作品紹介
あくまでも
前向きに生きる
石橋 直道
昔から、物事を深く考えるたちだった。青年期は、同年輩の知人が健康かつ楽しく日々を過ごしている傍らで、独り鬱々と悲観的な思考・思索に沈潜していた。成人すると、経営コンサルタントとして日本全国を股にかけ、国際協力事業団(JICA)の調査団員として海外の発展途上国を飛びまわった。葛藤と挫折に苦しみ、歓喜と高揚に心が湧き……。数多の苦難と喜びのなかで、つねに自分の流儀で現実世界の諸相を見つめ、認識したのは、この世は限りない「wonders(不思議、驚異)」に満ちていること、この世の大本は「善」であるということである。日常で生まれ、したため続けたさまざまな思考。教育論、語学・人類学論、芸術論、人間観と人生観、自然観、社会観、文化論、戦争論――ひとりの人間からかくも豊かにあふれる思索を綴る、壮大な「生き様」の記録。
プロフィール
石橋 直道
昭和7年(1932年)、東京の下町に生まれる。
平成30年(2018年)現在、86歳の一介の市民。
激動の昭和・平成期を幾多の逆境と挫折に遭遇しつつ生き抜く。
一橋大学経済学部卒。(株)日本航空を経て、経営コンサルタント、続いて海外コンサルタントとして、日本全国及び世界を股にかけて働く。
本書の執筆を思い立ったのは、胃がんにより胃の全摘を契機に、長い人生行路の中で醸成・蓄積された著者独自の積極的・楽観的・行動的な処世感を世の人々に伝えたい、悩める人々を勇気づけたい、との切なる想いであった。
インタビュー
なぜ書籍を出版しようと思ったのか、そのきっかけをお聞かせください。
私は経営コンサルタントとして国内で6年、経済分析コンサルタントとして海外で23年、合計29年間コンサルタントとして働きました。コンサルタントといいますのは、携わるそれぞれの案件において、成果物として報告書を作成して顧客に提出しなければなりません。国内においては当然日本語で、海外においては英語でレポートを書きました。そのような物書きの経験と背景がもともとあったために、「書く」ということに対して大きな抵抗を持ってはいませんでした。
加えてもう一つ、私は生来、物事を深く考える性向を持っております。私たちを取り巻いているこの世界についてであったり、日本の社会についてであったり、その他のことについてであったり、実に様々な事柄について私なりの考え方があり、それはどうも一般の人たちの考えとは少し違うところがあるように思えておりました。そこで、自分の考えていることを、世の中の皆様に知って欲しい――そんな思いを抱くようになったのです。
この二つだけでしたら、出版にまで至らなかったかも知れません。しかし69歳の時に、思ってもいなかった不幸が我が身を襲いました。私は胃がんを患い、胃を全摘出することとなったのです。幸い私は生還し、術後の経過も良く回復しましたが、これを契機に「いつどうなるか分からない」という危機感を持つに至ったのです。その危機感に促されて、「私の考えていることを、世の人々に知らせたい」という已むに已まれぬ願望がますます強くなりました。
「胃がん」という重大な事態を前向きに捉え、新たな分野に飛び出したわけですね。
術後の経過が良くなければ、出版はあり得ませんでした。「書く」体力を取り戻したからこそ、実現できたのです。手術してから十数年間を掛けて執筆を続けました。日常的に面白いと感じたことをそのつどメモに書きとめ、それを頼りにまとめました。完成した原稿は、内容が実に多岐に亘っており、いわば“固い”ないしは“重い”部分もあり、随筆としての骨格がほぼ出来上がったものでした。
ずいぶん真面目な本になりましたが、一つのことを主張しない、押し付けないということは、常に意識いたしました。人それぞれ色々な意見を持っていて、それぞれが正しいのです。社会のこと、文化のこと、戦争のこと、教育のこと……重いテーマから軽いテーマまで、日々考えた色々な「思い」を書き綴りました。難解にならないよう、難しい言葉や文章は避けて、読者の皆様がすらすらと理解できるように書くことを心掛けました。私の出版はこれでひと段落しましたが、本当は、もっともっと書くことができるようにも思います。この十数年で、書く能力もレベルアップしたように感じています。
制作過程において、心に残っていることをお聞かせください。
