表現者の肖像 石橋直道
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1991年

22.平成3年(1991年)、私の年齢:58歳、バングラデシュ、首都ダッカ、洪水防御・雨水排水施設の整備。

熱帯地方に遍在するブーゲンビリアの花。暗さや逡巡と対極をなす、一方的に明るく情熱的なこの花を、私は大好きである。

23.

洪水の季節である6~10月の雨季の間、バングラデシュの国土の1/3が水中に没する。写真の光景は海でも湖でもない。乾季においては、広大な田圃地帯であった。

24.平成3年(1991年)、私の年齢:59歳、インドネシア、バリ島州都デンパサール、下水道の整備。

バリ島では人が死ぬと、遺体を納めた棺を載せた神輿を、村人総出で海岸に運び、そこで村人が見守る中、遺体は火葬に付され、最後に海に放たれる。人々は、お祭りのように、喜々として死者を天国に旅立たせる。写真は棺を担ぐ村人たち。

25.

インドネシア固有の打楽器ガメランが、「天国の音楽はさもありなん」との思いを抱かせる響きを奏でる中、若き踊り子たちが妖艶華麗な舞踊を舞台いっぱいに繰り広げる。バリダンスは、踊りだけのものと古典劇にのっとったものとがあるが、いずれであれ、私は、音と色彩と動きの絶妙なハーモニーを我を忘れて鑑賞した。

26.

私をアシストしてくれた州政府の若人たち。気立ての優しい、善良で大らかな人たちばかりであった。

27.

私の大好きな赤いブーゲンビリアの花と一緒に、満面笑顔の私。

1993年

28.平成5年(1993年)、私の年齢:61歳、セネガル、首都ダカール、下水・排水施設の整備。

道端で無心に遊んでいた子供たちの、自然で純粋無垢の笑顔が忘れられない。

1994年

29.平成6年(1994年)、私の年齢:62歳、メキシコ、首都メキシコシティー、下水処理施設の建設。

或る週末に、調査団は、メキシコ東岸の世界的に有名な観光地、カンクンを訪れた。海の独特の透き通った青さは、忘れ難い思い出として私の脳髄に刻み込まれた。

30.

メキシコシティーの公園にたむろして、粋ないでたちで音楽を演奏する野外音楽隊、マリアッチ。顧客の求めに従って、有料で、曲を即座に生演奏してくれる。私も一度トライした。期待通りのパフォーマンスに、私はしばし酔いしれた。

31.

或る日、メキシコシティー側が、私たち調査団の労をねぎらって、バーベキューパーティーを開いてくれた。私たちは、陽気なメキシコ人たちと一緒になって、色々な珍しい、おいしい土地の料理をたらふく食べ、笑い、そして友情を深めた。

32.

世帯の水道水利用の実態を把握するため、メキシコ盆地大学(直訳)の学生たちを使ってアンケートを実施した。写真は、調査が無事終わって、お礼の挨拶のため、関係の学部長(左)と教授(右)を訪れた時のもの。学部長は先住民系と思われ、彼女は、当時世界に名を馳せていた我が国の名優、三船敏郎を絶賛していた。三船はメキシコ映画にも主役として出演していた。

1995年

33.平成7年(1995年)、私の年齢:62歳、エチオピア、首都アジスアベバ、水道施設の増設と衛生改善。

現地人団員と私。彼は私とほぼ同年代で、活発に仕事をこなし、お気持ちも若さに溢れていた。その秘訣を問うと、彼は、常時摂っている蜂蜜のお陰だと思う、と答えた。蜂蜜の採集は当国では太古より盛んで、現在、その生産量はアフリカ最大と言われている。

34.

首都から北方500キロに位置する、調査対象の11都市に向かう途中、遭遇した田舎の少女の一団。一同、同じような髪型、服装で、同じように何かを背負い、同じように裸足であった。何者かを尋ねるのを忘れてしまったが、彼女らの素朴そのもののたたずまいを未だに忘れることができない。

35.

上記の道中で、駱駝の集団にも何回か出会った。エチオピアでは駱駝が運搬用に使われているのを見たことがなく、私の出会った駱駝は、みな放牧中であった。もしかして食肉用若しくは酪農用に飼育されているのかも知れない。

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