作品紹介
タイの微笑み、バリの祈り
―一昔前のバンコク、少し前のバリ―
柴田 和夫
タイ国 プーミポン国王陛下逝去のニュースを知ったとき、一昔前のバンコク、そしてバリでの日々が甦った―― 外交官を務めた著者が、駐在当時の雑記をまとめたエッセイ集。 まるで当時の現地に漂う景色、音、匂いが感じられる、至高の作品。 読めば生きる喜びが湧いてくる、学生から社会人まで必携の書。
第一章 一昔前のバンコク
第二章 ほんの少し前のバリ
第三章 忘れ得ぬ人々
プロフィール
柴田 和夫
1951年茨城県水戸市生まれ。1975年横浜市立大学卒業後商社に就職。1978年外務省入省後、本省の他にバンコク、NY、シンガポール、チェンマイ及びバリの大使館及び総領事館に勤務。2015年退職
インタビュー
貴著が刊行されました、今のお気持ちはいかがでしょうか。
若い頃、「読書は他人の経験を盗むことである」旨の表現に出会ったことがあります。
他方、その表現自体がさほど洗練されていないこともあり、「盗むこと」を「シェアーすること」に変換してみますと、作者の意図がより鮮明になるのではないかと思われます。
今回の私の本の刊行により、これから東南アジア特にインドシナ地域を目指す若い人達、そしてご縁があり、東南アジアに勤務された経験のある方々、また、これから東南アジアに勤務される予定のある方々にも読んでいただき、ささやかな私共の体験をシェアーしていただければ大変有難いと思っています。
特に、若い人達には、東南アジアに対するある種の偏見を捨てていただき、素直かつ曇りのない目で現地の人達と接していただけますれば、きっと若い人達自身の世界が広がることになるのではないかと考えます。
今回出版しようと思ったきっかけはなんだったのでしょうか?
実は、大分以前から、インドシナ地域に関し書き綴った文章を一つの本に纏めてみたいという気持ちがありました。
しかし、文章の書かれた時間の座標軸、そして、書かれた対象の地域の座標軸も異なっていたため、一冊の本に纏めるには少し無理があるのではないかと考え、一度は本に取り纏めることを諦めたことがありました。
しかしながら、2017年10月、タイのプーミポン国王陛下ご逝去のニュースに触れ、その昔タイの日本大使館や外務本省の仕事としてタイ内政をカバーして来た私にとり、タイの一時代の終焉を強く感じました。
そして不思議なことに、国王陛下と同時代に体験した様々な事を思い出すと共に、一時代、確かに私自身がタイに存在していたことを再認識すると共に、その時代、私が確かにそこにいた証左として同時代に綴った文章や、その後の時代に書いた文章を一冊の本に纏めてみることはそれなりに意味があることではないかと考えるようになった次第です。
なお、これまでにも、『さよならチェンマイ』、『バリからの便り』という本を自費出版した経緯がありますが、編集者からの勧めもあり、『バリからの便り』の中の文章の一部も併せて今回の本の中に掲載させていただきました。
どんな方に読んでほしいですか?
岡倉天心は、「アジアは一つ」と唱えました。アジアという呼称の他に、東洋という呼び方が存在しますが、東洋という言葉には何かしら畏敬の念が隠れている呼称であるような気がしてなりません。
日本という国は、歴史上、古くは中国文明、そして近代においては西洋文明の摂取に並々ならぬ関心を示した時代がありました。
他方、その土地や気候を含め独自の風土から生まれてくる地域独特の文化に対しては、その汎用性が狭められた地域に限定されたものとして、ほとんど関心を寄せず、関心を寄せるどころろか蔑視して来たような感さえ排除されません。
しかしながら、最近のアジアの経済発展の恩恵なのかもしれませんが、アジアに対する若い人達の関心も高まり、「元気なアジア」という言葉にも看取されますように、何らの偏見も持たずにアジアに接する若い人達が増えていることは歓迎すべきことであり、そのような若い人達にこの本を読んでいただきたいと希望しております。
座右の一冊
ここが魅力
私にとり、一冊の本のみを選択として座右の書とすることは、極めて困難なことです。
これまでの私の人生を振り返ってみますと、幼稚園或いは小学校の低学年に父親に読んでもらった『世界児童文学全集』は、当時の私が最も感激したものであり、全集に入っていた、『ああ無常』や『ピノキオ』にはその内容に胸を躍らせたものでした。