原稿の編集に直接関わってくださった編集部の佐藤早菜様、終始監督・指導されておられたと拝察する矢口会長、山名社長ほか、直接間接に関係された幻冬舎ルネッサンス新社の皆々様に、心からお礼を申し上げます。
佐藤早菜様の編集に賭けた熱意と闘志、矢口会長・山名社長の編集に対する大所高所からのアドバイス等がなかったら、このような素晴らしい書籍の誕生はあり得ませんでした。
編集の過程で、佐藤様が原稿において、注釈の出所としてウイキペディアが多用されていることに着目されて、その是正を勧告されたことは、私にとって大きな開眼であり、私は大いに反省して、佐藤様の勧告を可能な限り斟酌するよう努めましたが、このことが、大きな出来事として記憶に残っております。
そして特筆大書されなければならないのは、御社側が、編集過程において、原稿全般に亘って、一字一句、文章の一つ一つを取り上げて、綿密に吟味・チェックをされたことです。これは、プロフェッショナルとしての、熱意と誠意、豊富な一般常識と専門知識がなければできないことであり、私は大変驚き、御社に対する信頼と感謝の念を確固なものとしました。
一年の長きに亘って御社側と私側がキャッチボールを繰り返し、遂にこのように立派な書籍の完成を見ることができました。その道程は双方にとって決して平坦ではなく、急峻な山あり深い谷ありの難路でしたが、私たちは遂にそれを踏破するに至りました。
書籍の装丁は、地球儀をモチーフに、ノスタルジックな趣で温かく、神秘性すら感じさせるデザインとなりましたね。
当初、カバー案を3つご提案いただきました。それぞれデザインコンセプトは違っておりながら、いずれも完璧で甲乙付け難く、私は選定を御社に委ねました。その結果、当案は、若年読者層を重要なターゲットとした、ドラマチックでダイナミックな装丁である点で、確かに他の2案を凌駕しており、私はこの選択に躊躇なく賛同したわけです。
私ががんの手術から生還して以来、十数年に亘り温め続け、魂を込めて書き綴った原稿がこのように立派な書籍となり、刊行の運びとなりましたことは、私にとって筆舌に尽くせぬ嬉しさであり、感激です。何としてもこの書籍を刊行して世の中の人々に読んでもらいたいという十数年来の願望が、遂に達成され実現したのですから、こんなに嬉しいことはありません。これは、何ものにも代えがたい喜びです。
『あくまでも前向きに生きる』を読みますと、執筆に掛けたのはこの十数年間であったとはいえ、ここ最近の洞察だけではなく若い頃からの思念を綴っておられるかのようで、長い時間を掛けて醸成された石橋様の「哲学」を感じるように思います。
この十数年間の執筆期間は、自然と昔の自分を思い出し、向き合うこととなりました。子供の頃は、読書三昧というわけでもありませんでしたが、物事を深く考える性格は、今と変わりませんでした。人間の脳は右脳と左脳とに分かれていて、右脳は感情を、左脳は理性を司ると言われておりますが、私はどうも右脳的人間のようです。とにかくデリケートな性格で、青年時代には何かにつけ憤ることも多かった。優しい面があると同時に、怒りっぽい性格だったと思います。それは長い時間を掛けて徐々に形成された性格で、憤り、悲しみ、悩み……。普通の人よりもネガティブな感情が強かったかも知れません。
一橋大学を卒業し、「外国」というものに憧れを抱いて、日本航空に入社しましたが、それが私の暗黒時代の始まりでした。葛藤と挫折の深淵の中でもがいた、苦しい時代でした。毎日狭い、閉ざされた空間の中で、常に上下左右に気を配りながら、上から与えられた仕事を忠実完全に果たすことを要求されるサラリーマン生活。力と力が目に見えない形で絶え間なくぶつかり合っている世界……。私にとって、心身を酷使する過酷な世界でした。十数年勤めましたが、私はもう耐えられなかった。自分の良しとする方針に従って、束縛なく自由に生きたかったのです。
そして私は、コンサルタントという仕事と出会いました。コンサルタントという仕事は半自由業で、自分の考えたいように考え、行動したいように行動する。私の性格にぴったりの仕事でした。北は北海道、南は四国へと、新幹線や航空機、船で駆け巡り、中小企業主への経営アドバイスと地方自治体のマスタープラン参画に明け暮れました。体を沢山動かし、自分の考えでレポートを作成するというこの職業のありようが、私の心身を蘇らせ、生き返らせたのです。
