エントリーナンバー2さみしさ鬼
p5著者名:天野 秀作
暗い部屋を抜け出した桃は、やがて少し大きな川に出た。流れも少し速くなった。水はすっきりと澄んで、川底には小魚の群れが泳いでいた。
「コロちゃん、僕ら、これからどこへ行くの?」
「ご主人、僕らは桃太郎ですよ」
「桃太郎? あの昔話の?」
「ええ、そうです。だからこれから鬼退治に行くんです」
「ええ、そんなん無理や。食べられてしまうで」
「いいえ、これは昔話の桃太郎ではございませんよ、ご主人」
「でも鬼って言うたやん、コロちゃん」
「ええ、言いましたとも。でもその鬼はね、実はみんなの心の中に住んでいる鬼ですよ」
「心の中に住んでる鬼……」
「ほら、あれをごらんなさい」
コロちゃんは川岸で洗濯をしている一人の女性を指差した。
「あれは!」
僕は非常に驚いてその女性を見た。
「ええそうですよ」
「お母ちゃんや、お母ちゃんが洗濯してる。お母ちゃん~ お母ちゃん~」
僕は声を限りに母を呼んだ。しかし母は僕に気付かない。
「コロちゃん、お母ちゃんが行ってしまうよ」
懸命に洗濯する母の真横を僕とコロちゃんを乗せた桃はゆっくりと通り過ぎて行く。
「あかん! あかん! お母ちゃん、僕、僕、ここや! ここにおるねん」
すると母は一瞬その手を止めてちらりと僕の方を見た。
「気ぃ付いてくれた。お母ちゃん、僕や、僕ここにおるねん」
しかし、母は再び何もなかったようにゴシゴシと手を動かし始めた。
「何でなん? 何で拾ってくれへんの?」
「鬼だからです」
「え、お母ちゃんは鬼ちゃう」
「ご主人は、まだ小さくて、見えないのかもしれないですが、そいつが鬼なのです」
「お母ちゃんに鬼が化けてるのん?」
「ええ、化けてご主人の心の中に住み着いているのです」
「鬼の正体は見えへんの? 赤鬼なん? 青鬼なん? それとも名前のない鬼?」
「目には見えませんが名前はありますよ」
「名前は?」
「そいつの名前はね、"淋しさ鬼„です。ご主人」
「淋しさ鬼……」
「ええ、そうです。わたしが吠えてそいつをご主人の心から追い出して見せますよ」
そう言うなりコロちゃんは、母に化けた鬼に向かって激しく吠え出した。
するとたちどころに辺りの景色は消え去り、天井の橙色のナツメ球が侘しげな光を放っていた。元の和室だった。僕は目覚めた。やはり夢を見ていたのだろうか。