WEB小説コンテスト「イチオシ!」

エントリーナンバー3 カップの底に見えたものベリーダンサー・カメリアの物語

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著者名:富澤 規子

 金英子は1949年、千葉県千倉に生まれ、そこで育った。一家は韓国済州島で海女を営んでいたが、彼女が生まれる以前に千倉に移り住み、やはり海女を生業としていた。朝鮮戦争の只中であり、済州島では韓国軍の粛清により島民の多くが虐殺された時代である。

 幼い英子がどこまでそれを理解していたのかは知る由もないが、故郷に帰れないという大人達の重い空気を察してはいたのだろう。幼い頃、英子は自分は本当にここに居ていいのだろうかと言いようない疎外感をいつも感じていたと言う。

 海に潜りアワビを採る母親を待ちながら、英子は海女小屋から千倉の海を眺めて成長した。海から上がった母は海女小屋で火に当たりながら、採れたてのサザエを焼いて英子に食べさせてくれた。そして売り物にならないアワビを近所の人達に分けていた。彼女の千倉の思い出には、いつも優しく慎ましやかな母の姿がある。母が潜る海を見て、内向的な少女はいつもあの彼方に行きたいと願っていた。

 カメリアが千倉に里帰りすると、親戚や同級生など地元の人達が集まってくる。皆が「英子(えいこ)ちゃん、英子ちゃん」と昔話に花を咲かす。彼らにとって彼女はモロッコ王に寵愛されたダンサーではなく、いつまでも「英子ちゃん」のままなのだろう。

 彼らに聞くと、英子は背が高く大人びた静かな雰囲気で、勉強ばかりしている少女時代だったようだ。特に英語が得意だった。いつかどこかに、海の向こうに行きたいと願い、その少女らしい夢のために英語の勉強は怠らなかった。

 彼女は地元の公立校で小学校から高等学校までの教育を受けた。だから韓国語はまったくわからず、母語は日本語だ。ところが長年の夢がかなう一歩手前で英子はどうにもならない障害に突き当たる。日本国籍でないとの理由でスチュワーデスの最終試験を落とされたのだ。

 その頃、母親が亡くなった。まだ40代で癌の進行が早く、英子は六ヶ月もの入院生活に付き添い母のそばから片時も離れなかった。母親は彼女にとってただ一人の人である父親を最後まで強く愛する一途な女性だった。

 母親を看取った後、何かが弾けてしまったように英子は鞄一つで日本を飛び出てアメリカに渡っていた。1970年、英子はまだ二十歳だった。幸いにも英語ができたので、ベビーシッターなどのアルバイトで食いつなぐことだけはできた。

 彼女の放浪の始まりである。