神様からの「お声」がかからないまま、高校二年になってしまった。一年の時は五組だったのだが、二年は四組になった。クラスが再編され、うれしいことに俺の「マドンナ」である保科彩加と同じクラスになった。
「やっぱり神は偉大だ」保科彩加が一人でいると、つい寄って行ってしまい話しかけている俺がいた。しかし、世間はそう甘くなかった。すぐに二~三人の女子に邪魔された。彼女たちは、最初のうちは二人の横にいるのだが、そのうちに彩加と俺の間に割り込んでくる。
結局、彩加は遠くへ離れてしまい、彼女たちと会話をする羽目になる。一年の時に俺を取り囲んでいた暇つぶしたちとは、クラスの再編でオサラバできたのだが、また新しい暇つぶしたちが再編されようとしている。結局、俺の高校生活は、ずっとこんな調子なのかもしれない。
「こんな奴らに負けてたまるか」と思い、彩加が一人でいるところを狙い続けるしかなかったのだが、なかなか彩加とは仲良くなれなかった。
高校の修学旅行は、二年の時に予定されている。三年になると、進学や就職活動などで忙しくなるので、修学旅行は二年の時に行くことになっているわけなのだが、春に行く場合と、秋に行く場合とがある。修学旅行に行く時期が、明確に決まってはいないようだが、修学旅行の場所が決まったら、泊まる旅館の空き状況や、観光地のスケジュールなどによって旅行会社と打ち合わせしていく中で決まるようだ。
学校としては、毎年、修学旅行に行っているので、前年の修学旅行が終了した時点で、その年の修学旅行の良かった点や悪かった点などの反省点を踏まえて、翌年のスケジュールを決めているみたいだ。今年は春に修学旅行を実施する予定ということで、六月前半の梅雨時期になる前に行くことになった。担任の先生から、修学旅行の場所は、生徒たちにアンケートを実施して決めると言われ、修学旅行まであまり時間が無いので、二年生になったばかりの四月にアンケートが実施されることになった。
一週間でアンケートを取りまとめて、四月中には修学旅行の場所を決めるという。クラスメイトたちと相談しながら、希望する修学旅行の場所をアンケートに記入するのだが、中学の時に京都を中心とした関西方面に行っているので、別の方面に行きたいという意見が大半を占めた。男子は、北海道や九州、沖縄などと意見が分かれて、女子は、やはり京都という声と、北海道や四国という意見になったようだった。
四月末に修学旅行の行き先が、京都プラス四国と発表された。
「それは変だろう。どう見ても北海道が一番多いはずだ」と思ったのだが、担任の説明は違った。「京都以外は、票が分散して伸びなかった」と言うのだ。「しかし、京都だけでは中学の時の修学旅行と一緒になってしまうので、希望のあった中で京都に一番近い四国をなんとか修学旅行に組み込むことになった」と言うのだ。俺の心の中には、もしかして、去年からすでに京都の旅館と契約していたのではないか、という疑問が残った。旅行会社の人に「修学旅行まで二か月しかないのに、いまさら別の場所に宿泊先を変えるのは無理です」と言われ、先生方で相談して、京都の票が一番多かったことにしたのではないかと思う。なぜもっと早く「アンケート」を取って行き先の検討をしなかったのか、疑問だった。
「アンケート」など一年生の時に実施しても良いではないか。五月中旬に修学旅行のスケジュールが発表された。一日目は、東京駅集合で、各自がそれぞれ電車で東京駅まで行き、東京駅の集合場所で切符をもらい、東京から新幹線で岡山に行く。岡山で瀬戸大橋線に乗り換えて、四国・香川県の高松駅に向かう。途中で電車を下車して、昼食を食べている時間がないので、電車の中で弁当とお茶を配るから、一日目の昼食は弁当ですませる。
「何だよ、まるでどこかの企業のやっつけ仕事じゃないか」と思ったが、どこかの企業のやっつけ仕事自体がわからなかった。どっかでそんな言葉を聞いただけだった。「京都以外にも行けるのであれば、少しは我慢しないと」と思いながら周りを見渡すと、周りも皆思いは同じだと言わんばかりの顔つきだった。高松駅に着くのは午後三時前なので、高松市内では栗林公園だけを観光して、夕方には、高松港からフェリーで小豆島に渡り、一日目は小豆島に宿泊する。小豆島には魅かれた。この時だけはなかなか良い旅のプランを考えたなと思ったが、先生たちにも小豆島は魅力的だったのだろう。旅のプランは、旅行会社が組み立てて、学校に提示し、学校からの許可が出ないと交通機関や宿泊先などの手配ができない。二か月前に四国を修学旅行に組み入れるのは、大変な作業だったと思う。学校側も公立校の場合は、教育委員会の許可をもらわなくては、旅行会社に返事ができないので時間がかかる。
