブルがあるが、満足に使えるものが少なく、リクライニングも動かないものや倒れたままのものもある。それでいて冷房だけはやたらに強い。座席指定でほぼ満席だった。隣の車両は通路を挟んで6人ずつのボックスシートの普通車でかなり混んでいた。

 サラーイ・ロヒーラ駅出発直後はノロノロと低速で走ったり、停まったりを繰り返えしたが、外は真っ暗だ。しかしやがて直線区間になるとかなりスピードを出しはじめた。広軌だからなのか、或はバラストなどの軌道保守をしっかり行っているのか、揺れが少なく、ロングレールなので快適で、昨年のミャンマーとは大違いだ。駅や車両の古さや汚さとくらべ軌道の保守には人手や金をかける、これがインド流の考え方なのかも知れない。また途中の通過駅は大半が、新幹線の通過駅型と言おうか、複線の本線の両側に側線を持ちその外側に対抗式ホームを持つというもので、ポイント通過時の衝撃もなく高速運転に向いたものだった。

 ようやく空が明け始めると外の景色が見えて来る。畑と集落の繰り返しだが、集落はどこもレンガかコンクリートの集合住宅で、完成したものではなく造りかけ、というようなものばかりで、そこに大勢の人が暮らしている。中国の上海や広州の郊外で見る小ぎれいな住宅群や高層マンションといったものはなく、この国では都市の中間層というものがまだ少ないようだ。

 途中駅で他所から来た4両の客車を前方に増結し、出発後5時間、終着駅近くになってチャンディーガルに到着した。この町は1947年のインド・パキスタン分離後の北部の行政の拠点として、計画的に作られた新都市で、今迄の風景と違った、高層ビル群などが見え、半分くらいの乗客が降りた。前述のシンポジウムで、向こう5年間のインドの鉄道近代化計画の中に、デリー・チャンディーガル間の高速化も含まれているという説明があった。

 この駅で弁当が積み込まれ配られた。客が減ったおかげで、皆それぞれ座席テーブルの調子が良さそうな席に移動して食べたが、ここからは今までの平坦地と違ってカーブの多い登り路線となったので、カレー汁がこぼれそうで注意が要った。

カルカ・シムラ鉄道

 次はカルカ・シムラ鉄道、といっても私鉄ではなくインド国鉄の1路線だ。シムラは高地にある避暑地で、イギリス地統治時代には夏の首都でもあった。カルカからの直線距離は40Kmもないのに、鉄道での距離は96Km、標高2076mのシムラまで、656mのカルカから1420m登るのになんと5時間半もかける。表定速度は17キロ、762ミリの狭軌で、鋭いカーブの連続だ。ぐるりと一周をする完全なループはないが、スイスのベルニナ線と同じようなつづら折りは随処にある。2008年に「インドの山岳鉄道群」として世界遺産に登録された。

 列車は6両の小型客車をディーゼル機関車が牽引する。両端が普通車でこれは地元の人が乗る。中間の4両が観光用というか、指定席車で1両の定員は40人、4人掛けのボックスシートが通路を挟んで両側にある。西欧人を含む大勢の観光客がいて、往きはなかなか席が取れなかったらしく、我々も3両に分乗させられた。なおインドの座席指定は、車両の外側に名前と座席番号の書かれたプリントアウトされた用紙が貼られており、これで自分の乗る号車と座席を確認する。ここに限らずすべての座指列車は同じ方式である。

 列車はゆっくりとカルカ駅を後にするとカルカの市街地を包囲するように、勾配を登って行く。裏側から見る市街地は更に汚く、あちこちにゴミの入った袋が捨てられていてとても避暑地に向かうような雰囲気ではない。

 シムラは長く伸びた半島のような尾根上にあり、そこへの登り口がカルカだ。簡単に言うと、韮崎を出た中央東線の電車が、八ヶ岳から流れ出た七里岩の北側を登り、日野春駅あたりに来ると両側の崖下が見えるところを走るのと同じようなものだ。まず1時間半ほどつづら折りを登り、最初の停車駅ダランプル・ヒマーチャル駅に着くとそこはもう尾根の鞍部のような所で、この先は尾根道を、両側の谷を交互に見るようにしながら更に少しずつ登って行く。線路は人の歩く道を兼ねているようで、列車が来ると線路脇に退いて通過をやりすごす。そのように多くの人が待っているところを何度も通過した。

