文化的著作物を守る「著作権」とは?
文化的な著作物(文芸、学術、美術、音楽などのジャンルに入り、人間の思想、感情を創作的に表現したもの)には著作権が発生します。
自己の著作物を他人に勝手に改変されない権利、公表するかしないかを決める権利など著作者を守るためのルールとして定められている著作権ですが、なぜこのような制度はできたのでしょうか?少し歴史を探ってみましょう。
著作権の世界史概略
著作物は壁画や粘土板、羊皮紙に書かれたものまで含まれ、たくさんありましたが、それらが保護されるという概念は必要ありませんでした。しかし15世紀ドイツのグーテンベルクがは発明した活版印刷技術により、書物の大量生産が可能になり状況は一変します。もともと宗教を広めるために聖書、経典が大量に必要とされていた背景があり、一気に書物が出回ります。
書物のコピーが簡単になると、当然のように海賊版も出回るようになり盗作などの被害も出てきます。そこで書物の価値を守るために著作権の前身となる制度が定められます。1710年イギリスのアン女王が版権保護の法律を定め、フランス、アメリカ、デンマークも各国内で法律が定められました。
19世紀になり「レ・ミゼラブル」を代表作とするビクトル・ユーゴーなどを中心に、国際的に著作権のルールを制定すべきという運動を発端として、1866年スイスのベルヌで著作権保護条約が制定されます(ベルヌ条約)。以下3つの大原則が決まりました。
・条約加盟国の著作物について、自国の著作物と同様の権利を保障すること
・条約加盟前に創作された著作物も、条約加盟国間で保護すること。
・著作権が成立するときに特別な手続きは不要で、創作されたと同時に著作権は成立する
しかし、ベルヌ条約にアメリカが加盟しなかったことが問題となりました。アメリカでは著作権が成立するためには著作物として登録すること、つまり正式な手続きが必要であると定めており、著作権の発生の仕方が異なっています。そうなると国際的な著作権の保護がうまく機能しません。そこで、1952年アメリカが中心となって「万国著作権条約」を成立します。以下、3つの原則が定められました。
・条約加盟国の著作物について、自国の著作物と同様の権利を保障すること
・万国著作権条約に加盟する前の著作物は同条約により保障する必要はない
・Cマーク(コピーライトマーク)を表示する
Cマークの登場
Cマークは、著作者の名前・著作物の公表した年、日付を見やすい位置に表示します。身近にある書籍を見てみましょう。最後のページに必ずCマークが付されています。これ自体に法律的な効果はありませんが、著作権の存在を主張している証明になるため、著作権があることを知らなかったといった言い逃れができないようになるという意味合いがあります。
著作権の日本史概略
福沢諭吉が「copy right」を版権と訳し、1866年には明治政府により、公の場で使われるようになります。1899年に日本もベルヌ条約に加盟します。欧米との不平等条約を解消するための交渉材料として加盟し、旧著作権法が制定されました。
西洋文明を取り入れることに夢中だった当時の日本で、外国の著作物を保護するのは難しい状況でした。1931年ドイツ人のウィルヘルム・プラーゲという人物が、ヨーロッパの主な著作権団体の代理人として、日本での著作権の使用許諾・使用料請求などの活動を開始しました。当時、日本で著作権という意識が薄く、使用料を払うと放送、音楽、出版業界はやっていけなくなる危機に陥ります(プラーゲ旋風)。
そのため政府は、1939年に仲介業務法(第三者に使用許可を与え、著作物使用料をもらうこと)を定めました。社団法人大日本音楽著作権協会(現在のJASRAC)に仲介業務法の許可を与え、ほかの人が仲介業務をできなくなりました。 その後、JASRACは日本の音楽著作権管理を引き受けました。
書籍の内容に音楽の歌詞が出てくるとJASRACに許可を取らなければならない理由には、このような歴史的背景があるのです。
中国での著作権が守られていない状況や、二次創作を許可する同人マークなど著作権は現在進行中の大きなテーマです。表現することが好きな人なら頭の片隅に入れておいてもいいでしょう。