日本で6年を過ごしたあと、国際協力調査プロジェクトにおける経済分析専門のコンサルタントとして、世界を舞台にすることになりました。文字通り世界を駆け巡りつつ、仕事に自分を捧げることができたわけですが、これは「数学的分析の分野で世の中に尽くしたい」「海外に行きたい」という学生時代からの夢と願望を叶えることにもなりました。日本航空に入社を決めたきっかけも、「世界を見たい」という思いが根底にありましたから。
石橋様の愛する「自由」が、石橋様ご自身をより広い世界へと導いたのですね。
様々な国々の現状を見て、「社会」について思うことは色々ありました。もちろん常に前向きな気持ちでいたわけではなく、ネガティブな気持ちに陥ることもあった。しかしそれ以上に、私は現地で人々の「善良な心」に出会い、その影響を大きく受けたのです。
私の長所でもありますが、私はどの国に行っても、その国のことが必ず大好きになりました。嫌いな国は一つもありません。出会った国が好きで、そこに住む人々が好きなのです。私は数々の国を訪れる中で、世界の人々は悉く善良で同胞である、という確信を確固なものとしました。そして、移動と調査のため絶え間なく体を動かし、新しい未知なるものと絶えず接触するというこの仕事は、私の天職でした。こうして私は、人生の後半を歓喜と高揚の中で紡ぐことができたのです。
私は皆様に、もっと「世界」を見て欲しいと願っています。今いる世界が全てではない。世界中に様々な「対立」や「戦争」がありますが、実際に世界を回ってその国々に住む人々に触れれば、戦争を起こそうなんて気持ちは絶対に起きないと思うのです。現地の人々に触れること、彼らのことを知って好きになるということ――人間への揺るぎない愛を育んで欲しい。人間の大本は善であると、胸を張って言うことができます。
私は職業柄、色々な国に行くことができました。読んでくださる方にとって、この本が「世界」との繋がりになればいいと思っております。日本という狭い世界で行き詰まっている方には、理屈を抜きにして、まず他の世界を見てきて欲しい。きっと考えが変わるはずです。狭い世界にこだわらないこと、即ち狭い自分自身を抜け出すことが必要なのです。
人の人生には色々ありますが、折角この世に生を享けた私たちは、何としてでも生き甲斐を持って幸せに生きなければなりません。自分をさげすみ、人を呪い、世の中を恨んで生き、そして死んでいっては、余りにも悲劇で、余りにももったいない。このようなことは絶対あってはならないことです。
私の人生を、長い葛藤と挫折から一転して歓喜と高揚に転じて、価値あるもの、意味あるものとした、その事実、その背景を、世間の皆様に知らせ、共有していただき、明日を生きる皆様の幸せに少しでも寄与したいとの一念から、筆を執った次第です。私はこの書籍を、ご自分の人生の舵取りが分からず右往左往して暗中模索をしている人、ご自分の人生を軽視して投げやりになっている人、この世の中を憎しみと怒りの目で見ている人、もう駄目だとご自分の人生に絶望している人……。このような人たちに読んでもらいたいと強く考えています。
最後に、「あくまでも前向きに生きる」という書籍タイトルに込めた思いをお聞かせください。
積極主義、行動主義、そして楽観主義に生きること。即ち、あくまでも前向きに生きること、逡巡・躊躇せず、とにかくやってみること、「大丈夫、きっと良くなる」と思うこと。
自分は善なる存在であり、この世の中も善なる存在である、ということを自覚すること。
無制限に人を許し、無条件に人を愛し、あくまで神の恩寵を信ずること。
私たち人間は、経済力、学歴や経歴、地位の如何にかかわらず、みな平等対等である、ということを認識すること。
美しい自然、あらゆるおいしいものにアクセスできるという状況、極限にまで発達した通信移動手段、極限にまで発達した医学と医療技術、等々、宗教の描いてきた天国での生活が、現実に目の前にある、ということを認識すること、等々――。
このように、この書籍を通じて伝えたいことは実に様々ありますが、一人でも多くの人たちが本書をお読みになって、ご自分に対する不信と嫌悪、世の中に対する憎しみと怒りの洞窟から抜け出て、絶望の深淵から這い上がって、立ち上がって、光明に向かって力強く歩み出して欲しいのです。かつては私も、その洞窟におりました。そこから抜け出し、その深淵から這い上がり、私は今、光明の只中におります。抜け出せない絶望はない、それは私という存在が証明しております。何よりもまず、今、歩き出すことです。
座右の一冊
聖書
著:不明