 谷は深く、スイスの山岳鉄道と同じような絶景が続く。そのうちに前方山の急斜面にビル群が乱立するシムラの街が見えて来る。それでも列車は複雑な尾根上の地形を忠実に迂回するように走るので更に1時間くらい要した。ようやくシムラ駅に着いたときは、もうすっかり暗くなっていた。斜面に張りつく狭い敷地に、ホームに面した本線と機回し線、転車台や数本の留置線を備えている。ホームは1本しかないが、前後に分けて2列車が停車できる。かつての夏の首都ということで、静かな避暑地を想像していたら大違いで、狭い道は先を急ぐバスや小型車で溢れ、クラクションで大変な喧噪だ。そんな中を4台の小型車に分乗し、レースをするように走ること30分、リゾート風ホテルに着いた。

 翌朝列車に乗る前に市内観光をした。シムラはヒマーチャル・プラデーシュ州の州都で人口27万、7つの丘の上に7つの市街地があり、いずれも急斜面にへばりつくように広がっている。その中でも中心部というのが駅から市庁舎方面への1キロくらいで、その辺りにはイギリス統治時代からの英国風建物が多かった。しかしそれらの多くはどれも手入れがなされておらず、古くなったままオフィスや商店として使われており、少し離れたところから建物全体を眺めないとそれと気が付かない。この付近だけは車乗入禁止になっており、歩いて散策できるようになったが、道路のいたるところで犬が熟睡している。もちろん飼い主などおらず、夜になると寒くて眠ることができないので、食物を漁ったり不審者を追い回したり、時には虎も退治するそうで、住民からは夜警と見なされているそうだ。そして木の上や道路の手すりには猿がいっぱいいる。イヌとサルとヒトとが上手く棲み分けをしているようだった。

 帰路も5時間半同じ列車に乗った。しかし今度は1車輛がほぼ我々のグループだけという余裕のある車内になり、出された弁当も隣の席に置きながらゆったりと食べることができた。

シャタブディ特急

 カルカでナロー列車の車庫を見学した後、デリー行きの特急に乗った。今度は「シャタブディ特急」と言う名の主要都市間や観光地を結ぶ全国23路線で運行されている昼間の特急のひとつで、当区間も1日に2往復走っている。この間302Kmを4時間10分で結ぶので表定速度は72.5キロ、往路よりもかなり早い。日本で同じくらいの速さのものは札幌・網走間の特急オホーツクが71.3キロ、またほぼ同じ距離を走るものとしては、札幌・函館間318.7Kmのスーパー北斗があるが、所用時間は3時間30分、表定速度91.1キロなので、これに比べればかなり遅い。

 電気機関車が牽引する客車列車だが、固定編成の専用車両で、車内は通路を挟んで2人ずつのリクライニング・シートだ。ただし回転はしない集団見合い形式だ。回転リクライニング・シートは、日本では新幹線から私鉄の有料特急に至るまで当たり前のようにあるが、ヨーロッパでは見たことがない。それどころか窓と座席の位置が合っておらず、車窓が見にくいということを何度か経験している。技術的にはそんなに難しいことではないはずなのに、海外では外の景色など見せなくても良いという考えなのかも知れない。確かに日本でも海外でも、乗ってから降りるまで窓外をずっと見続けているのは私だけのことが多く、乗客の多くは居眠りをするか読書、PC、携帯に勤しんでいる。しかし私個人としては、日本のこのスタイルだけは外国の真似をせず、ずっと続けてほしいと思っている。

 車輛は多分2~30年は経過していると思われる古いものだが、バネも良く、快適に走る。最高速度は130キロくらい出しているようだ。この特急には供食サービスがあり、それも半端ではない。発車後すぐにサンドイッチをメインとする軽食が出て来てそれで終わりかと思っていたら、その後適当な間を置いてスープ、カレー料理、デザートと4回に分けて出た。各車両担当のボーイがいて提供と片付けをくり返す。満腹になった。

 ニューデリー駅に着いたのは22時5分前だったが、大きな駅で大変な人で賑わっており、迎えのバスまでは広い駅前広場の群衆をかき分けるように進んだ。 なお往きに利用した「ヒマラヤ・クィーン急行」は、列車種別は「メイル」といい、かつては速達郵便の輸送を担っていたことからこのような名前にしているそうだ。結局この区間を走るのは、シャタブディ特急2往復のほか、5時間前後で走るメイルが2往復、他に6時間前後で走るスーパーファストという快速が2往復、更にパッセンジャーという各停列車が1往復あるが、これは10時間くらいかかる。

