楽しい夏休みも終わり二学期が始まってしまった。秋が何となく物悲しいのは、夏休みが終わってしまった心の寂しさのせいなのかもしれない。
母親に起こされて、顔を洗い、朝飯を食って、弁当を持ち、自転車に乗り学校へと向かう。そんな毎日の始まりだった。
またくだらない授業を受けなくてはならないのかと思っていたら、面白い授業に出会うことができた。物理の授業だ。
物理は、計算演習や、計算の応用などが多い。力学や波動、振動、熱力学の計算演習など、なぜか計算するのは楽しい。それに、音のスピードは一秒間に三四○メートル進むとか、光は一秒間に地球七周半進むとか、聞いていても楽しい。
しかし、それよりもっと楽しい時間があった。物理の授業は、一年の歴史的な建造物から、鉄筋コンクリート三階建ての近代的な建物に移動して行われるだけでも楽しいのだが、物理の先生が、生徒たちの座る席を決めずに自由に選ばせたので、好きな場所に、気の合う仲間と一緒に座ることができたからだ。
俺は、一番後ろの目立たない席を選んで、サッカー部の黒田仁と並んで授業を受けることにした。
力学では、「運動方程式」や「運動量保存の公式」、「エネルギー保存の公式」、「反発係数の公式」などそれぞれの公式を学んで、位置や速度や時間などを計算しているのは楽しいのだが、その間の説明はいらないような気がする。公式の意味など説明されてもわからないし、難しすぎる。計算だけできればいいと思った。
そこで、この説明している時の空いた時間に、ノートの端に物理の先生の似顔絵を描いて隣に座っている黒田に見せてみた。黒田は俺の描いた似顔絵を見て、思いっきりうけて笑いたかったが、授業中なので笑いをこらえ、手で口を押さえてくすっとしていた。俺の描いた似顔絵は物理の先生には全然似ていなくて、この世にはいない動物のようだった。俺には絵の才能もなかった。俺にはなんの才能があるのだろう。このまま、なんの才能も発揮されずに、下界の生活が終わるとは考えられないので、どこかで、「ドカーン」とびっくりするような才能が発揮されるに違いない。楽しみだ。
黒田が自分のノート端に何かを描き始めた。数分で描き終わって、俺に絵を見せた。その絵は、マンガチックなのだが、物理の先生そのものだった。描いた絵が写実的ではなくて、マンガチックなところが俺にもうけた。「黒田にはマンガの才能があるのかもしれない」と思ったら、エスカレートしてしまった。
俺からすれば、公式の計算などをやっている時以外の、無駄な時間の有効活用なのだが、黒田は真剣だった。ノートの端に犬を描いて黒田に見せると、数分で数匹のマンガチックな犬を描いて俺に見せてくる。この犬の表情が素晴らしい。
描かれている犬が飛んだり跳ねたり、横を見ていたり下を見ていたり、舌を出していたり笑っていたりと、バラエティ豊かに描かれている。まるで生きているかのような、のびのびとした表情の犬たちがノートの中にいる。もはやノートの端ではなく、ノート一面に犬たちが踊っていた。
黒田も物理の授業中であることを忘れているわけではない。授業中に出された計算問題や公式の説明などは、ノートの前から順番に書いていて、マンガはノートの後ろのページに描いてあるので、授業中に先生が席を巡回して来たときは、ノートを前に送りまじめに勉強しているふりをする。
そしてまた、先生が前の黒板のところに行き説明を始めると、俺が黒田にお題を出すといった具合だ。黒田の描いた犬のマンガが面白かったので、動物シリーズをリクエストしたのだが、この日は象までで時間となってしまった。
この次の授業は、動物シリーズの続きから始めることになった。後ろの席にいる二人が授業中に、にやにや笑いながら何かをやっているのは、先生も気づいていたみたいだが、授業全体の邪魔をしているわけではないので、この時は放置していたのだ。
先生に放置されていることを良いことにして、俺はエスカレートする一方で、黒田は才能を伸ばす一方だった。
その後、動物シリーズのキリンやライオンなどをリクエストする。黒田は期待にこたえようと描くのだが、俺がその絵を見て首をかしげて、「いまいち」みたいな顔をすると大変なことになる。黒田は授業などそっちのけで、作品の制作に没頭して、自分が納得できるまで、消したり書いたりを繰り返す。
俺は黒田の作品ができる間に、物理の公式の計算などに真剣に取り組んでいる。おかげで俺は、物理の授業に遅れることもなく、同時に素晴らしいマンガも楽しむことができた。
黒田は、納得した作品ができ上がると、自慢そうにノートをそっと出して俺に見せる。でき上がった作品は本当に素晴らしい。描かれている動物たちの顔は生き生きとしているし、動きも躍動感を感じさせる。それなのに全体はマンガチックなので、見ていると思わず笑みがこぼれてくる。俺の才能は開花していないが、黒田の才能は開花し始めた。
その後も物理の授業のたびに黒田にテーマを出し続けた。動物シリーズの熊やタヌキ、キツネなどのテーマに対しても黒田は物理の授業よりも真剣に取り組んで、傑作を生み出していった。飛んでる鳥シリーズ、飛べない鳥シリーズ、爬虫類シリーズ、昆虫シリーズ、魚シリーズなどと続き、その都度、黒田の才能は無限大に伸びていった。
