表現者インタビュー
夫婦「二人三脚」で歩んだ 「空の国」への遠い道
『空の国』が刊行されて、いまのお気持ちはいかがですか。
波田野:1年4か月という制作期間を経て、「やれることはすべてやりきった」と感じています。ぼくは「生々流転」を座右の銘としています。これは、本書のテーマの一つでもあり、二十歳くらいから、自分の中に根づいてきた考えです。あらゆる物事は「生々流転」であり、「諸行無常」である。それは変わらない真理です。
けれど、これはなんだか受動的な印象を受ける言葉だと思いませんか? ぼくは、「いま」を生きる以上、水のように「いきたい」と常づね考えていました。水は変幻自在に姿を変えながら、狭い場所では狭く、広い場所では広くスペースをとりながら、止まることなく、どんどん海へと流れていきます。ぼくは、この「いく」という概念がとても好きです。未来に向かって、流れるように、「行きたい」し、「生きたい」。
こうした信念からか、カイラス山を目指すことにも、躊躇はしませんでした。「やらなければならない」という強い思いがあった。それは、「覚悟」といってもいいかもしれません。
リナ:「義母の散骨をするために、カイラス山に行く」と、主人から初めて聞いたとき、止めようとは思いませんでした。このひとは、きっとカイラスに行くだろうことを、知っていたから。言ったことは、必ず実行するひとです。私がどんなに反対しても、自分の意思で決めたことは、最後まで貫き通すひとだと、わかっていたから。
「帰ってこなかったら、ごめんね」 ——口からこぼれた「本音」と「覚悟」
奥さまも波田野さまとともにカイラス山に行くことを決意された、その経緯をお聞かせください。
リナ:カイラスという場所は、簡単に行けるところではありません。主人が未知の世界を目指すにあたって、たくさん情報を調べたりしました。あくまで「サポートする側」だったのですが、結局は、一緒に行くことに決めたのです。主人のことが、すごく心配でした。散骨のために行って、それで死んだら元も子もない。とにかく、生きて帰ってきてほしかった。一人で行くよりは、二人で目指したほうが、なんとかなると考えたんです。
波田野:一人で行くつもりでした。それが妻にある日、「帰ってこなかったら、ごめんね」と口を滑らせてしまったんです。実際、そのくらいの覚悟でした。それでも行こうと心に決めていたのですが。
男には、「勝負のとき」があるんです。挑戦したところで、失敗に終わるかもしれないけど、「やらなきゃいけないとき」がある。チャレンジしなければ、その先には決して進めない。もちろん、家族も大切です。しかしぼくは、家族だからこそ、信頼しているからこそ、相手の意思を尊重しなければならないと思う。
リナ:私は、「MARGA RINA」という天然石のアクセサリーショップを経営しています。会社員だったころ、友人のためにビーズのアクセサリーをつくったことがきっかけで、アクセサリーづくりに目覚めました。それから天然石の魅力に気づき、脱サラして、天然石を扱うアクセサリーショップをネットでオープンしたのです。振りかえれば、ツテもビジョンもない、勢いありきの行動でしたが、そのときも、主人はなにも言いませんでしたね。「会社を辞める」と伝えたときのほうが、驚いていたかもしれない。それでも主人は、絶対に私を止めませんでした。
波田野:自分以外の他人の人生に口を出さないこと。それは、ぼくの信念です。絶対に邪魔はしませんが、自分の蒔いた種は、自分で刈り取ること。それは、相手への信頼がなければできないことです。相手の「自由」を尊重し、その「自由」を相手に与えることが大切だと考えています。
死にゆく母親へ送った「願い」と、 継承されるべき「思い」
おふたりの二人三脚で、「空の国」への道が拓き、お母さまの散骨が実現したのですね。
波田野:母と言えば、不思議なエピソードがあるんですよ。母との最後の会話で、ターコイズを渡したんです。ターコイズは、アメリカ・インディアンの装飾品として有名ですね。インディアンたちはこの石を呪いや呪術に使いますが、旅のおまもりであり、「勇気の石」と言われています。
ぼくは、「死」という未知の領域に向かっていたであろう母に、勇気を持って臨んでほしかった。「死の恐怖に飲み込まれることなく、新たな領域に、胸を張って進んでいけますように」という願いを込めて。そして、「離れてしまっても、同じ空の下にいます」というメッセージも込めました。ターコイズは、「空の石」とも呼ばれているんですよ。最後に直接手渡しすることができて、後悔はありません。
母の死後、病院で遺品の整理をしたのですが、このターコイズがどうしても見つかりませんでした。病院に持ち込んだものは、ごくわずかだったのに。母が死後の世界に旅だつときに、一緒に持っていったんじゃないかな?
