ピリオド、コンマ、はしがき、目次。
書籍には欠かせないこれらの要素は、ある1人の出版人から誕生しました。
その人の名前はアルド・マヌーツィオ。
アルド・マヌーツィオと聞いてもピンとくる人のほうが少ないでしょう。しかしアルドが書籍の歴史に残した功績は大きく、西洋では「革命者」や「発明者」と呼ばれています。
わずか20年ほどの出版において、アルド・マヌーツィオは具体的にどのような績を残したのでしょうか。
アルド・マヌーツィオは1450年ごろにラツィオ州のバッシアーノという小さな町で生まれました。現在は美味しい生ハムの生産で有名なこの町の小貴族であったアルドは、ローマでラテン語を、のちに北イタリアのフェッラーラでギリシア語を習得したといわれています。
人文主義者として一流の教養を身につけたアルドは、30代で貴族の子弟の家庭教師を勤めるようになります。出版を志したのは40代を過ぎた頃でした。
当時の書籍出版がいわゆる職人気質の工房で行われるのが常であった中、アルド・マヌーツィオは、一流の教養人初の出版人ということになります。
このように書くと、まるで学問に耽溺して高邁な理想の果てに出版を始めたような印象を抱かれるかもしれません。ところがアルドは、商売人としても野心家であり、とにかく売れる書籍を作ることに熱心でした。
余談ではありますが、「ベストセラー」という概念もアルドが出版した書籍から生まれたのです。
商業国として繁栄し思想の自由があったヴェネツィアを起業の地に選んだアルドは、1494年頃にアルド社初の書籍を出版しました。当時無名であった自社の宣伝のために、アルドはライバルと一線を画す戦略を用います。それは、権力者への献辞と書籍の序文です。
まず献辞については、出版した書籍を高名な人物に捧げると記すことで、権力者とのよい関係が築かれるというメリットがありました。アルドが出版した書籍を捧げた相手には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、教皇アレクサンドロス6世の娘でフェッラーラ公妃であったルクレツィア・ボルジア、ナポリ王女でミラノ公妃のイザベッラ・ダラゴーナ、自身が家庭教師を務めていたピオ家の当主などがいました。
これが功を奏して、マクシミリアン1世はマントヴァ公爵フェデリーコ・ゴンザーガへの手紙にアルドを「わが家族(fidele dilecto Aldo Romano familiare nostro)」と記しているほか、ルクレツィア・ボルジアにいたってはアルドの遺言執行人となるほど親しい関係になります。こうしてビッグネームと親しくなることで、アルドの知名度も飛躍的に上がりました。ヨーロッパで大きな影響力を持ち、かつ周辺に書籍を読むエリートたちがいる人々にアルドの存在を認知させることに成功したのです。
もうひとつ、アルドが戦略として利用したのが序文です。序文にはその作品にまつわる逸話が紹介されたり、アルド独特のアイロニーがきいた文章を載せました。「誤植を見つけた読者諸君よ、どうぞ慈悲深くあれ」などという気の利いたフレーズも目につきます。
アルドと読者をつなぐコミュニケーションの場でもあった序文は、自社製品の宣伝の場としても活用されました。「近いうちに数学に関する書籍が出版されます」とか「ダンテの書籍を準備中」といった宣伝文句も、序文に記されていたのです。
友人と語り合うような飄逸な序文は、アルド社独自のスタイルとして定着ファンを増やしていきました。
アルドが我々に残した最大の発明のひとつが「目次」です。それまでの書籍には、たまさか紙に数字がふられているくらいでした。
アルドは教師として非常に厚い書籍を使用していた経験からアルドは、必要な個所を的確かつ早く見つけ出す必要を感じていました。そして目次を必要とした理由に、書籍が手書きから印刷されるようになっても縁が切れなかった誤植への対応です。
印刷による書籍は手書きとは比較にならないほどの量の出版を可能にしましたが、誤植があった場合は修正の対応に苦慮したようです。印刷済みの書籍の修正については手作業で行わざるを得なかったためです。そこで、この余分な仕事を省くためにアルドが考え出したのが「正誤表一覧」でした。印刷後に発覚した誤植をリストにして、本に挟むというやり方です。そして、この正誤表一覧を使用するために必要であったのが「ページ数」と「目次」であったわけです。
アルドはさらに、ページ数だけではなく行数にまで数字をつけるようになり、目次は膨大な量になってしまいました。エラスムスが1508年にアルド社から出版した『格言集』は、著者のエラスムス自身がこの行レベルの目次に文句をつけてページ数のみの目次に戻したというエピソードがあります。ちなみに、1508年にアルド社から刊行された『格言集』は、100年の間に132版を重ねる大ベストセラーとなりました。
アルド・マヌーツィオが発明したと言われている小型の本は、実はそれまでも宗教関係者の間ではミサに携行するため使用されていました。ですから、小型本そのものはアルド独自の発案ではありません。
しかし、一般の読者のために持ち運びが可能な小型本を生み出したのは、まちがいなくアルドでした。それまでの書籍は荘重で立派で、書見台が置かれている部屋に人間が赴くのが通常でした。いっぽう、アルドの生み出した小型本は、人が移動する先に持ち運べるという点で、まさに革命でした。このように読書スタイルが変化したことで、必要な情報を取得るための読書ではなく、娯楽としての読書が定着していったのです。
「八つ折(オッターヴォ)」と呼ばれるアルドの小型本は、大きさが15.4cm×9.4cm。この大きさを可能にするために、アルドはボローニャの金細工職人をスカウトしてイタリック体を編み出しました。それまで使用されていたゴシック体は、エレガントながら読みにくさに難があり、小型本の印刷には不向きでした。イタリック体の使用によって読みやすさは格段に向上し、印刷本において初めてコンマやピリオドも使用されるようになりました。我々が当然のように享受している書籍の要素は、500年前のアルドによってもたらされたものが非常に多いことがわかります。
紙の価格が今とは比べ物にならないほど高価であった当時ですが、印刷技術と小型本の登場によって、書物は一般庶民の手に届く価格にまで下がってりました。記録によればラテン語の文法書は5ソルドで、これは船大工などの熟練工の反日分の給料と同等であったそうです。
教養人であったアルドはギリシアやローマの古典のほか、ルネサンス初期の文学者ダンテやペトラルカの作品、また同時代の知識人であるエラスムスやピエトロ・ベンボの著作など、多くの書籍を出版しています。当時のヴェネツィアにはその他にも200もの出版工房があり、料理やゲームの書籍も出版されていたことがわかっています。
1515年、60代半ばで亡くなったアルド・マヌーツィオはヴェネツィアのサン・パテルニアン教会に葬られました。彼の棺を囲んだのは、アルドが生前に出版した膨大な書籍であったそうです。2015年には彼の500年忌を記念し、イタリア各地で展覧会が催されました。
人文主義者としても商売人としても一流であったアルド・マヌーツィオの功績は、500年後の今も本の世界で生き続けています。
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