著者プロフィール                

       
マドンナ|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 〜(その8)

由木 輪

1956年、東京都出身
ごく普通の家庭に生まれ育ち、大学を卒業後、東京に本社がある会社に就職しました。自分の意に添わず、幾つかの会社に転職することになりましたが、60歳になり会社員で定年を迎えました。定年しても年金がもらえるわけではなく、生活のために別の会社で働くことになりました。定年後の職場では、時間的にも精神的にも余裕が出来て、以前から書きたかった小説を書き始めました。みなさんに面白いと思っていただけるとうれしいです。

マドンナ|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 〜(その8)

入学してからすぐ学校のアイドルになった女子が一年六組にいる。もうとにかく、かわいい。顔はお人形さんみたいで、体形もスリムでしなやかだ。保科彩加だ。
俺とはクラスが違うので、もちろん話をする機会などなかったのだが、廊下などでは何度も出会うので、何となく目が合ったようなふりをして見ているのだが、相手はまったく俺を見もしなかった。「何となく目が合ったようなふり見」の名演技が無駄だった。

いつも遠くから眺めているだけだったが、ある日チャンスが訪れた。南北の通路で偶然に遭遇したのだが、彼女は本を一○冊ぐらい抱えて持っていた。図書室から借りてきて、自分のクラスに持っていくらしい。小学校の時に「学級文庫係」というものがあったが、そのような係をしているのかな、そんな係あったかな。少なくとも自分のクラスにはそんな係はない。彼女が率先して、クラスの生徒たちのために、図書室から本を借りて来ているのかもしれない。なんて心優しい人なんだろう。容姿だけではなくて、心も美しい人なんだな。

彼女が本を一○冊ぐらい抱えて、南北の通路から一年生の校舎に入ろうとしていた時に、敷居があるのでそれを跨いだ瞬間に事件が起きた。体がすこし傾いたので一番上の本が、彼女の横を通り過ぎようとしていた俺の足元に滑り落ちたのだ。その本を拾い上げて、彼女の持っている本の上にそっと置いた。「気を付けて運んでね」もしくは、「半分持ってあげようか」と声を掛けたかったが、俺の唇が開くことはなかった。ただ無言で、本を置いただけだった。

彼女も何も言わず、静かにその場から立ち去ってしまった。
確かに、男の方が何も言葉を発しないのに、女子からは話しかけづらい。本を上に乗せた時に「ハイ」とだけでも良いから声が出ていれば、「ありがとう」という彼女の言葉を聞けたかもしれない。でも、俺の唇は固く閉じたままで、一ミリも開かなかった。彼女も無言でその場を去るしかなかったのだろう。
せっかく神様がくれたチャンスだったのに、ものの見事にしくじったのだ。「これで俺の人生も終わったな」と嘆いたが、もう取り返しがつかなかった。

俺が五組でマドンナが六組なので、教室の北側にある廊下や、南北の通路で見かける事がたびたびあるのだが、一度も目を合わせてはくれなかった。
彼女の噂話をしている男子たちがいると、何気なくその輪に加わって、情報収集をしているのだが、肝心の本人とは口をきいたこともなく、収集した情報が役に立つことはなかった。

休み時間になると、「暇つぶし」の女子たちに取り囲まれたが、「こんな奴らと話なんかする気分になれるわけがないだろう」と思いつつ、話が盛り上がってしまった。意外と話題が面白かった。
この集まって来る女子たちは、俺に憧れているわけでもなく、俺と付き合いたいわけでもないのだが、何となく俺の傍にいて、会話をしているのが楽しいらしい。

いつも俺の周りに集まって来る女子たちとは、気兼ねなく会話ができるのに、なぜか「マドンナ」には話しかけられない。
人生の中では「チャンス」が何度か訪れると思うのだが、その「チャンス」をつかみ取れる人が「成功」という二文字を知ることが出来るのだと思う。「チャンス」が来ているのに、まったく気づかないでボーッとしている人もいるし、「チャンス」が来ても普段の努力が足りなくて、「チャンス」をつかみ取れない人もいる。
ただ、「チャンス」はいつ訪れてくるかわからないので、「今だ」と思ったら、普段の努力が足りなくても、とりあえずその中に飛び込んでしまい、飛び込んだ中で、もがき苦しみながら努力を重ね「成功」へと導いていくといった手段がないわけではないが、たぶん普通の人には難しいことだと思う。

俺にも無理だった。こんなに毎日たくさんの女子と会話をしているのに、たった一人の「マドンナ」には声もかけられなかった。毎日、取り囲んでいる女子たちを大切にして、女子との会話の幅を広げなければ、俺の明日はないと思った。

南北の通路で二人きりになり、彼女の胸の上にある本の束の上に、一冊の本を乗せるといった「シチュエーション」を神様が作ってくれたのに、俺の唇は一ミリも開かなかった。「あ~これが青春の苦しみだ」などと馬鹿なことを考えていたら、その後の授業は、記憶から消えてしまった。何の科目だったのかさえ覚えていない。

翼がないのにふわふわ浮いて 【全22回】 公開日
(その1)舞い降りた天使|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2019年8月7日
(その2)タラチネ|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2019年10月2日
(その3)天使も筆の誤り|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2019年10月31日
(その4)ミトコンド~リア|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2019年11月29日
(その5)爆発だ|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2019年12月26日
(その6)お昼の散策|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年1月31日
(その7)バスの中にぽつんと一人|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年2月28日
(その8)マドンナ|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年3月27日
(その9)水上の天使|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年4月29日
(その10)旅に出る|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年5月29日
(その11)取り上げられた楽しみ|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年6月30日
(その12)マラソン大会|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年7月31日
(その13)修学旅行|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年8月31日
(その14)まさかの運動部|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年9月30日
(その15)厚みのある水彩画|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年10月30日
(その16)真剣で斬られる|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年11月30日
(その17)逃がした人魚は美しかった|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2020年12月28日
(その18)燃え上がる学園祭|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2021年1月29日
(その19)組み立てられた椅子|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2021年2月26日
(その20)粉々に飛び散った砲丸|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2021年3月1日
(その21)打ち抜かれた額|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2021年4月30日
(その22)天使の復活|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2021年5月28日