イタリアのルネサンスといえば、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロを生み出した黄金時代であり、今もなお多くの人をひきつけてやまない魅力があります。雲霞のごとく芸術が生まれたルネサンスの時代、その粋を込めた美しい書籍は数多く存在します。その中でも出色の出来といわれている一冊は、生涯独身を通したある公爵が注文した聖書でした。
ルネサンス一美しいとされているこの書籍は、フェッラーラの公爵ボルソ・デステが作らせた聖書です。ルネサンスもたけなわの15世紀半ばに完成したこの聖書は、600枚の羊皮紙が用いられた1202ページの大作です。
ボルソ公爵は、この聖書の製作のために羊皮紙などの材料費、文字を書く職人、ミニアチュールを描く芸術家、装丁の職人などなどに総額5610リラ・マルケーゼを払ったと伝えられています。これは、公爵が爵位維持のために毎年神聖ローマ皇帝に納める金額の半分に相当し、当時の書籍としては最高額であるとされています。
端然と並ぶテキストを彩る美しい細密画は、フェッラーラで活躍していた画家タッデーオ・クリヴェッリやフランコ・デイ・ルッシが担当しました。タッデーオ・クリヴェッリは、のちに写実派として名を馳せるアンドレア・マンテーニャに影響を与えたといわれる画家だけに、書籍の挿画といえども遠近法がいかんなく発揮され、この聖書をめくればそれはすなわちルネサンスの美術回廊を巡っている心持ちになると評されているのです。
よほど紙質にもこだわったのか、製作から600年近くたった現在も光り輝くような白色が特徴で、そこから浮かび上がる目にもあやな細密画が一層引き立つという効果をもたらしています。
ちなみに、この聖書の注文主ボルソ・デステ公爵はルネサンス時代の才媛として名高いイザベッラ・デステの伯父にあたります。
ボルソ・デステは先代侯爵の庶子でありながら爵位を継ぎました。政治家としての手腕を振るったボルソ公爵ですが、正嫡でないことに忸怩たる思いがあったと伝えられています。そのため生涯独身を通し、子供も持ちませんでした。ボルソ公爵の跡を継いだのは、先代侯爵の嫡出子であったエルコレ・デステで、これによってエステ家は嫡流に戻ったことになります。
自分の私生活を犠牲にしても理を通したボルソ公爵は経済観念もしっかりしていたようで、名高いスキファノイア宮殿のフレスコ画を描いたフランチェスコ・デル・コッサが昇給を求めた際もあっさり却下、激怒したコッサがフェッラーラを去ってボローニャに工房を構えたというエピソードまで残されています。
つまり、芸術のパトロンであってもそれに溺れることがなかったボルソ公爵、くだんの聖書製作の際にも本領を発揮しました。
1200ページ強の聖書は、公爵の要請通りわずか6年で完成しています。これは、挿画の質や量を考えると当時としては突出したスピードであったことがわかっています。挿画を担当するクリヴェッリやデイ・ルッシが感じたプレッシャーは、タイムリミットだけではありません。1ページが仕上がるごとに、注文主の公爵の承認をもらう必要もあったというのですから、大変なストレスであったことが察せられます。
財布のひもが固い公爵が彩色に用いられた金やラピスラズリをケチらなかったのは、エステ家の紋章がラピスラズリを使用する青の地に鷲の意匠であったためで、エステ家やフェッラーラに関連する動物や植物の挿画もふんだんに盛り込まれています。
書籍を愛好する君主が自らの嗜好で注文したのではなく、フェッラーラの公爵としての権威を誇るプロパガンダであったというのが、ルネサンス一美しい聖書の実態であったわけです。
理由を聞くと興ざめですが、公爵が注文したこの聖書をはじめ数々の宮殿やそれを修飾する芸術も、ルネサンスを代表する傑作中の傑作とされているのですから審美眼だけは確かであったのでしょう。この宮廷から、ルネサンス一の才媛イザベッラ・デステも生まれたわけですから冷徹な公爵の戦略は、後世のわれわれをも愉しませてくれる結果を生んだことになります。
フェッラーラをルネサンスの都にしたエステ家ですが、16世紀の終わりにこの地は教皇領となってしまいます。
それに伴い、公爵の聖書も当主とともにモデナに移動します。1859年、モデナ公国最後の君主フランチェスコ5世は外国への逃亡時にこの聖書を持ち出しています。
1923年、聖書はパリのオークションにかけられ、当時の上院議員でのちにイタリア百科事典を発刊したジョヴァンニ・トレッカーニによって落札されました。当時としては天文学的な数字といわれた500万リラで落札された公爵の聖書はイタリアに寄贈され、現在はモデナのエステンセ図書館に保管されています。
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