ターコイズの石は、お母さまの「旅出」のおまもりとなったのでしょうか。
波田野:妻は、天然石それぞれの「良さ」や「個性」を掴みとり、それぞれの石の「組み合わせ」を考え、アクセサリーという形にする仕事をしています。それに対してぼくは、昔から、天然石の美しさそのものに惹かれていました。「美しさ」というよりも、石の「普遍性」というか、「永遠性」に惹かれていたと言っていいかもしれません。
たとえば、日本では、古くから水晶が崇められていますね。先のターコイズにせよ水晶にせよ、天然石は、何千年、何万年という長い時間をかけて、ゆっくりゆっくりできあがるものです。そう簡単には壊れない。きっと天然石って、世界で一番長もちするものなんじゃないかな。そしてそれは「おまもり」となり、親から子、子から孫へと、代々継承していく。
ぼくは、石を形成した大自然の営みと、それを受け継いでゆく人間の営みの両方に、「永遠」を強く感じるんです。石は、「一族のおまもり」として、「一家の家宝」として、次の世代に継承してゆける。
妻の経営を間近で見ていて感じるのですが、最近は、「宝飾」といえば、「高価」「きらびやか」「手が届かない」といったイメージが先行している。しかし、「身を飾る」ということの原点は、「おまもり」なんです。それを忘れてはいけません。どんな天然石でも、その価値は単純に「綺麗だから」、「希少価値があるから」というだけで測れるものではない。それは、「受け継がれる」ところに価値があるんです。そうして、人間の長い歴史のなかで、さまざまな石がずっと崇めれてきたのは、受け継がれる側の「思い」と、受け継ぐ側の「思い」が詰まっていて、過去から現在、未来へと、人と人とをつないでくれるものだからだと思う。
「新しい時代」のなかで 「古きもの」に「命」を吹き込む
波田野:実は、本書の執筆を決意したのは、この「継承」という願いがあってのことなんです。母は戦中・戦後の壮絶な時代を生きました。その母が死んで、一つの世代がなくなったことを感じました。そして、このように日々「世代交代」が為されていくことに、すこしだけ危機感を覚えたんです。
波田野さまの信念である「諸行無常」「生々流転」と、近いものがありますね。
波田野:新しい時代に向かうのは、とても良いことです。しかしその一方で、何百年、何千年と続いてきたものが、だんだんと消えてゆくことを感じています。古きものが去り、新しいものが残るというのは、もしかすると自然なことなのかもしれない。けれど、「古きもの」が「良くないもの」というわけではないでしょう。一見古く感じるものでも、捨て去るのは簡単ですが、形骸化して意味を失った「古きもの」に、新しい命を吹き込むことで、より良い未来が拓けるかもしれない。
ぼくは、今年で46歳になりました。寿命の半分を過ぎたわけですが、「いまを生きる世代」であり、連綿と続いてきた世代交代の末の「次世代」でもある。「古きもの」に新しい「命」を吹き込むことこそ、「次世代」である自分の使命なのではないか。いよいよ自分が、世界に対してなにかを提案しなくてはならないのではないか。そう考えた末の一つの答えが、「出版」だったんです。
「いまを担う世代」として「次世代」に送る、 新たな物語を
波田野:「物語」は、道に迷ったときや悩んだときなど、生きていくうえでのヒントとなるものです。古代から人間は、その集団ごとの「長」にあたる人が、「たとえ話」や「教訓」として、物語を話して聞かせる習慣がありました。「物語」には、代々受け継がれてきた「智慧」や「願い」、「思想」が込められています。
最近では、その「物語」が、テレビドラマやゲームのストーリーに取って代わられているようにも思えます。もちろん、テレビドラマやゲームは一つの立派な文化かもしれませんが、代々伝わってきた「智慧」が込められた物語に叶うはずがない。長く継承される物語を、もっと大切にしてほしい。ぼくは、執筆活動に入るまでは、どこにでもいるようなただのサラリーマンでした。毎日売り上げを気にしていて、休みはあまりなくて、特別に大儲けしているわけでもなかった。けれど、自分も次世代に継承すべき「物語」を紡ぎたかったのです。
時代が進み、日進月歩の速さでテクノロジーが進化するなかで、物語を読む時間がない、テレビを見るひまがない、ゲームをする余裕もない……といった人が増えています。あらゆる人が「時間不足」で、なにかに追われる生活を送っています。過去の神話の力が、無効化される時代になった。
そのような状況のなかで、自分が遺す「物語」として、カイラス山についてのノンフィクションを書くことを決めました。
執筆・制作にあたっての「こだわり」をお聞かせください。
波田野:「いま」という時に合うように、極限までシンプルにすることを心がけました。さらっと読んでもらうために、原稿量が少なくなるようにしました。そして、チベットの町並みやカイラス山の情景が、美しい写真のみで読者の脳裏に想起されるような構成にしました。
人は、普遍的なものをつまらなく感じるものです。いつもそこにあるものや、当たり前のこと。けれど、この本は、「いろいろな気づき」をもたらす「普遍性」に、読者に触れてもらうことを目指しました。読者のみなさんが、時間に追われる生活を送っていたとしても、この本を読むことで、すこしでも落ちついた時間を過ごしてほしい。そして、書籍に秘められた「なにか」に気づいて、カイラス山の美しいイメージを膨らませていただければ、著者として幸せです。そして、幸運なことにエベレストやカイラス山に行く機会や条件があるのなら、ぜひとも行動を起こしてほしいなと、切に思います。人間みんな、やらなきゃいけないときは、やらなきゃならないんですからね。