あらすじ
総合救急病院の院長の山本勇治と、美幸。勇治の妻、山本ななえ。勇治の取引先の証券会社の洋一。この4人の人間模様を描く。
ある日、夕刻時、勇治は高校時代の同級生、美幸にばったり会う。食事に誘った時から美幸に惹かれていく。妻のななえには無い物を感じてしまう。ななえは証券会社の洋一から一目惚れされてしまう。勇治は家庭を大事にしながらも次第に美幸におぼれていく。
山本勇治 病院の院長の仕事をしている。穏やかで責任感が強い。
坂下美幸 勇治とは同じ高校の同級生。既婚。
ななえ 勇治の妻。二人の子供がいる。
洋一 証券会社の営業マン。
ここ、さざれ総合救急病院は都会より少し離れたところにある。日勤の勤務を終えた看護師の美幸は今日の献立は何にしようかと、ぼ~と考えてエレベーターのボタンを押した。まだここに勤めて間もなく、2か月が経ちようやく仕事に慣れてきた頃であった。救急病院であるだけにシフトは厳しいのだが、案外と休みも多く感じていた。日勤の後、自宅に帰り夕ご飯の支度をして夫と一緒に食べそれから夜勤に向かうのだが、夜勤明けで朝の空が眩しい時は帰ってもすぐには寝付かれずに、洗濯をして干してからベットルームに行くことがよくあった。夜勤の時などいつも夫と夕ご飯を食べられないが、ほどほどのこの距離感がいつまでも新婚のようではないかと美幸は思っていたのだった。
夕食のメインのおかずは冷しゃぶサラダにでもしようかと思いながらエレベーターを待っていた。開いたエレベーターの中にはふたりの乗客がいた。三階から乗ろうとした美幸に
乗客のひとりが声をかけた。
「坂下さんじゃない?間違っていたらごめんなさい。坂下美幸さんではありませんか?」
「はい、え~と~どちら様ですか?」
太くて大きな声に美幸がびっくりしていると、笑顔いっぱいでまた美幸に話しかけてきたのである。
「山本勇治です。覚えてますか?八千代東の山本勇治です」
「あっ、山本君?山本君なの?」
美幸もやっと思い出した。
美幸はどちらかといえば控えめで内気で口数が少ない方であった。八千代東高校時代に、美幸は体育の授業の着替えの時にポケットから花柄のハンカチを落してしまった事があった。隣りの席だった勇治はどうしようかと思ったが、そのまま勇治は自分のバッグにしまった。月曜の朝、綺麗に洗ったハンカチを美幸に差し出した。すると、美幸はとても驚いた。勇治はハンカチを拾った時から美幸を意識するようになった。それから、放課後、一緒に帰ろうと勇治は何度か美幸を誘ったのだが、いつも答えはNOだった。勇治の淡い恋心は悲しく消えていった思い出があった。そんなことは勇治は忘れてしまっていたのだが、美幸の方が覚えていた。
エレベーターが1階をさして程なく着くともう一人の乗客が去った。勇治は美幸があの頃より少し瘦せたように感じた。どうして美幸がこんなところにいるのだろうか?誰かのお見舞いにでも来ていたのだろうか?さざれ総合救急病院の院長である勇治は不思議に思い美幸に尋ねた。
「坂下美幸さん、なんでこんなところにいるんだい?」
「ここで少し前から看護師をしています」
坂下は美幸の旧姓であった。
「山本君こそどうしてここに?」
「うん、そうだな~まあ、いいじゃないか」
勇治は笑って答えた。まさか、ここの院長だとは言いづらかったのである。いくら院長をしていても総合病院である。450床もある病院で新たに入った看護師を、到底、把握までしていられない。病院といえども経営していかねばならないのだ。国立ではない。皆の生活が勇治にかかっている訳で、患者がいて医師がいる。看護師がいる。そして様々なスタッフがいる。勇治はその仕事を苦だと思ったことはないが、小さなストレスは確かにあるのであった。トップは孤独である。
同じエレベーターに偶然乗り合わせたことは勇治にとってとても嬉しい出来事であった。高校時代の頃のように誘っても振られるかも知れないが、このまま別れたらずっと後悔するだろうと思い、
「坂下さん、ご飯でも食べていかないかい?」
美幸ははっとして少し考えていた。すぐに、はい、とは言えないのである。
「この近くに野菜中心の和食屋がある。どうだい?」
美幸は少し困ってしまっているのだが勇治はまた、
「どうだい?」
と尋ねた。美幸は、ちょっと電話をしてきますと言うと、エレベーター横の非常階段奥に消えて行った。勇治は考えた。夫にかけているのだろうか、それとも違うのか、美幸が独り身だとは思えないでいた。急の用事の言い訳はどう話しているのか少し気になる勇治であった。そして、2、3分程で美幸は勇治の所まで戻ってくると、
「ごめんなさい。お待たせして。少しの時間なら大丈夫です」
「無理を言って悪かったな」
「いいえ」
それだけを言うと美幸はまわりの目を気にして俯いたのだった。