デリー市内観光

 翌日は夕方寝台列車に乗るまでの間、デリーの市内観光をした。朝8時にホテルを専用バスで出発、朝靄がかかったようで遠くが見えない。ガイドの話によるとこれはスモッグで、冬になると数メートル先も見えなくなるとのことだ。日本に戻って3日後の新聞に、デリーは「世界一、空の汚れた都市」という不名誉な称号を持ち、世界保健機関(WHO)によると、大気中の微小粒子状物質PM2.5の濃度は中国・北京の3倍もありデング熱の感染が異例の規模で広がっている、とあった。長居しなくて良かったようだ。

 鉄道三昧の旅ではあるが、一応世界遺産のレッドフォート、フマユーン廟、クトゥブミナールの三カ所を見学した。いずれもムガール王朝時代のもので、同王朝がイスラム教を信奉していたのでイスラム様式の城、廟、塔だった。国民の8割がヒンズー教徒のはずなのに、観光で稼ぐとなると話は別なのか、少なくとも宗教間の争いといったような緊張感はいずれの場所でも感じられなかった。

でもやはりメインは鉄道、国立鉄道博物館ではたっぷり時間をとった。東西500メートル、南北100メートルくらいの細長い土地に、かつて使われていた車両が多く展示されていた。ただし大宮の鉄博やスイス・ルツェルンの博物館のように屋内展示ではないので、日差しや雨などで錆びついたり壊れたりしているものが多かった。歩いてすべてを見るとかなりの強行軍になるが、構内を一周する豆列車に乗れば、展示された車両群の間を走るので、楽に見物できる。車両以外に写真や機器類などが展示されていると思われる建物もあったが改装中で入場できなかった。

 博物館ショップ小屋には模型やTシャツ、チョコレートなどの他、インドの鉄道地図帳があった。全国の鉄道路線図が実寸縮尺で書かれ、かつ単複線の別などもわかる大変貴重なもので、これでインド国鉄の全容を掴むことができた。

 地下鉄にも乗った。デリーの地下鉄(デリー・メトロ)は、ウィキペディアによると総延長193Km、6路線からなり駅は148ある。特徴は地下よりも地上の高架区間が多く、市の中心部でも高架線を良く目にする。だからロンドンのように地下鉄(アンダーグラウンド)というよりはメトロと言う方が適切なのだろう。最初の開通は2002年なので、中国なみのスピードで急拡大してきている。2011年にはインデラガンジー空港まで行くエアポートエクスプレス線(オレンジライン)も開業している。軌間はインド国鉄と同じ広軌のものと標準軌のものがある。まだまだ延長計画があるそうで、計画では2021年には総延長430Km、東京はもちろんロンドンのそれも抜くらしい。

 乗ったのは2番目に開業したイエローラインの8駅区間だった。クトゥブミナールという塔を見学した後だったが、同じ駅名の地下鉄駅は2キロくらい離れていて、そこまではリクシャーという小型オート三輪に分乗した。地上駅だったが、入口には手荷物検査があり、駅構内や車内は撮影禁止だった。車両はステンレス製無塗装で丸みを帯びており、幅も広く、香港やシンガポールの地下鉄に良く似ていた。ドアや窓を解放したままで走っている国鉄の近郊列車や電車と違い、エアコンもありその違いは大きい。高架線を走ることを期待していたら、すぐ地下に入ってしまい、降りるまで地下が続いた。市中心部のジョアバウとい駅で降りると、専用バスが迎えに来ており、ニューデリー駅に向かった。

 なおデリーには、デリーという名前の駅はなく、中央駅に相当するのはニューデリー地区のニューデリー駅とオールドデリーにあるデリー・ジャンクション駅であるが、我々は後者には行っていない。デリー都市圏の中のニューデリー部分は、緑地公園が多く、広い道路は円や幾何学的模様を描いており、計画的に作った都市であることが良くわかる。しかし車と人の多さ、クラクションによる騒音が「世界一、空の汚れた都市」にしてしまったのだろうか。メトロを増やしただけで解消されるのだろうか。

