表現者の肖像 伊藤 清
HOME > 伊藤 清 > メッセージ

未来へのメッセージ

 「生と死の接点」という考えを私はいつも持っています。生きることは死との接点上を周回しているように思うのです。さまよっているわけではありません。「死」という「ゼロの交点」を必死に周回しているのです。スピードが緩むと「ゼロの交点」に落ちていく。死に抗って周回するのが生なのかもしれません。

 人間は生まれるには必ずしも理由は問われません。一方、死ぬには理由が要ります。理由なく死ぬことは日本では許されていません。どんな事故死でも原因・理由が付けられます。死亡診断書がそれになります。このように、死にはなんで死ぬかという原因・理由が明らかにされるのに対して、誕生はなぜ生まれるかという具体的、客観的な理由付けを求められることはないのです。

 そこで誕生の意味づけは独自に求められることになります。望まれる誕生もあればそうでないこともある。意味ある誕生があれば意味を見いだせない誕生もある。「私はなぜ生まれてきたの?」という問いかけができるのが誕生なのです。それは死に求められる医学的な理由付けとは明らかに異なるものです。だからこそ、私は生きる意味は自分で創り出さなければならないと考えます。

 昔のように世継・跡継ぎとしてあらかじめ決定づけられた生もあるだろうが、これからは、生の意味づけは自ら創出することが一層、求められるようになると思われます。自分でするわけだからどのような意味づけも可能になる。それは教育とも深く関係するでしょう。

 人は現実から逃避すると生きづらくなる。非日常はルーチンな日常に彩を添える程度のものでなければならない。退屈な日常や苦しい日常を価値あるものとして豊かに輝かせるにはどうすればよいのか。それが、一人一人に求められる本当の生きる力であると私は考えます。それをはぐくむためには、日常の生活の中に夢を見られる想像力をもつことが有効なのではないか、と私は考えます。その夢の中に、生きる指針と希望とを見出すなら、ルーチンな日々を豊かに美しく、確かなものとして過ごせる、本物の生きる力になる、と私は考えています。
 これから生きる若い人たちは、退屈さから逃れたいあまり突飛な行動に訴えたり、非日常の世界に頻繁に飛び込んだりすることは、実りある人生を困難にさせるだけでなく、生きる意味を一層、見出しづらくするように思います。真に生きる意味は日常の退屈さの中にあり、日々、新しく生成させるものだと私は考えているからです。

幻冬舎ルネッサンス

© 2017 GENTOSHA RENAISSANCE SHINSHA,inc.