生き方を模索しているすべての人へ
ここが魅力
生き方を模索していた高校時代に、たまたま書店で聖書を立ち読みし、好奇心で買い求めました。まさか、それが以後の私の人生の指南書になると思ってもいませんでした。
読んでみると、その内容は、学術書のように理路整然としたものではなく、しかも日常の平易な言葉で書かれておりました。そして、それは、キリストと言う人が、時のユダヤの権力者たちの策謀によって、彼が愛し、そして救ったそのユダヤ人大衆からこともあろうに裏切られ離反されて、孤立無援の中で、十字架を背負わされて運び、罪人と一緒に、荒涼とした丘の上でその十字架に懸けられて息絶える、というものです。
我々の日常生活の中では最弱者、敗者とされるお方が、世界の20億という人達に神として信じられております。これは一体どういうことでしょうか。それは、この人の勧め、説かれた、すべての人に対する無制限の赦しと、無条件の愛、そして神の恩寵への信頼が、世の人々の心を捉えたからに他なりません。この心を持つことによって、人は、あらゆる状況のもとで、人生に対して前向きになることができます。
ヒストリー
- HISTORY 01 1956年 母の存在が自分を、心身ともに 成長させてくれた
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1956年 23歳
母の存在が自分を、心身ともに 成長させてくれた
この世の中で誰よりも一番愛した人、それは母でした。この心情は、誰にとっても真実であると思います。ここまで生き永らえて来られたのも、母の広大無辺で確かな私への愛の思い出に、心の奥底で支えられて来たからに他なりません。 母は現在の千葉県袖ケ浦市代宿の、東京湾を眺望する半農半漁の家の出身で、尋常小学校しか出ておりませんが、学歴など人間の価値や尊厳に何らの関係もありません。私は母が27歳の女盛りの時に生んだ子供でした。母は私が思春期に入るまで、その大きな真実の愛で私をすっぽり包み込み通しました。母の愛を通して私の見たこの世の中は、愛と善に満たされたものでした。人々は優しく愛情溢れ、親切で善良でした。それに応えて私も、優しい「良い子」であり続けました。 思春期に入った私は、弱い体と動揺した心を持った自分が、力と力の格闘の世界に突き落とされていることを悟りました。この変化に対して、私は無防備・無力の状態に追いやられました。母が世の中の現実を教えて、私を強く厳しく育てることをしなかったのを悔やんだ私は、母に反抗し、世の中に反抗反逆を試みましたが、それは私を一層不幸せにするだけでした。
- HISTORY 02 1965年 最愛の人との出会いと別れ
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1965年 32歳
最愛の人との出会いと別れ
そのような中、たまたま熊本県八代市出身の結城スエ子と出会い、結婚するに至りました。彼女は当初私にはとても優しく、美貌と映りました。結婚して、私は私の持っているありったけの誠と愛を彼女に注ぎましたが、彼女は殆どそれに応えようとしませんでした。彼女は地元の看護学校を優秀な成績で卒業し、その将来を嘱望されて、東京の新大久保にある国立病院に正看護婦として迎えられました。そこで過ごした、日本の高度経済成長期に当たる、恐らく10年ほどの期間において、彼女は純朴な田舎娘から世知に鋭い都会人に変身したものと思われます。東京という環境が彼女を変えてしまったのです。 私が自分より若干年上の彼女に無意識に母のイメージと役割を求めていたのが、禍の元となったとも言えます。彼女は5人の兄弟姉妹の末っ子として、父母兄弟の愛情を一身に集めて育ったと思われます。従って、彼女こそ私に甘えたかったに違いなく、私はその強い欲求に応えることができなかったのです。彼女はしばしば予告なしに子供を連れて実家に戻りました。 2人の子供が17歳と18歳になった時、離婚という形で、彼女は子供を連れて家を出て行きました。私達の結婚は私達を不幸にし、子供達をも不幸にしましたが、私自身としては、心を尽くし誠を尽くして彼女を愛し子供を愛したことに、満足の思いを抱いております。
- HISTORY 03 1988年 人生に輝きをもたらした恩人の存在
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1988年 56歳