寝台特急

 ニューデリーからコルカタまでの寝台特急にも乗った。1447Kmを17時間かけて走る。東京から鹿児島県の川内までがちょうど同じ距離で、1970年頃の特急「はやぶさ」が20時間かかっていたのでそれよりも早い。デリーとコルカタを結ぶ列車で毎日運行するものは4往復しかなく、今回乗車したものも金曜日は運休だ。このほかに週1~3日運行するものがあるが、それらの中で1番速い列車だ。毎日運行するメイルが2本あり、それぞれ36時間半、40時間要する。

 乗車したのはラジダーニ特急という種別で、ニューデリー駅から各州の首都や大都市を結んでいる寝台夜行列車のひとつである。客車を20両くらい連結した恐ろしく長大な編成で、機関車の次位が電源車、その次にコンパートメント式の1等寝台車が2両、次が厨房車、その後に2段寝台車、3段寝台車と続く。我々が乗ったのはその1等コンパートメント車だった。コンパートメントとは両側に2段ベッドがある4人部屋で、両サイドのベッドの間は広く食事のときはここにテーブルが持ち込まれる。

 その食事だが、カルカからのシャタプディー特急同様軽食から始リ、その後適当な間を置いてスープ、メイン、デザートが出て来るが、その都度テーブルを出したり引っ込めたりする。カレーが飽きたのでスパゲティを注文したら、出て来たのはカレー味だった。なお酒は出てこない。インドでは、酒はあまり飲まないそうで、イスラム教が全面禁酒のほか、ヒンズー教でも飲酒はあまり良いこととはされていないそうだ。ホテルやレストランなど許可されたところでは飲めるが、大都市ではビールが小瓶でも1本600ルピー(約1200円)するなど、アルコール類は一般の物価にくらべて恐ろしく高い。

 1車輛にシャワー室が1、トイレが3あり、寝台も幅広で眠り易かった。路線もずっと平坦地を走っているようで、時速130キロを出すこともあったようだが、揺れを感じることはあまりなかった。これまでの強行軍のためか、皆22時前には眠りについたようで、私も朝6時頃までほとんど目が覚めなかった。

 6時40分、コルカタから250Kmほど手前のダーンバードに停車する。周囲の景色がデリー付近とかなり違う。沼や池かわからないが水面がいくつもあり、湿地帯の中を走っている感じだ。列車はほぼガンジス川に沿って走って来たのだが、この辺りは氾濫原なのだろうか、或はもう三角州の一部なのだろうか。そのうちに高さ100メートル以上はありそうな高い煙突をもつ火力発電所や製鉄所、化学工場などが連なる工業地帯となる。複線ではなく3線区間がずっと続くのは貨物専用線があるからだろうか。

 コルカタに近づくにつれ、人家が増え、通過する各駅のホームも人でいっぱいになる。密集度はデリー近郊よりも更に激しく、より貧しいように思えた。近郊列車は皆扉を開けたままで、列車だと思ったら電車だったというものが多かった。そして終点コルカタのハウラー駅に着いた。ガンジス川の分流であるフグリー河に面した頭端式の駅で、総武線の終点だったころの両国駅と隅田川のような関係にある。ただし駅は10倍以上大きく川幅も数倍広い。

 この対岸がコルカタ市で、ハウラー橋という長さ700メートルほどの鋼鉄の橋を渡って行く。中間に橋脚がないために、両岸に高さ100メートルくらいはある高い鉄塔を立て、それで橋全体を支えている大変大きな橋だ。イギリス統治時代の1943年に完成したそうだが、スコットランドのフォース橋を1890年には完成させているイギリスにとってはそれほど大変なことではなかったのかも知れない。

コルカタ

 子供のころ学校ではカルカッタと教えられたが、2001年に正式にベンガル語での呼称であるコルカタに変わった。行政面でのコルカタ市は川の対岸のみであり人口は5百万人弱だが、ハウラー等の衛星都市を合わせてコルカタ大都市圏を形成しており15百万人の、これも巨大都市である。低湿地の中だが、フグリー川など大河の自然堤防上に市街地が広がっている。

 17世紀末にイギリスが東インド会社の商館をこの地に設置し、18世紀末には英領インド全体の政治の中心となった。19世紀後半の1877年には当時イギリス国王だったヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる「インド帝国」となり、その版図はインド、パキスタンのみならず現在のミャンマー、ネパール、スリランカにまで及んでいた。カルカッタはこの間帝国の首都だったが、20世紀に入ると反英運動が特にこの地域で激しくなり、これを嫌ったイギリスは1911年に首都をデリーに移した。