教育委員会によると、修学旅行とは、「楽しい思い出作りの旅」ではなくて、「生徒たちが、歴史や街の成り立ちなどを学べる旅」という大義があるので、学校側も教育委員会の許可を得るためには、それなりの制約を受ける。うまく説明しないと、せっかく旅のプランを立てても、また最初からやり直しになってしまう。それでもこの短期間で、小豆島を旅に組み入れたのは旅行会社のお手柄だ。先生たちのお手柄ではない。あくまでも旅行会社のお手柄だ。二日目は、午前中に小豆島のオリーブ園を観光して、午前中のうちにフェリーに乗り込み、高松へと向かう。高松からは予讃線に乗り、そのまま瀬戸大橋船に乗り継いで岡山に向かう。岡山から山陽新幹線で京都へと向かう。京都には夕方着くので、そのまま旅館に直行する。
小豆島からは、新岡山港や、姫路港へもフェリーが出ているのだが、新岡山港から新幹線の岡山駅までは約一○キロあり、姫路港から姫路駅までは六キロあるので、いずれも移動が難しい。その点、高松港から高松駅へは二○○メートルしかないので歩いて移動ができて、すぐに電車に乗り京都へ向かえるので便利なのだ。三日目は、一日中京都散策、四日目は、午前中に京都のお土産などを購入し、午後に帰宅する。以上が発表された修学旅行の全日程だった。日程が三泊四日なので、水曜日に出かけて、土曜日に戻ってくることになっている。日程的には文句はないのだが、結局、小豆島に一泊して、後は京都に二泊するのだから、やっぱり、何だか去年から宿泊先が決まっていて、今年の修学旅行を組み立てたことは、誰の目にもあきらかだった。しかし、文句が言えるような立場ではないので、黙って先生たちについて行くしかなかった。五月中旬のスケジュール発表から二週間が経ち、修学旅行の当日となった。
色々と文句は言っていても、数日前から気持ちはわくわくしていた。クラスの他の生徒たちも気持ちは一緒で、この二週間は修学旅行の話題で持ちきりになり、誰も勉強のことなど頭にない様子だった。修学旅行には、どんな服装で行くのか、鞄はどうするのか、ガムやチョコなどどのくらい持っていくのか、お金はいくらくらい持っていくのかなど、話題は尽きない。
俺はおしゃれにはあまり興味もないので、下はジーンズ一本はいて行けばいいし、上はシャツが三枚もあれば十分だし、両親はお土産などいらないと言っているからお金もあまりいらないし、ということで荷物を少なくまとめようとしたのだが、母が許さなかった。ズボンは別にもう一本は持って行けだの、雨が降って寒い日があるかもしれないから、シャツの他に上着を持って行けだのと言われ、荷物が多くなり、結局、普通の旅行バッグに荷物を詰めていくことになった。
カメラは父が使っているカメラを借りて持っていくことにした。お土産などいらないと言うわりには、母がお金を少し多めに持たせてくれたので、みんなとはぐれても、どこかの旅館とかホテルに一泊ぐらいはできそうなほどだった。そんな具合で、修学旅行一日目の朝がきた。
一日目は、東京駅構内の広場に九時三十分集合予定で、各人が家の最寄り駅から数人で集まって、東京駅に向かうことになった。俺も最寄り駅から、集まって来た生徒たちといっしょに上野駅まで行き、そこで山手線に乗り換えて東京駅に向かうことにした。上野駅に午前九時過ぎに着いた時には、他の生徒たちとも会えたので合流して、山手線に乗り換えることになった。良く見ると集団の中にマドンナもいたのだ。午前九時過ぎの上野駅は人が多く、移動が大変で、山手線のホームにたどり着いたときには、なぜか保科彩加と並んでいた。
なぜだかわからない。「ありがとう神様。やっぱり神は偉大だ」と思いながら、彩加と並んで山手線の電車に乗り込んだ。彩加だけしか見ていなかったせいなのか、気が付くと、混雑している電車の中で、彩加と二人だけがサラリーマンたちに囲まれてしまった。さっきまでいたはずのわが高校の生徒たちの姿がどこにも見当たらない。彩加も俺も旅行バッグを床に下ろして、満員電車の中で、はぐれないように見つめ合った。こんなに見つめ合ったのは、初めてのことだ。