自分自身で本を読むようになってからは、小学校時代は漫画に、中学時代は白戸三平の『忍者武芸長』、高校時代は武者小路実篤や石坂洋二郎の本に感化されてきましたが、その後、大学生、社会人になってから、そしてある程度年をとってからと、その時代・時代により私の座右の一冊は変化して来ていますので、私のこれまでの人生を通じて、これが座右の一冊と言い切ることはなかなか困難なようです。
そのような状況下、敢えて、現時点で私が考える過ぎ越しそれぞれの時代における座右の書を挙げてみると概要次のようになるものと思われます。
大学生時代、国際法のゼミ仲間で何かにつけて師と仰いでいた私より年上の学友が読書を勧めてくれた立原正秋の小説をかなり読み込んだことがあり、学生時代は、ある意味でかなりストイックな立原の生き方にかなり影響を受けたと感じています。
外務省の語学研修生としてタイ国にてタイ語を研修していた時代は、中公新書の『私の外国語』に掲載された外務省のタイ語の先輩である石井米雄先生のタイ語履修の経験談の文章がタイ語の上達がいつまで経っても捗らない私に勇気を与えてくれました。
語学研修後在タイ日本大使館に務めとなり、インドシナ地域の外交をカバーしておりましたが、当時の在ベトナム大使であった谷田部厚彦さんの書いた『ある大使の生活と意見』からは外交官としての生き方に大変感銘を受けました。
在外勤務後、本省勤務となってからは、仕事が超多忙であったこと及び私生活も極めて不規則であったため、ストレスから十二指腸潰瘍を罹患してしまい、役所内にて貧血で倒れ、救急車で病院に担ぎ込まれました。
入院中、病院の天井を見ながら、これではいかんと深く反省し、自らの精神を鍛えるべく仏教関連の本を多く読む機会を得ましたが、松原泰道さんの仏教に関する本からは一種の救いを感じたほどでした。
最近では、詩人であり哲学者の若松英輔さんの著書を買い集め読みまくっており、人生の後半において、素晴らしい作家に出会うことが出来たと、その稀有な出会いに感謝している次第です。
ヒストリー
- HISTORY 01 外務省に入所
-
外務省に入所
思うことがあり、二年間勤めた商社を円満退職し、外務省の専門職試験を通して外務省に入省致しました。入省直後、当時、茗荷谷にあった外務研修所にて約三か月に亘りタイ語、英語及び外交に関する諸講座を受講させていただきました。当時、タイ語の勉強には、私一人に東京外国語大学の教授を含め3名の講師が代わる代わる一対一で教えてくれるという極めて贅沢な授業を受けることもできました。御蔭様で、約二百数十時間にも及ぶタイ語研修後は、タイ語ビギナーの私でも、まがりなりにも簡単なタイ語の会話ができる程度になっていました。 外務研修所の建物は、日清戦争の賠償金を使って建設された由で、大変重厚な建物であり、研修環境としては大変素晴らしいものでした。この頃は、入省直後、研修所に咲いていた八重桜と一緒の写真を同期に撮ってもらいましたが、研修に意欲を以って取り組んでいた当時の若い頃のものです。
- HISTORY 02 在タイ日本大使館での仕事
-
在タイ日本大使館での仕事
外務省の在外語学研修後、在タイ日本大使館に配属され、最初は大使の秘書としてプロトコール(儀典)の仕事をさせていただきました。 大使のところには、当時の政務班、経済班、国際機関班、情報文化班、領事班などから全ての重要な情報が大使のところには集まって来ますので、各班から上がって来た電報等により、大使館全体の仕事を知る上で大変勉強になりました。 その後、政務班に転属となり、主に外交や通訳の仕事を行うようになりました。当時、種々の通訳の仕事をさせていただきましたが、現在の安倍晋三総理大臣の父安倍進太郎さんが外務大臣を務められていた際、タイを公式訪問され、当時のプレム・タイ首相に表敬訪問された際、その通訳を行うことがありました。 大臣の発言要領なるものは、事前に勉強する機会がありましたが、実際の会談では何が出て来るか想像できない場合もあり、まさに、冷汗をかきながらの通訳でした。
- HISTORY 03 2017年 インド仏跡巡礼、タイ戦没者の慰霊碑への参拝
-
2017年
インド仏跡巡礼、タイ戦没者の慰霊碑への参拝
2017年、11月下旬より12月上旬までの間、奈良薬師寺の村上太胤管主を団長とするインド仏跡巡礼の旅及びタイにおける戦没者の慰霊碑への参拝の旅に参加する機会を得ました。 同巡礼の旅は、強行軍でまさに修行の旅でもありましたが、ブッダガヤ大塔からブッダガヤの日本寺までの間、その日本寺に納経する写経を運ぶための台座を巡礼の旅参加者全員が前後に分かれ「散華、散華、六根清浄」と唱えながら聖地ブッダガヤを練り歩きました。 釈迦牟尼仏陀が悟りをひらいた菩提樹、悟りを開く前に苦行を続けた洞窟、スジャータから乳粥を寄進された村、初めて説法を行ったサールナート等では、巡礼者一同で般若心経を読経し、大変清々しい気持ちになることができました。 その昔、横尾忠則さんが、「人間には二種類あり、インドに行くことができる人間とインドに行くことができない人間である」と言っておりましたが、今次インド訪問ができましたことは、ひとえに釈迦牟尼仏陀の御慈悲であったと考えています。