俺はというと、黒田にテーマを出してから、黒田の作品ができ上がるまでは、真剣に物理の授業を受けているので、授業に遅れているわけではない。しかし黒田は、作品の制作に没頭するあまり、物理の授業はほとんど耳に入っていない。黒田のノートは、授業のページよりマンガのページの方が多くなっていった。
そしてある日、物理の授業が終わった後に「黒田、お前は真剣にマンガの道に進んだ方が良いと思うのだが」と問いかけてみたが「それは無理だろう」という答えが返ってきた。本人には漫画家になる気はなかったようだった。
そんな楽しい時間を過ごしていたら、悲劇は突然訪れた。
物理の先生が「今日は、中間テストを行う」と言って、問題用紙を配り始めたのだ。「今までの授業で教えた問題ばかりだから、そんなに難しくはないはずだ。でき上がった順に前の教卓の上に問題用紙を置いて退席するように」と言ってクラス全員に問題用紙を配り終えると、「カンニングは許さんぞ」と言って席の間を巡り始めた。
物理の先生は、普段から一番後ろの席で、こそこそと何かをして、にやにやして授業など聞いている素振りなど皆無だった俺たち二人を重点的に監視していた。カンニングなどできる状態ではなかった。
俺としては、普段からまじめに授業を受けていたので、出題された問題の計算を解くことは楽しい作業だった。クラスの中でも早く解答ができ上がった。俺たち二人の周りを重点的に巡回していた先生は、俺の出来上がった問題用紙に目を通し、「緑川は、教卓の上に用紙を置いて退席して良いぞ」と言ってくれたので、問題用紙を提出し、机に戻って教科書や文房具などを片付けて退席することができた。
自分の席に戻った時に、ふと横を見ると、問題用紙を睨みつけたままで動かない黒田がいた。解答は出てこないが、脂汗は出ていた。脂汗をかきながら頭をかきむしっているだけだった。「どうせ解答が出てこないのならば、磨き上げたマンガでも描いておけば良いのに」などと無責任なことを思いながら物理の教室を後にした。休憩時間が十分も多くなったことは、喜ばしいことだった。
休憩時間が二十分になったからと言っても、他の人たちが授業中で静まり返った校舎内では、心が安らぐことがなかったので、敷地の西側にある自然公園に行ってみることにした。一人で公園の遊歩道を歩いていると、木々の間から木漏れ日が差し込んで、なんとなく神々しい感じだったのだが、やはり一人は寂しかった。五分で寂しさに負けて校舎に戻る事にした。校舎に戻ってみると休み時間になっていたので、南北の通路に生徒たちが出てきて騒がしくなっていて安心した。
俺がこんなに有意義な休み時間を過ごしていたのに、教室から出てきた黒田の顔には生気がなかった。まったく歯が立たなかったらしい。マンガにのめり込んじゃうからいけないのだ。俺のように勉強している時と、マンガで楽しんでいる時とメリハリをつけなくては、世の中は渡って行けない。とりあえず、俺はテストが上出来だったからよしとしよう。
物理のテストの採点は、すぐにはできないだろう、と思っていたら早かった。次の物理の授業の時にはもう採点されたテスト用紙がクラス全員に返された。六組ある全クラスで中間テストを行ったのならば、テストを行うだけでも一週間はかかるはずで、テストを行った順に採点していったとしても、最初にテストを返せるのは一週間後ということになるはずだ。不思議に思ったので、他のクラスに聞いてみたら、「中間テストなんかなかった」という返事が返ってきた。
どうやら、一番後ろの席でこそこそと何かをしている二人を懲らしめてやろうというテストだったらしい。その「懲らしめ」に黒田はものの見事にはまったのだ。テストの結果は、俺は一〇〇点で黒田は零点だった。他の生徒たちにもテストを返されたが、「いや~難しかったな」とか、「こんな点数かよ」などと言っている。
どうやら、物理の公式や計算は、授業をまじめに聞いていても難しいらしい。
「一〇〇点は、緑川一人だった。次は七五点の中山だ。平均点は五五点だった。結構、難しかったみたいだな。一人だけ零点の奴がいた。黒田だ。黒田は罰として、今から一番前で授業を受けるように」
ということで、黒田は教科書とノートを持って一番前の席へ移動した。せっかく楽しく物理の授業を受けていたのに、黒田と引き離されてしまった。しかし、俺だけが一〇〇点だったのか、やっぱり俺は天才だ。それにしても、マンガの天才である黒田の力作が見られないのはさびしい。引き離されてしまっては、黒田の能力もこれ以上伸びないだろう。
「黒田の潜在能力を引き出したのは俺だ。俺に黒田を預けてくれ」と思ったが、二度と黒田が隣の席に来ることはなかった。つまり、黒田は一番前の席に移動し、まじめに授業を受けていたのだが、学期末テストも赤点だったのだ。
黒田はマンガにかける情熱もなくなってしまったようで、本当に、天才漫画家であるはずの黒田の能力はこれで終わった。