和食屋の『野ら』は勇治が時々行く店だった。いつもひとりで行っていた。ここの料理はもちろん美味しいのだが、器量のいい着物の似合うママがかもし出すなんとも言えない空気が勇治はとても好きであった。仕事場や家庭から離れて何も考えずにここで、お酒を飲むのをとても楽しみにしている日常があったのである。そこ、『野ら』に勇治は美幸を誘った。暖簾をくぐるとママはいつもの笑顔で迎えてくれた。勇治のすぐ後に美幸が顔を出すと、
「あら、今日は珍しい方をお連れなのね」
とママは二人をからかった。ママはいつものカウンターではなく、奥の半個室に案内したのだった。すぐに、勇治は美幸に何も聞かずに、
「まずはビールね。グラスを二つ頼むよ」
ママは熱いおしぼりをまず、勇治に差し出した。そして美幸にも手渡すと目だけ笑ったのだった。美幸はママの目が見れなくてうつむいたままでいた。
すぐにママがいなくなると
「君は何が食べたいかい?ここは野菜の美味い店だ。遠慮せずに何でも頼むといいよ」
「はい」
美幸はか細い声で返事をした。
ママがビールと冷えたグラスをテーブルの上に置くと、お二人きりでいいかしら?と言い笑いながら他の接客に行ってしまった。
勇治は美幸にグラスを持たせ冷えたビールを注いだ。そして、美幸が勇治にビールを注ごうとすると、
「いいんだ、俺は、これがいいんだよ」
手酌で冷えたグラスに泡3割で注ぐと乾杯をした。勇治はことのほか嬉しそうに美幸を改めて見つめた。ピンクの小さな花柄模様のブラウスに、紺のスカート、そして黒のパンプスを履いていた。高校生の美幸はもっとふっくらしていたなと感じていると、
「恥ずかしいわ」
「いやさ、何十年ぶりに会う初恋の相手だからさ」
「そんな、噓ばっかり」
勇治は大きな声で笑い、ビール一気に飲み干した。
ママがお任せの料理をテーブルの上に置くと、勇治はママにいつものやつね、と伝えたのである。少したつとママは大きな丸い氷をどっしりとした透明のグラスに浮かばせて持って来た。勇治はゆっくりと、くゆらせながら楽しんでいる。
「君もどうだい?」
「私はあまり飲めません」
「そうなのかい。これは面白い酒でね、クラシック音楽を蔵に流してもろみに聴かせて発酵させるんだよ。大吟醸、交響曲、くらしっく、蔵に生粋の粋と書いて、蔵粋だよ。喜多方の酒なんだが、グランプリをいくつも取っているらしいんだ」
勇治は冗舌になりご機嫌である。そんな時に美幸はちらと腕時計を見た。午後10時を少し過ぎていた。
「申し訳ありません。この辺で失礼します」
「そうか、今日は無理を言ったな。送って行くよ」
「大丈夫です。ひとりで帰れます」
「わかった。悪酔いした連中も電車に乗っているかもしれない。タクシーで帰りなさい」
勇治は『野ら』のママにすぐにタクシーを呼ぶように頼んだ。
「すみません」
「いや、俺が悪いんだ、急に誘ったりなんかして。ご主人に悪かったね」
勇治はタクシー代を無理やり美幸の小さな手に握らせた。美幸のその手に触れたとたん、勇治は、ストンと恋に落ちた。ストン、ストン、ストン・・・
それから、勇治は時々美幸を『野ら』に誘ったのである。三回誘って一回だけ付き合ってお供するような美幸だが、それでもことのほか嬉しい勇治であった。が、やはり夫と言う男に遠慮もあるだろうし、そうそう家を空けられないだろう。なんて言い訳をしているのか勇治にはわからない。だが、美幸は『野ら』の雰囲気が好きな様子であった。
『野ら』のママは美幸を、みーちゃんと呼ぶようになっていた。『野ら』に通いだして半年以上過ぎていた。美幸の高校時代のニックネームはみーちゃんであったとママは聞いた。なじんだ名前の響きとママの細やかな配慮が勇治は嬉しかったのだ。
美幸はアスパラガスの天ぷら、銀だらの煮付け、里芋の煮っころがしが好物だった。勇治も美幸の好きな物は勇治も好きだった。『野ら』のママはそんな所も二人はお似合いねと、よくからかったりしていた。
ある日、『野ら』で二人は食事をしていると、外にはいきなり大粒の雨が降ってきた。瞬く間に視界がゼロになった。二人は慌てて『野ら』をあとにするとタクシーを止めるために何度も手を上げたが空車の車はなかなか来ない。ようやく一台つかまり二人して乗り込んだ。運転席の後ろの美幸はミニタオルで自分の肩や膝あたりを拭いていると、勇治も濡れた背広をハンカチで拭いた。
「悪かったな」
「いいえ」
それだけを言うと、二人は黙ってしまった。勇治と美幸は帰路につこうとしていた。が、いきなり、勇治は運転手に都内の某有名ホテルの名前を告げた。そして、そっと美幸の手に触れた。そしてから、ぎゅっと握った。もっと、もっと、強く握った。美幸の反応がない。 すると、勇治は美幸の耳元まで近づくとこう言った。
「今日はこのまま君を返したくない。だめかい?」
ビオラの夜 【全5回】 | 公開日 |
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