人生を変えた出会い
大学4年の時、外務省の上級職の試験にトライしましたが不合格となり、外交官への道は諦めて外国勤務のある商社への就職を希望し、「鶏頭となるも牛後となるなかれ」の諺に倣い、当時、商社の番付では10位より少し下の商社を選択し、大阪本社で働くこととなりました。
しかしながら、大阪には知人もおらず、入社後最初の仕事も、貿易の仕事とは全く関係のない国内の財務関係の仕事でした。
この仕事は、自分には全く合わないと思いながらも、我慢に我慢を重ねた日々を送っておりました。
しかし、そのような時に、私の部署に、眼鏡をかけ、小柄であるがやたらに声が大きく、人懐っこい笑顔をした藤井さんという御仁が配属となってきました。
ユウモア精神に富んだ藤井さんは、直ぐに部内の人気者になり、下っ端の私も大変可愛がっていただき、仕事終了後は、よく飲みに連れていっていただきました。
藤井さんは、当時、商社に残るべきか悩んでいた私をすぐ見抜き、本当に進みたい道があるのであれば、その道に進むべきではないかと助言してくれたこともありました。
藤井さんが私の背中をそーっと押してくれなければ、商社を退職することも、その後の外交官人生もなかったのではないかと思われます。
藤井さんのアドバイスも手伝ってか、丁度2年間の勤務後、きっぱりと商社をやめ、外務省受験を決意しました。
残念ながら、翌年の上級職試験には不合格となりましたが、専門職試験には合格し、外務省に採用していただいた経緯があります。
他方、藤井さんご自身も思うところがあった由で、その後、商社を退職し、故郷の福井に戻ったことがありました。
在外語学研修に出る直前、福井にお邪魔し、旧交をあたためたことがありましたが、藤井さん自身も清々しい気持ちで新しい仕事に就いたことを知り、私も大変嬉しくなったことを覚えております。
未来へのメッセージ
ニューヨークのセレブが住むアッパー・イーストに、わびさびを感じさせる茶室のある裏千家の「茶の湯センター」があります。
そのセンターの入り口付近には、「親の恩は返せても水の恩は返せない」と書かれた色紙が飾られています。
当時、在NY総領事館広報文化センターに働いていた私は、茶の心をアメリカの人達に理解してもらうべく、当時の山田尚茶の湯セ ンター長にお茶のお点前と茶の心の講演をお願いしたことから、山田さんと親しくお付き合いするようになりました。
山田さんからは、お茶に関して種々ご教授いただくと共に着流しでNYの街を闊歩するその姿からは、まさに、日本文化を体現せんとする意図も汲み取れ、そのお姿に感銘を受け、日本文化に関する自分の無知を悟ると共に日本文化に関する深い勉強の必要性を感じました。
映画監督の小津安二郎は、「日本的なものこそが最も世界に訴える」としておりますし、東北銀山温泉の若女将であったジェニー藤井さんも、「日本人には日本が足りない」としていたことを思い出します。
私も含め日本人は、神道や仏教を始め、能、人形浄瑠璃、華道、短歌、俳句等日本文化をきちんと勉強する必要があると思われます。
それは、単に偏狭なナショナリストを目指すためでは決して無く、自分の国の文化を知り、愛することは、他の国の文化理解にも繋がっていくことになると思っております。
最近異常気象について喧しくいわれておりますが、上述の「親の恩・・・・・」の標語は、地球環境問題を考える上でも非常に重要な考えではないかと考えます。
全くの余談ですが、「自然」をタイ語に翻訳しますと「タンマ・チャート」となります。
タンマ・チャートとはタンマ(達磨と同じ意味で規範とか法律の意味もあります)が存在しているチャート(世界)ということで、意訳するならば、「ある法則が働いている世界」とでも訳すことができるかと思います。
日本語の自然という漢字からは、その意味するところが良く理解できませんが、タイ語から見てみますと、自然の意味するところが一目で理解できるような気が致します。
私達は、そのある法則働いている自然という大切なものを破壊するような行為・行動を厳に慎むことだけではなく、どうしたらその法則が円滑に進むかについても留意する必要があるのではないかと考えます。