しかし、満員の乗客の中では声に出して話はできず、彩加は目で俺に「東京駅に着いたら一緒に降りてね」とささやきかけていた。俺は彩加を見ながら「こんなチャンスは二度と来ない。このまま彩加の手を握り締めて、東京駅では降りずに、どこかへ二人で行ってしまおうか。幸いお金もあるし」などとよからぬことを考えていたのだが、電車が東京駅に着くと、俺たちの周りにいたサラリーマンの人たちも、電車からぞろぞろと降りたので、俺たち二人も押し出されるように何の抵抗もできずに、流れに乗り東京駅のホームへと降り立ってしまった。ホームに降り立ち、周りを見渡すと、残念ながら、同じクラスの生徒たちも少し離れた場所にいたので、合流して待ち合わせ場所へと向かうことになった。俺のささやかな野望は露と消えた。
あの時、彩加の手を握り締めておけばよかった。せっかく神様がくれたチャンスなのに、また俺は、しくじってしまった。
「人の恋とは、なかなか成就しないものだな」としみじみと思った。そんなことを考えていたら、山口茜のことを思い出してしまった。俺には女子高も遠かった。天使には、他人の恋の橋渡しはできても、自分では女心を捕まえることができなかった。東京駅の広場に行ってみると、引率の先生たちはすぐに見つかった。二年生全員と引率の先生を合わせると二四○人以上になり、広場に収まりきらないので、広場に来た順に、指定席の切符が渡され、新幹線のホームへ移動するよう指導されていた。それで引率の先生たちと数人の生徒たちしか集合場所にいなかったので、すぐに見つかったのだ。広場で指定席券をゲットして、新幹線のホームに行くと、三車両が貸し切りとなっているので、ホームのその部分だけが高校生でにぎわっていて、すぐに行くべき場所がわかった。
そのうちに新幹線の車両がホームに入線してきたので、順番に中へと入り、自分の席を探す生徒たちでにぎわった。みんなが自分の席に座って、発車時刻を待っていると、先生たちが「誰か、佐藤誠と、川村剛志を見掛けた者はいるか」と大声で二人を探していた。どうやら呼ばれている二人は、遅刻しているらしい。日本人は集団で行動することにたけている。二四○人以上もいるのに、遅刻して現れないのはたった二人だけなのだから、素晴らしい。素晴らしくても二人が現れないので、引率の先生が二人残って、駅の広場まで戻り、二人と出会い次第、後続の新幹線で追いかけることになった。
大多数の生徒たちを乗せた新幹線は、予定時刻に東京駅を出発して、一路岡山を目指した。東京を午前十時に出発して、約二時間四十分後に京都駅を過ぎ、十二時を回ったので、車内でお弁当とお茶が配られた。京都から岡山までは約一時間二十分かかるので、このタイミングなのだろうが、また京都だ。旅行会社の手配はすべてが京都につながっているような気がした。
「十二時より少し早いかもしれないが、浜名湖のウナギ弁当だってあるだろうに」そう思いながら周りを見渡すと、そんなことを考えていたのは俺だけだった。周りのみんなは、そんなことなど気にもせず、楽しく談笑しながら、弁当を食べていた。弁当は、駅などで良く見かける「幕の内弁当」だった。良かったことは、お茶が温かかったことぐらいだった。
弁当の空箱などのゴミを集めるように、二人の生徒が指名されて、ビニール袋を持たされて集めていた。よかった、俺が指名されなくて。俺はそういう係には向いていない。新幹線は順調に岡山駅に到着し、瀬戸大橋線へと乗り換えて、高松駅へ向かった。高松駅には午後三時ごろに到着した。小豆島に渡るフェリーの時刻が午後五時三十分なので高松の滞在時間は、約二時間半だ。予定では、栗林公園を観光することになっているのだが、高松駅から栗林公園までの移動時間や、フェリー乗り場での待ち時間を考慮すると、栗林公園での滞在時間はわずか三十分しかない。
「どうしても栗林公園を、見なきゃいけないのかな」と自分だけは思ったが、修学旅行の行程は、粛々と進められた。高松駅から歩いて五分のところにあることでん琴平線の高松たかまつ築港ちっこう駅から、三駅先にある栗林公園駅に向かう。ことでん琴平線は二両編成なので、全員が乗り切れず、四組から六組は二十分後の電車になってしまった。