 ヴィクトリア女王もカルカッタに来たことがあり大きな記念堂が残っている。その時代は蒸気船や鉄道があったと思うが、首都となった最初のころは、ロンドンから来るのに数カ月は要したかも知れない。だから夏の首都シムラに移動するのに半月くらい要したとしても、この時代の政治のスピードから言えばたいして問題にはならなかったのかも知れない。

 いったんホテルに入り休憩してから専用バスで市内の公共交通視察に出た。近くのレストランで昼食を取った後、市内の交通のハブのようになっているエスプラネードという所に行った。ここは3系統のトラムの起終点になっているとともに、各方面に行くバスのターミナルにもなっていて地下鉄駅もある。トラムは最盛期に比べかなり路線を縮小しているが、現在インド国内では唯一のものだそうだ。車両は2両連結だが、どれも恐ろしく古い。線路の保守も悪くガタゴトと音を出しながら走っている。

 お祭で一部区間の運行を止めているとか、一部区間で障害があったとかで結局トラムには乗れず、地下鉄と路線バスを乗り継いで車庫のある終点タリーガンジというところまで行き、車庫内を見学したが撮影禁止だった。しかしエスプラネードのターミナルを見るだけで十分だった。公園のような木立のなかの砂利道にカーブを描いた線路がいくつもある。片運方式なので終点ではループするのだが、いくつもの系統のループがゆったりと作られていて、またそれらを繋ぐ線路があったりして複雑な配線になっている。そしてその間のスペースにバスの乗り場がある。それらには小さな屋根があるものの、雨季などドロンコになるのではなどと余計な心配をした。

 地下鉄はここでも荷物検査があった。コルカタの地下鉄は、インドでは最も早い1984年の開業でデリーに比べると20年近く前のことなので、かなり古く駅も車両もきれいではなかった。ホテルに戻り夕食を取ってからバスで空港に向かった。ちょうど一時間の乗車だったが、途中、宇都宮とか高崎といったくらいのかなり大きな規模の都市の中心部をいくつも通り抜けて行くという感じだった。空港まで高架鉄道の工事が進んでいた。

 コルカタ空港のターミナルビルは昨年オープンしたばかりの大きくてきれいなものだが、ロビー内には搭乗客しか入れない、だから非常に閑散としていた。深夜1時20分に出発し、香港乗継、羽田には3時間半の時差があったが13時45分に着いた。

インドでのわが国の鉄道ビジネスを考える

 わが国の鉄道ビジネスがインドで可能かどうか考えてみた。私は鉄道に限らず、建物の建築や機器を売るだけで終わるような単発のビジネスではなく、導入後の運用や保守まで請け負うようなインフラビジネスが成功するためには、政治的な問題があることはもちろんだが、それ以前に先方に「それを必要とするやむを得ない理由」が必ずあることと「日本にしかない強み」が必ずあることが必須だと常々思っており、これは鉄道ビジネスに於いて全く同じであると確信している。

 その面からすると私はインドについては、新幹線よりも都市交通でビジネスチャンスありと見た。新幹線については都市の分散具合から見て、新幹線が飛行機と比べて競争力をもつ区間があまりなく、仮にあったとしても平原が続き地震も少ないインドで日本の高速鉄道のバリューを発揮できる部分が少なく、競争に勝てそうにない。またインドには大量・高速輸送を目指した高速貨物鉄道の建設計画があるが、これはコスト対安全投資に対する考え方が人を輸送する鉄道に比べて格段に異なるだろうから、日本に競争力があるとは言えないだろう。

 都市交通については、デリーやコルカタの現在の車ラッシュの凄さ、それによる大気汚染とクラクションによる騒音や喧噪はもはや限界を超えていると思う。デリーなどはメトロの建設が進んでいるがそれだけでは十分ではないと思う。

 今のインドには中産階級というものがまだ育っていないのではないかと既に述べたが、経済の進展とともにやがてそれが現れるだろう。彼らが収入に見合う快適な住宅を持つとすれば、すでにわが国で経験したように郊外に拡散するしかないだろう。そうなると小田急や東急田園都市線のような郊外電車が必要になってくるに違いない。緩急接続を伴う快速運転や、相互乗り入れなどが必要になるだろう。これこそわが国の得意分野であり、競争に勝てる分野ではないだろうか。

