エントリーナンバー1四十円
p7著者名:中條 てい
――この感じ……。
不意に蘇ったものがある。耳の奥に懐かしいあの曲が流れて、大掃除の途中で見つけた古い手帳を読みふけるように俺はゴミ袋を足元に置いたままステップに腰を下ろした。
洋楽に早熟だった俺は、中学時代、叔父の家にあった当時でさえすでに廃盤になっていた一枚のレコードアルバムにはまっていた。中でもぞっこんだったのはメイン収録された曲じゃなく、八曲目に入っていた地味なやつで、おそらくこれの良さがわかるのは世界中で俺だけなんじゃないか、くらいに思っていたものだ
ところが高校生のとき、ラジオの深夜放送を聴いていたらこの曲をリクエストしてきた者がいて仰天した。俺以上の熱弁をふるい、発掘の自負をこいていたが、そのハガキに俺と同じく狂喜したDJがいたことにも身震いした。匿名の相手はもちろんのこと、DJの顔すら知らなかったけれど、あのとき、実生活ではまったく無関係な俺たち三人が放つ意識の放電が神聖なトライアングルを形作ったのを俺はまざまざと感じた。
あれに比べればどうってことないが……。俺はステップの端に積まれた硬貨を横目で見遣り、一人ほくそ笑んだ。そして手に取り、五円玉の位置をもう一枚下に入れ替えて元のところにきっちり戻しておいた。
今日の午後には女房が帰ってきて、ひとしきりコンポステラだかの土産話を聞かせるだろう。そのあと、「そっちはどうだったの」と俺に振り向けたなら、俺はむずむずする気持ちを押し殺して「いや、特にないよ」といつものように惚けていようか。ゴミ袋をぶら下げて歩きながら、愉快という気持ちは、まさに俺の今をさしていうのだと思った。
家に戻るとすぐに画用紙に向かった。無造作にいくつもの点を配置して、その一点ずつから傾斜が異なる十字線を引く。線はなんの作為もなく紙の四辺にまっすぐ向かって引くだけだけれど、偶然の交差が形や大きさのちがう三角や四角を作り出していった。平面的な図はまるで下手くそな蜘蛛が張った巣のようなものだが、そこに生じた三角形に色を塗っていくと、次第に立体的な錯覚に陥っていく。順に色を薄めたり変えたりしていくと、蜘蛛の巣は見る間に奥行きの深い迷宮へと変化していった。
一つの点を俺だとすると、俺の頭の上、踵、広げた両手の先端から線が四方に果てしなく伸びていく。その線が、俺が見届けられないほど先で、どこかの点から伸びてきた何本かの線と交わり形を作っている。いくつもいくつも、俺も知らないし、他の点たちも気づきもしないところで、それは思いがけず生まれているのだ。稀に、あのレコードのようにささやかな瞬間が訪れ、人はそんな接触に気づくこともあるけれど、はたしてこの網の目の中で、俺はどれだけのものを知らないままに生きているのだろうか。俺は生み出された最も小さな三角形を際立つように赤く塗った。これが俺の、いや俺たちの四十円の在処だ。
時間も忘れ没頭していたら、玄関で物音がした。仕事場から顔を出すと、女房が大きなスーツケースとともに帰還し、上がり端に座って靴ひもを解いているところだった。もうこんな時間だったのか。「おかえり」
声をかけると、いつもならちょっとそこから帰ってきたように「ただいま」と応じる女房が、俺の顔を見るなり、
「ねえねえ、これって巡礼してきたご利益ってことかしら」
余程うれしいことでもあったと見えて、靴を振り落として上がってきた。
「帰ってくるなりね、うちのステップでお金拾っちゃった! そこだよ、そこ。あなた気づかなかった? 」
子どものように目を丸くした女房が上着のポケットから突き出した手に、
「あ、それ……」
四十五円が握られていた。
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