人生に輝きをもたらした恩人の存在
54歳の時、良き友と私の願望・熱意と偶然とが重なり合って、(株)プロジェクト経済研究所という一民間小企業の社長、大野欽一氏に遭遇し、氏の下で、16年間国際コンサルタントとして、我が国と海外を往復する生活に明け暮れました。この会社は、JICA(国際協力事業団)を始めとする、我が国の途上国経済技術援助機関からの受注を専門とする会社でした。 氏は私より8歳年上で、名古屋に生まれ、東京物理学校(東京理科大学の前身)出身の秀才でした。独立する前は日本地震学会に勤めておられたそうです。名古屋人の手堅い経営手腕で、会社を成功裡に運営しました。 私は氏とは必ずしもうまが合いませんでしたが、氏のお陰で海外で縦横無尽にありったけの情熱を注ぎつつ働き、私の人生における黄金時代を築くことができました。もし氏に会わなかったら、私の人生はそのような輝きを放つことがなかったでしょう。このことを思うにつけ、氏に対して感謝の念の尽きることがありません。
- HISTORY 04 2006年 木更津へ転居、新たな仲間達ができる
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2006年 73歳
木更津へ転居、新たな仲間達ができる
73歳になった平成18年(2006年)、私は住み慣れた東京都国立市から千葉県木更津市に引っ越しをしました。両親はともに千葉県出身であり、私たち一家は私の少年期の一時期、現在の千葉市に住んでいたこともあり、血が騒いだというのでしょうか、引力に引かれるように、何となく老後をのんびりと過ごしたいとの気持ちに促されての転居でした。 知人も誰もいない私を、当時私の所属する地区の自治会の組長をしていらした越智孝行さんが、私達の地区の所属する東太田4丁目の会長さんに紹介したり、市内外の観光名所に案内したり、釣りに連れて行ってくれたりして、地域への同化・馴化を図ってくれました。 越智さんは私より6歳ほど年下です。九州出身で、現役時代新日本製鉄の君津製鉄所に勤務していた、と聞いております。彼は純朴、善良の権化のような伝統的日本人の典型で、東北出身の優しく飾り気のない奥さんと、夫唱婦随の模範的な仲睦まじいご家庭を営んでおります。 越智さんは、進んで拙宅の庭の畑を耕作し施肥してくれたり、折々に時宜を得たおいしい物を賜ったりします。彼を通じて、私は地域の人達と親しく交わり、よしみを深めることができました。彼は、私を木更津びいきにする水先案内人の役割を果たしました。
未来へのメッセージ
世間の人たち、特にこれからの日本を背負って立つ若い人たちに申し上げたい。
たくさん本を読んでください。読書の世界はこの宇宙のように広大無辺です。そこには、この世のあらゆる知恵が綺羅星の如く、無限に無数に横たわっております。今やその意志さえあれば、あなたはあなたの好みと要請に従って、あらゆる書籍を手にすることができる、そのような環境があります。読書を通じてあなたは、あなたの心のバリアーを次々となぎ倒し、乗り越えて、より新しいより広いより深い世界観を得ることができます。それにより、あなたはご自分の、独自の世界観を確立することができます。
狭い日本、狭い東京に閉じ籠もって、人々と闘っているうちに、世知に長けた、小賢しい、小さな人間になってしまわないでください。世間に対して防衛線を張り回らした、ネガティブ思考の可哀そうな人間になってしまわないでください。
地球はとても大きく広くダイナミックです。世界に飛び立つと、そこには、優しく、思いやりのある、正直で、善良な、様々な人たちがおります。思いもよらない美しい、或いは、不思議な自然を目の当たりにすることもできます。我が国の地方を旅すると、そこで、美しい自然の中で代々生きてきた優しく、親切で、素朴な伝統的日本人に出会うことができます。
世界に、そして地方に滞在し、働き、もしくは生活するうちに、私達は、知らず知らず、精神が浄化され、心にゆとりができ、心が前向きになり、人様に尽くそうという大きな魂を持った人間に生まれ変わることができます。
世界に羽ばたきなさい。地方に目を向けなさい。そこにあなたの人生を、幸せを決定づける鍵が転がっているかも知れません。あなたの人生はあなた自身が築き上げるものです。それを立派な掛け替えのないものにするために、今行動してください。遅過ぎるということはありません。