一組から三組までは、先の電車で向かったので、午後三時四十分には栗林公園に着いたのだが、帰りの電車もまた、分散しなければならないので、滞在時間は四十分だった。四組から六組までは、栗林公園に着いたのが、午後四時だったので、滞在時間は三十分しかなかった。栗林公園は大きな池がある単なる庭だった。栗林公園からことでん琴平線で高松築港駅に戻り、徒歩で高松港に行き、フェリーに乗って小豆島へと向かったのだが、瀬戸内海は広くて、島々が点在している景色は素晴らしく、栗林公園に行って池を眺めたことをすっかり忘れてしまった。
高松港から小豆島の土庄とのしょう港まではちょうど一時間の乗船で、土庄港に着いたのは夕方六時三十分だった。六月のこの時期の日の入りは午後七時ぐらいなので、辺りはまだ明るかった。
土庄港には大型バスが三台待っていたのだが、全員が乗れないのでどうするのかと思っていたら、旅館までバスで十分かかるということで、またまた四組から六組は港で三十分の待ちぼうけだった。旅館に向かう頃には、夕日がきれいな時間帯になっていた。旅館は海ぞいにあって、海が夕日に照らされて、キラキラとしてとてもきれいだった。この景色が見られただけでも、小豆島に来てよかったと思った。
旅館のお風呂は大きくて気持ちよかったが、風呂場でみんなで大騒ぎして先生に怒られた。修学旅行の旅館では、高校生が夜中まで大騒ぎをするのはお決まりなので、仕方がないと思う。
夕食の刺身は、いつもスーパーで買ってくる馴染みのあるような色艶だった。やはり味もいつもの味だった。天ぷらも普段、家で食べている味だった。普段から良く食べているソウメンが一番うまかった。
夜もまた、みんなで大騒ぎして先生に怒られてから寝た。目が覚めたら、二日目の朝だった。修学旅行用の旅館の朝食を食べて、荷づくりをして玄関を出ると、なんと駐車場には大型バスが六台も止まっていた。今日は、待ちぼうけはなさそうだった。大型バスで、オリーブ園に行ったのだが、高校生の我々には、オリーブは早すぎた。
誰一人興味を示す者がいなかった。俺はみんなとは違い、小豆島のオリーブは、大正時代に最初の木が植えられたことを聞いて感心した。感心しただけでも自分は偉いと思った。オリーブ園を出て土庄港へバスで行き、土庄港からフェリーに乗って、高松へ行って予定通りに電車に乗って京都へと向かった。
またお昼は、高松からの電車の中でお弁当とお茶を渡された。どうやら、小豆島にも、高松駅周辺にも、一度に二四○人が入って食事をする場所がないようだった。そして、予定通りに二日目の夕方には京都駅に着いた。京都駅からバスに乗って旅館に向かっているときに、何もすることがないので、一日目と二日目を思い出してみたのだが、電車やフェリーで移動している時間が多く、観光したのは、高松の栗林公園と小豆島のオリーブ園だけだった。
栗林公園やオリーブ園よりも、フェリーで移動している時に見た綺麗な瀬戸内海が一番良かったように思えた。バスが二日目に泊まる京都の旅館に着いた。京都の旅館は、修学旅行慣れしていて、一度に一〇人が泊まれる広い畳の部屋があった。夕食には、だし巻き卵が出たのだが、味が薄すぎて、だしの代わりに水を入れてのばしたような水巻き卵だと思った。
旅館としては「どうせ高校生には京料理の味などわかるわけがない」と思っているのか、それとも、宿泊代を他の旅館と競争した結果、だし巻き卵の味が薄くなってしまったのかは定かではない。
この旅館に三日目も泊まるのかと思ったら憂鬱ゆううつになった。三日目は京都のお寺や神社を回って歩いたのだが、俺は「家の近くにある寺や神社とあまり代わり映えしないな。ちょっと規模が大きいだけじゃないか」と思ってしまった。
あくまでも京都の良さがわからない俺だった。周りのみんなの様子をうかがって見たのだが、みんなも京都の良さなどわかるはずなどないといった顔だった。結局、三日目の夕食も京料理の味がわからなかった。四日目は、午前中に京都市内へお土産を買いに行ったのだが、両親からお土産はいらないと言われているので、やることがなかった。
木刀もペナントも金閣寺の模型も、おもちゃの刀もいらないはずだ。しかし、母親からお金も渡されていたので、何も買わないわけにもいかず、漬物を買った。奈良漬だった。やっぱり京料理がわからない俺だった。四日目の午後には京都駅から新幹線に乗り、東京へと戻ってきた。新幹線の中は、行きの元気な高校生たちはどこにもいなくなってしまい、車内はしんと静まり返っていた。家に帰りつくと何だか安心して、次の日は日曜日なので、お昼近くまで寝てしまった。こうして高校生活で最も楽しいと思われるイベントが終了した。