WEB小説コンテスト「イチオシ!」

エントリーナンバー3 カップの底に見えたものベリーダンサー・カメリアの物語

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著者名:富澤 規子

 70年代カナダの、とあるギリシャレストランでの出来事だった。

 広いレストランの片隅にうずくまる占い師が、「こっちにおいで」と踊り子を呼び止めた。いつも黒い服を着て、カップのコーヒー滓を占う老婆だった。珍しいアジア人の踊り子を老婆は商売の傍ら視線で追っていた。

 薄暗い照明にもきらびやかなベリーダンスの衣装、背が高く、アジア人らしい滝のような黒髪を背に流す華のある後ろ姿。

 老婆はショーが終わった後「こっちに来てコーヒーを飲め」と踊り子を呼び止めた。すでに夜更けであった。こういったレストランのショーは開始がすでに深夜だ。こんな時間にコーヒーを飲んだら眠れなくなる。それでも占い師はコーヒーを強いる。お代はいらないから「今日、お前はコーヒーを飲まなくてはならないよ」と譲らない。

 踊り子はとうとう根負けして、黒衣の老婆の前に座った。

 コーヒーカップ占い。

 深煎りしたカルダモン入りのコーヒー粉を砂糖と煮詰め、手のひらに納まる小さなカップに注いで上澄みを飲む。飲み終わったらカップを受け皿に伏せ、カップの底を流れるコーヒー滓の形を占う。

 それを占う者をカイロ方言で「カリアトルフィンガーン」と言う。アラブ人なら誰もが知る1976年にエジプトでリリースされた歌謡曲のタイトルでもある。

جلست والخوف بعينيها تتأمل فنجاني المقلوب
彼女は両目を憂わせて座ると
僕のひっくり返したカップを眺めた
قالت يا ولدي لا تحزن فالحب عليك هو المكتوب يا ولدي
ねえ坊や 悲しんではだめよ と彼女は言った
お前のせおうべき愛はしめされているのよ 坊や
يا ولدي قد مات شهيدا من مات فداء للمحبوب
ねえ坊や 犠牲になって死んでしまったよ
愛しいもののあがないに死んだ者がね

 その歌詞の情景さながらに、踊り子が飲み干したカップの底を占い師はのぞきこむ。

「見てごらん、椿の花が見える。お前、今日からカメリアと名乗らなきゃいけないよ」

 有無を言わせぬ占い師の言葉に、踊り子は郷里である外房の千倉を思い出す。

 そう言えば実家の前には大きな椿があって、小さい頃はその蜜をよく吸っていた。母親はいつも椿油を髪につけていたっけ。

 もう八年も日本に帰っていない。それがひどく罪なことのようにも思えてきた。

 カメリア……椿……Kamellia。

 踊り子は占い師の言葉に従った。カメリアの頭文字をCではなくKとしたのは、祖先につながる金英子(キムヨンジャ)の名をどこかに残したかったからだ。

 コーヒーカップの底には、彼女の未来と幼い日の景色が確かにしめされていた。