 ただし今のままでは不十分だ。首都圏や京阪神、名古屋、札幌、福岡などの大都市圏については、安定的に大量輸送するという面で今のわが国の交通体系は良くできていると思う。もちろんいくつか課題は抱えているが、海外に展開するためには特にこれだけは改善しなければならないことがある。

 それは運行システムだ。特に首都圏では相互乗り入れが進み乗換が減って利用者が便利になった反面、例えば埼玉県の一部で起きたトラブルで神奈川県内の電車が遅れたりする。いや、相互乗り入れでなくとも、中央線の高尾付近の障害で中央快速線が全面運行停止になることもある。それは運行システムがまだ中途半端なのに設備の冗長化を省いてしまったからだと思う。今のシステムは順調に運行しているときは問題ないが、一部区間の障害時への対応が不十分に思える。金融機関では銀行のシステムなどは数百万のプログラムステップのうち7割くらいは、誤操作や不正使用、機器の障害など非常時に備えたものだと言われている。鉄道の運行システムもこのような考えが必要である。

 もちろんソフトでの対応だけでなく、普段は使用しないが非常時のための待避線や折り返し線、単線運行も可能な信号設備などハードの整備も必要だ。それらと分散的なサブシステム、そして全体を統合する運行システムにより、便利にしてかつ安定的な鉄道輸送サービスが提供できる。これがあれば世界で最も優れた「日本にしかない強み」をもった都市交通システムとなり、十分な競争力となる。

 多分インドならば高崎から小田原くらいまでの直通電車を走らせる必要性が近い将来生じるだろう。一部は在来鉄道の改良もあるだろう。そこで最適なハードとソフトの組み合わせによる理想的な鉄道システムを考えれば売れるに違いない。と同時にそこでの研究や経験を逆にわが国にフィードバックし、今の首都圏などの運行システム改善策として取り入れる。これにより海外ビジネスで稼ぎながらわが国の鉄道のレベルアップができる。

 さらに付け加えると、わが国でもグリーン車や通勤時間帯の有料特急など追加負担をしてもより快適なサービスを求める需要が近年大きくなってきている。インドをはじめとするアジアの各国では、中産階級の出現とともに従来からの高額所得層からも受け入れられる鉄道サービスが日本以上に必要だと思う。これも海外への展開とともにわが国にフィードバックし、より多様なサービス実現へのヒントにすれば良いと思う。長期的には人口減少が進むわが国の都市交通にとって必要な解決策になるだろう。

 戦後の人口増と急激な都市化を経験してきたわが国が、今まさにその最中であるインドなどアジアのメガシティを対象に理想的な都市交通ビジネスを展開し、同時にそこで実現した有益な部分はわが国にも取り入れ質の向上に資する、いやわが国鉄道の生き残りの策とする、我ながらお目出度い考えだと思う。しかし真似をしてもオリジナルだと言い張る某国が乗り出してくる前に、早く取り掛かってほしいものだ。

海外地理紀行 【全15回】 公開日
(その1)ジブラルタル紀行|公開日は(旅行日(済)) 2001年8月1日
(その2)スイスルツェルン駅の一日|公開日は(旅行日(済)) 2003年3月1日
(その3)ベルリンの壁その前後|公開日は(旅行日(済)) 2003年11月1日
(その4)プラハとバイロイト|公開日は(旅行日(済)) 2006年9月4日
(その5)2009年の香港と広州|公開日は(旅行日(済)) 2009年3月11日
(その6)デンマークの2つの世界一|公開日は(旅行日(済)) 2010年2月1日
(その7)2014年10月 ミャンマーの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年10月15日
(その8)地理的ー曲目解説 チャイコフスキー「フィレンツェの思い出」|公開日は(旅行日(済)) 2005年2月1日
(その9)2015年10月インド鉄道の旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年10月17日
(その10)2014年12月 プロヴァンス鉄道の旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年12月1日
(その11)2019年暮の中国沿岸部旅行(上海航路と高速鉄道)|公開日は(旅行日(済)) 2019年12月1日
(その12)リフレッシュ休暇 カナダ東部への旅|公開日は(旅行日(済)) 1993年7月21日
(その13)2023年スペインの歴史を知った旅|公開日は(旅行日(済)) 2023年5月25日
(その14)鉄道で辿るゲーテのイタリア紀行|公開日は(旅行日(済)) 2024年3月9日